【X年十月九日(参)】
 
 君は歩道に立って、高々と手を上げていた。近づいてくるタクシーはみな客をのせているようだ。この時間では当然かも知れない。私は君に歩み寄って言った。
「いいよ、ぶらぶら歩いていこう。ホテルまでいくらもないだろう。」
 石畳を歩き始めると、君は、
「でも、平気ですか? いくらもないって、けっこうありますよ?」
「そう年寄り扱いするな。明日はもう、あのせかせかした東京にいるんだ。京都の風情を、心ゆくまで楽しむとしよう。」
 私は夜空を見上げた。いにしえの都は今でも大都会であり、街を覆った闇は淡く薄い。だがその淡さの中には、東京の夜が決して持たない優美さがあった。私たちを追い越して流れるテールランプは、わずかに輪郭をにじませて重なりあい、まるで川面をたゆとう赤い蛍のようで、私は君と二人、光の川を下っているような、幸せな錯覚に心をまかせていた。ときおり鼻に届く甘い香りは、君の首に掛かった小粋な青絹のスカーフだろう。
「先生、腹へってません?」
 現実的なことを君は聞いた。そういえば昼以来、固形物は何も口にしていない。この時間ではもう、ホテルのレストランも閉まっている。
「そうだな…。」
 次に続けようとした私の台詞と、全く同じことを君は言った。
「どっかで食べていきませんか。酒っぽい店になっちゃうだろうけど、腹にたまるものちゃんと食べとけば。」
 京の道は誰もが知る通り、縦横の碁盤の目である。君は、嗅覚鋭い警察犬のように、酒の匂いと陽気な音楽で賑わう界隈を探しあてた。目隠ししていきなり連れてこられたら、青山だと言われても信じられそうな一角で君は足を止め、
「ちょっと、騒がしいですかね。」
 完全に若者の顔になって言った。私としてはもっと静かな、落ち着けるバアがよかったが、君はむしろ、こういう雰囲気の方がいいのだろう。
「いいよ。君にまかせる。」
 そう答えると君は、じゃあ…と少し迷って、人差指で真横を指し、地下への階段を降りていった。看板には『サイプレス』とある。クラブであろう。君は慣れた様子でドアを開き、ライトの回る薄暗い店内へと私を促した。入るなりドラムの音が鼓膜を打った。さほど混みあってはいなかったが、店のほぼ半分を占めるダンススペースでは若い男女が揺れていて、君は身軽に人の間をすりぬけ、店の奥へと進んでいった。
「カウンターは…あいてない? あ、そう。じゃあ…いいですよね先生、シートでも。」
 初めて来たとは思えない気安さで君は従業員に話しかけ、壁ぎわの広い席を私たちの場所に決めた。酒も料理も、私は君に任せておけばよかった。くつろいだ様子で君は上着を脱ぎ、ポケットから煙草とライターを出してテーブルに置いた。
「先生は、こういう店にはあまり来ないですか。」
 大声をはりあげる必要はないが、小声を聞きとるのは無理だった。君はテーブルのむこうで、少し首を突き出して言った。
「ああ、ほとんどないね。以前甥に連れて行かれたことはあるが。」
「こういうとこって、わりと料理いいんですよ。へたなファミレスよりも美味いです。」
 君は煙草を一本抜き取ってくわえ、火をつけると、
「ちょっと…日本の伝統にずっと漬かってましたからね、ここいらで少し、戻しとかないと。」
ニヤリと笑って、かすかに肩をすくめた。グラスが届けられ、私たちは乾杯した。
「いろいろ、ありがとうございました。」
 君は言った。私は、君がロックグラスを傾けるさまを見つめながら、この二日間は君には、少し窮屈だったかなと思った。平等院だ遼山亭だ祇園の茶屋だと(こちらは君も楽しんでいたようだが)、君は世代の違う私や椎葉の間で、実はずいぶん気疲れしたのかも知れない。
「指は、大丈夫か。」
「指?」
「さっき言っていたろう。梅擬で切ったと。」
「あ、あああれ。…忘れてました。」
「そうか。じゃあ大丈夫だな。」
「はい。あれしきの怪我、バイトではしょっちゅうですよ。」
「バイト…そうか、君はフラワーセンターにいるんだったな。」
「ええ。花屋って、見ためより重労働ですよね。腰が痛くって、帰ってからサロンパス貼ることあります。」
「おいおいそんな若いうちから。」
「だって腰はね。大事にしないと。特に男は。」
 君は言い、クスクスと笑った。私の作品を手伝って、懸命に動いてくれた君の姿を私は思い出した。指を切ったのに治療もせず、君は作業を続けていたのだ。そう思うと胸にはまた、愛しさがこみあげた。
 料理が次々運ばれてきた。確かに味は悪くない。君はぺろりとピザを平らげ、さらにグラスを追加した。フロアでDJが何か冗談を言ったらしく、どっと笑い声が上がった。しきりにそちらを見る君に、
「踊ってくればいい。私にはもう気を遣わなくていいから。」
 そう言うと君は、
「先生は踊らないんですか? 全然?」
「ああ、私はからきし駄目だ。ここでゆっくり飲んでいるから、踊ってきなさい。」
「いいんですか? じゃ…ちょっと。」
「ああ。」
 弾むような足どりで若者の群れに入っていく背中を、私は見守った。この席からフロアはよく見渡せる。一段低くなったダンススペースのどこに君がいるか、見失うはずのない席だった。君のしなやかな肢体は、リズムに合わせて動き、回転し、いつしか周りの視線を釘付けにしていた。シャープで現代的なこういう場となったら、千年王城の地といえども東京の敵ではない。渋谷六本木で鳴らしている君の、垢抜け方は群を抜いていた。ライトを受けて髪をなびかせ、ダブルターン、さらにトリプルターンまで君が易々と決めると、あたりに流れる溜息は、私のもとまで届きそうだった。君は楽しげだった。もしかしたらこの二日間で一番、今が楽しいのかも知れない。私は酒を一口飲み、取り巻きと化してしまった者たちの歓声を受けて、踊り続ける君を見つめた。
 折り目正しい君の態度は、あれは一種の防御なのだ。私は突然そう思った。
 他人の立場を思いやったり、自己をわきまえて控えめにしたりする君は、もちろん生まれ持った聡明さなくしてはできないことであるけれども、決して君本来の素直な姿ではない。拓、…君は、めったなことで人に本心を見せない。そう、自分の過去を決して語らないのと同じく。思慮深く思いやりに満ちたいい子の君は、作品に添える君の名乗りの、『T・K』という仮面をつけている。本名を嫌う君の身上を、ほじくり返すつもりはない。だが、先程の激しい憤りが、君の素顔の一部だとしたら…。
 私は、この二日間に感謝しなければならない。知り合ってのち二年を過ぎて、ようやく君は私に心を開き始めている。
 曲調が変わると、君の周りには女の人垣ができた。祇園の千代菊に認められた君にとって、素人の小娘など難なく落とせる相手だろう。目のやり場に困るようなミニスカートの女、ちぢれた髪を奇妙な形に結い上げた女、目の上に宇宙人めいた金粉を塗りたくった女などが、次々君に話しかけ、君の腕を求めてすりよった。君は彼女たちに惜しげもなく笑顔をふりまき、やがてその中の一人と、動きを合わせて踊り始めた。向かい合って腰をくねらせる挑発的なステップ、後ろから体に手を回す扇情的な動きをしながら、君はその女と何かささやき合っていた。私には入り込めない世界で、君は魅力の限りを発散させていた。
 やがて君はフロアを抜けた。ミニスカートの女が、当然の顔をしてついてきた。反対側にもう一人、長い黒髪の女がいる。左右に女を従えて、君はこちらへ歩いてきた。何だろうと思っているうち、彼女らは猫のように、私たちの席に座ってしまった。もとより六人掛けの場所だから狭くはないが、二人に会釈されて私は当惑した。君は平然として、何飲む? などと尋ねている。私と目が合うとウインクして、小さく親指を立ててみせた。
「へええ、そうなん。東京の人なんや。仕事で来はったん?」
 鼻にかかった甘え声でミニスカートは聞いた。
「うん。仕事っていうか、先生のお手伝い。…こちらがね、俺の先生。有名なアーティストなんだよ。」
「いやあ、すごいわぁ、ほんま? アーティストの先生なんや。」
 女たちは私に、十分媚びた目で笑いかけた。最も苦手な空気であったが、君はもちろんそんなことは知らない。
「でもお、お茶とお華やってはるやなんて、えらいカッコええわぁ。」
 黒髪が君の膝に手を置いて言った。お茶とお華がカッコいい。彼女らにしてみれば両者は、アクセサリーのようなものなのだろう。私は、二十歳そこそこと思われる二人の娘を観察した。顔も体も、世間一般で言ういわゆる『いい女』には違いない。群がる女たちの中から君は、バイキングで好みの皿を選ぶように、ナンバー1とナンバー2をチョイスしてきたのだ。どちらか一人は私のためのつもりだろう。若者らしい、だがひどく的外れな君のサービスに、私は内心苦笑いした。
 乾杯につきあい、話もしたが、所詮私は楽しめなかった。しかし君は、二人が化粧室に立ったところで、するすると私の隣ににじり寄り、
「…どっか、消えていいですよ。」
 私の耳に口を寄せ、暖かい息とともに囁いた。髪が揺れ、飛沫ほどの微かさで私の頬に触れた。戦慄がズキンと私を貫いた。もう何十年も前、始めて関係を持ったとき、その男はこうして私の耳に囁いたのだ。『どこか、消えようか…』。封印したはずの記憶を、君の一言が甦らせた。もう少しで私は、君を思いきり抱きよせるところだった。言葉は似ていても意味が違う。君は私に、先にどちらかの女を選んで、彼女と二人で消えていいと言っているのだ。
「平気ですって。帰っても伊東さんとかには黙ってますから。」
 別に彼とはそんな間柄ではない。弁明しかけて私は、これまた君の言いたいのは、単に共犯者宣言に過ぎないと気づいた。遊び慣れた君がいつも仲間と交わしている、サインの一つなのである。
「君は、どっちがいいんだ?」
 柄にもなく私は言ってみた。君は我が意を得たりと顔じゅうで笑って、
「それ言っちゃったらズルですよ。先生が先でいいですって。」
「いや、私は…。」
 そんなことを言っているうちに女が帰ってきた。君は二人の間に戻った。
 もてる、というのはすなわち、魅きつけるエネルギーが人より強いということだ。君が女に向ける関心は人一倍強く、肌を合わせる欲望も、人並み以上かも知れない。私には場違いだ。そうつぶやく自分の声を、私は聞いた。
 急に立ち上がった私を、君は驚いて見上げた。
「悪いが、失礼するよ。もう時間も遅いし、明日も仕事だから。ああ、君はいいよ。ゆっくり楽しんできなさい。」
「いえ、先生…」
「じゃ、君たちもごゆっくり。」
 女二人の肩をそれぞれ叩いて、私は言った。
「素敵だろう? 彼は。よろしく頼むよ。」
 私は思い切るように背を向け、歩き始めた。従業員に言って支払いをし、店を出、地上に戻った。
 我ながら小さい男だなと思った。どこの誰とどのように振る舞おうとも、君が楽しいならいいではないか。もっと大らかに構えることが、なぜできないのかと思った。君のためだなどと偉そうに小言を言っておいて、つまり私も自分がかわいいのだ。君を私一人のものにしておきたい。地獄をはいずる餓鬼のような、卑しいこの感情から、私はついに逃れ得ないのかも知れない。足早に、私は歩いた。だがその時だった。私は背後に呼ぶ声を聞いた。幻聴ではなかった。
「先生。待って下さいって。先生!」
 君は風を起こして私に追いつき、気に障ったかと眼差しで問いかけた。私は言葉で否定した。
「どうしたんだ。楽しんでこいと言ったろう。私は眠くなってきただけだよ。君の若さが羨ましいね。」
「またそんな…。さっきは年寄り扱いするなって言いましたよ?」
 君は私の手首を取った。ドキリとした私の手に、
「はい、お釣りです。…なにこんなに預けてんですか。一晩遊んだって使いきりませんよ、こんなには。」
 紙幣と小銭を、私はポケットに入れた。
「彼女たちは?」
 どうでもいいことだったが、とりあえず尋ねると、
「…ふられました。」
 わかりきった嘘だった。あの店の誰一人、君の誘いを拒むものか。君は私と並んで歩きだしながら、
「でも、あれですよね、京都弁ってやっぱいいですね。あんな雰囲気で『いややわぁー、そんなぁ』なんて言われると、なんか意味もなく燃えちゃいません?」
「ああそうだな。関西弁の方がコミュニケーションには適しているというが、そうかも知れない。語尾が柔らかくて角が立たないんだね。」
「言葉つきで美人に見えますもんね。さすが京都だな、うん。」
 私は笑った。国宝名庭園のいずれをとっても、女の魅力にはかなわないか。
「祇園って、一回行けばもう一見客じゃないですよね。」
「ああそうだ。」
「じゃあ、もう、僕が一人で行っても入れてくれますよね、花磐楼。」
「まあそれはそうだが…。目玉が飛び出るような金がかかるぞ。」
「そっか。バイトで稼いだくらいじゃ駄目か。なんかヤバいことでもしないとな…。」
「おいおい。」
「嘘ですよ。でもいつか行きたいですよね。ちゃんと、自分の金で。」
「そうだな。千代菊さんも喜ぶだろう。」
「…ああ、そっか! さっきの子…。」
 思いついたように君は言い、再び共犯者の顔になって言った。
「若すぎましたよね、ちょっとね。軽かったか。すいませんでした。」
「何を言ってるんだ。」
 私は吹き出した。あくまでも君は、私に女をあてがいたいらしい。それならばせめて話だけでもつきあってやろう。私は調子を合わせて言った。
「残念だったよ。明日の午後までいられるんだったらな。君の見つくろってくれた京ギャルと、楽しませて頂いたんだが。」
「京ギャル? 京ギャルですか。うわー、いいなその言葉!」
「君はどっちを選ぶつもりだった、あの二人の。」
「俺? いや僕は…どっちかっていうと、こっちっかたに座ってた方…。」
「ミニスカートの方だね。」
「見てますね先生。ほんとは好きなんじゃないですか。」
「だから年寄り扱いするなと言ったろう。」
「あの子、すげえ綺麗な足首してましたよね。あの脚がな。イケてたな。うん。」
「私はこっち側にいた、髪の長い方がよかった。」
「あ、そうですか? じゃあ分け取りだ。山分けできたじゃないですか!」
「うん。実に残念だな。」
「残念ですよ。」
 私たちは、男同士にしかできない話をしてホテルへ戻った。フロントでキィを受け取り、隣りあったドアの中へ、私たちはそれぞれ閉じこもった。
 明日は東京に戻らなければならない。幸せな時間だった。君は私のそばにいて、私に語り、笑い、気さえ遣って接してくれた。
 …見守っていこう。一人の部屋で落ち着きを取り戻し、私はそう思った。白金とダイヤでできた仮面の下、君の魂は熱く、切ない。いつの日か君は再び、あの『宝楼』を創るだろう。太古から永遠へ流れる時の川。仮面を捨てた本当の君が、光の中に現れる日を待っている。急ぐことはない。君はまだ若い。無限の可能性を秘めているのだ。私の心は変わらない。どこまでも君を見守っていよう。花。それはこの世に生きる生命の輝きの象徴だ。花に生涯を捧げた者として、私は君に約束する。君を愛し続ける苦しみから、私は決して逃げはすまい。道ならぬ禁断の恋と、罵られようがかまわない。私は命を賭けて君を愛する。君と出会わせてくれた運命に、いま心から感謝する。
 お休み、私の拓。私もまた眠りに落ちる。君の夢を見ながらだ。

―完―

茶華道監修 池坊龍生派  智豊園彰江(ちほうえんしょうこう)

 

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