● 戦前の日本は左翼国家、反日国家だった

   

 一、国家社会主義勢力による革命

 

 左翼(共産主義勢力)は「資本主義は、状況によってはファシズム(全体主義)、軍国主義と化し、対外侵略戦争を引き起す。戦前がそうだ。だから資本主義は廃絶しなくてはならない」と主張する。だが、これは全く誤っている。歴史の偽造だ。自由主義(資本主義と民主主義)はファシズム、軍国主義と無関係である。そればかりか、戦前のファシズム、軍国主義、その対外政策と戦ったのは、昭和天皇をはじめとする自由主義勢力であった。

 一九三0年代の日本では、「革新」「国家改造」「昭和維新」、つまり革命がなされたのである。自由主義国家日本は打倒されてしまった。この革命の担い手は、軍部であり、マスコミであり、民間団体であった。彼らは「国家(あるいは国民)社会主義」や「ファッショ」や「反共」を主張した、マルクスやレーニンの共産主義とは別の左翼であった。彼らは「反自由主義」「反資本主義」「反議会制民主主義」「反(正しき)個人主義」を唱えたように、まぎれもない別個の左翼であった。だから彼らは「反米英仏蘭」であった。米英らが自由主義国、民主主義国であるからだ。彼らは反共であるから、当然反ソ連でもあった。

 この革命の特徴は、主体が軍部であったことだ。「革新将校」たちは、軍の政治関与を禁止した「軍人勅諭」を踏みにじって、軍部による革命を推進していったのである。軍の政治機関化が起った。直接行動(二・二六事件など)を戦術とする皇道派、政府・軍部による上からの革命を戦術とする統制派と、戦術の違いなどはあるが、ともに「国家(国民)社会主義」に立脚する、もうひとつの左翼であった。

 軍部、マスコミ、民間団体等が唱えた「国体明徴」「一君万民」「天皇親政」のスローガンは、明治憲法の天皇制の否定であった。すなわち、立憲君主制、議会制民主主義の否定であった。天皇を政治的に利用して、独裁体制、全体主義体制を造ろうとしたのである。昭和天皇はこれを強く否定されていた。

 一九三0年代以降の日本は、国家改造(革命)が成った、「革命国家」「左翼国家」、だから「反日国家」であった。本来の日本国家は自由主義国家である。ドイツでは、ナチス党=国民社会主義労働者党=左翼が政権を握ったが、日本でも、同類の左翼思想を持つ政治勢力(軍部など)が日本を支配したのであった。「反共」であるが、自由主義ではなく、反自由主義の別の左翼であった。

 彼らは、アジアから自由主義勢力の米英仏蘭と、共産主義勢力のソ連や中国共産党を追放、打倒して、「大東亜共栄圏」を建設し、最終的には、東洋文明の盟主たる日本と、西洋文明の盟主のアメリカとの間で最終戦争を行ない、勝利して世界を統一する、すなわち「八紘一宇」、という世界戦略を有していた。革命国家だからこその戦略である。

 彼らは当時も「右翼」と言われたが、それは共産主義勢力、ソ連や日共との対比で言われたものであり、自由主義勢力=保守主義勢力から見れば、「左翼」そのものである。ナチスも左翼である。これらを右翼と言うのは歴史の偽造である。

 

 二、国家社会主義者に偽装した共産主義者の戦い−大東亜戦争を主導

 

 共産主義者は、国家社会主義者に偽装して、自らの戦略を実現しようとした。首相の共産主義者・近衛文麿やソ連のスパイ尾崎秀美ら共産主義者は、国家社会主義者の衣をまとって国家中枢やマスコミや民間団体に潜入し、国家社会主義者の前述の世界戦略や内政政策を利用しながら、共産主義者としての戦略の実現を目指していった。共産主義者と国家社会主義者では、「反自由主義」「反議会制民主主義」「反資本主義」「反(正しき)個人主義」「反米英仏蘭」は共通しているからだ。

 近衛文麿らは、祖国のソ連を防衛するために、北支事変を日中戦争へと拡大させて、関東軍が「北進」できないようにした。その日中戦争は、蒋介石の国民党軍に壊滅される寸前にあった中国共産党を救出するとともに、国民党軍を弱体化させて、中国共産党が中国を支配できるようにするための戦争であった。また近衛らは、この戦争を利用して、日本に統制経済、計画経済を導入し、(準)一党独裁体制、全体主義体制を導入していったのである。一九三八年の国家総動員法、電力国家管理法、一九四0年の大政翼賛会である。統制経済と全体主義は、国家社会主義も目標とするものだ。

 近衛は海軍と連携して、一九四一年七月二日の御前会議で、「南進」(対米英戦を辞せず)を決定していった。近衛らはそれによって、国家社会主義勢力が同盟国ドイツに呼応して、「北進」を主張し、祖国ソ連を挟撃する可能性を封じたのである。四一年七月下旬の南部仏印進駐の強行は、左翼国家日本による、米英蘭に対する実質的な宣戦布告であった。近衛は、同年九月六日の御前会議で、昭和天皇の反対との御意思を平然と無視して、「直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」を決定していった。

 近衛ら共産主義者がこれで狙ったことは、ひとつは、この戦争によって英仏蘭の自由主義勢力をアジアから追放し、その後を共産主義勢力(ソ連やその子飼いの勢力)が支配することである。もうひとつは、この戦争で国家社会主義体制の日本を敗北させ、日本を共産主義化することであった。

 日本が大東亜戦争(八年戦争)で疲弊し、敗北が必至となれば、レーニンの「戦争を内乱へ」や「敗戦革命論」に基づいて共産主義勢力は成長してくるし、破滅的な敗北を回避するために、ソ連と連携しようという動きも出てくる。そういう状況の中で工作を行ない、ソ連主導で大東亜戦争を終結させていくのである。すなわち、戦争の最終局面で、ソ連が対日参戦し、日本側はそれを「歓迎」し、ソ連軍が米軍よりもいち早く日本を占領して、終戦にする。こうなれば、戦後統治はソ連主導でなされ、東欧諸国のように、日本の共産主義化が実現する。

 一九四四年夏以降、「終戦交渉問題」が浮上する。この時、米英との終戦交渉は、必ず「国体の破壊」となるから決して行なってはならないとの嘘プロパガンダが、陸軍の隠れ共産主義者将校からなされていったのである。国家社会主義勢力も、このプロパガンダを共有していく。こうして、対米英戦争は徹底的に継戦していくことになった。それは、まだソ連軍がヨーロッパ戦線で戦っていて、兵力を極東へ向けることができないためである。ソ連主導で終戦する条件が整っていないためである。

 対ソ連終戦工作を中心的に担っていった人物は、参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐であったが、国家社会主義者に偽装していた共産主義者であり、戦後は日本共産党員になっている。
 近衛ら共産主義者の大東亜戦争の目的は、アジアの共産主義化と日本の共産主義化であった。英仏蘭は戦後、アジアから撤退し、共産中国、共産ベトナム、そしてソ連と同盟するインドが誕生した。日本は敗北し、共産北朝鮮が生まれ、日本領土の南樺太、千島列島はソ連に奪われた。満洲も奪われた。こうした戦後の勢力地図が、この大東亜戦争の目的が何であり、この戦争を主導した勢力が誰であったのかを、明瞭にしている。すなわち、近衛文麿やソ連のスパイ尾崎秀美ら国家社会主義者に偽装した共産主義者と、ソ連が、それである。

 日本の共産主義化については、なんとか回避することができた。それは、ルーズベルト(四五年四月死去)に替ったトルーマン大統領が、ルーズベルトとスターリンとの間の「ヤルタ秘密協定」を知って驚き、スターリンはさらに日本本土の占領すら狙っていると考えて、米軍を急北上させて日本に降伏を迫ったことと、昭和天皇のポツダム宣言受諾の降伏の聖断により、米国の下で終戦を迎えることができたことによる。あと数ヶ月、米軍の北上が遅れていたら、ソ連軍が日本の本州の一部を占領していた可能性は高い。日本は東西ドイツのような分断国家になっていた。数百万の日本人がシベリアに連行され、強制労働で殺されたであろう。

 日本は米国の保障占領下で、自由主義国家日本に復帰することができたのである。食糧・経済援助も受けられた。日本国民には、アメリカに感謝するだけの理由がある。

 

 三、歴史の偽造を許してはならない

 

 一九三0年代、共産主義勢力の一定部分は、国家社会主義者に偽装して、革命国家の各部署に潜入して戦っていった。首相の近衛が創ったブレーン集団たる「昭和研究会」や、その後身たる「朝飯会」のメンバーには、ソ連のスパイ尾崎秀美がいたし、コミンテルン日本代表の細川嘉六もいた。国家社会主義の衣をまとっているが、ほとんどがソ連や中国共産党を祖国と考える共産主義者であった。日共からの偽装転向者ももちろんいた。朝飯会の実質的な主宰者は尾崎秀美であり、その会合は首相官邸で開かれていたのである。第一次近衛内閣の官房長官の風見章も、戦後は社会党左派に所属し、日本をソ連の属国にするべく戦っていった共産主義者である。

 戦前の三0年代以降の日本は、革命国家、左翼国家、反日国家であった。大東亜戦争(八年戦争)は、首相の近衛文麿をはじめ偽装した共産主義者が主導したものの、共産主義者と国家社会主義者の両者が行なっていったものである。いわば左右の社会主義者が行なったものだ。

 そして、この左翼の(準)全体主義体制、軍国主義体制と大東亜戦争に抵抗していったのが、昭和天皇を中心とする自由主義者、保守主義者、民主主義者、資本主義者たちであった。歴史は完全に偽造されているのである。

 左翼国家日本は米国らに破れた。GHQは、戦後の保障占領統治で、ポツダム宣言に基づいて軍国主義を解体していった。日本はこれによって、基本的には、国家社会主義勢力の主力は打倒されて、自由主義勢力が国家を統治するようになったのである。日本は以前の親米英の自由主義国家に復帰することができた。

 これにより、共産主義勢力の主敵は国家社会主義勢力から、自由主義勢力(民主主義勢力、資本主義勢力)に替った。そのため共産主義者は、敵の信用を貶めるために歴史を偽造することにしたのである。「戦前の軍国主義と侵略戦争は、天皇制と軍部と独占資本主義が行なったものだ」と。自らがやったことを、敵の仕業にスリ替えてプロパガンダしたのである。

 一方の国家社会主義者も、戦前の体制と戦争を担った自分たちが反自由主義、反資本主義、反民主主義、反天皇制であったこと、すなわち別の左翼であったことを隠蔽した。彼らも、共産主義者の偽造にあえて反論せず、歴史を偽造したのである。

 歴史の偽造を許してしまったのは、保守主義勢力=自由主義勢力の思想闘争が微弱だからだ。「保守論壇」と言われているが、そこで発言している者の大半は、戦前を支持する、国家社会主義の流れをくむ反米英主義者(〃右翼〃と言われているが)であって、保守主義者は少数派でしかない。親米英の保守主義者であっても、戦前が左右の社会主義者が支配した左翼反日国家時代であったことを認識できていない。

 この両勢力によって、戦前の革命国家がつくられ、物言えぬ暗い時代となり、大東亜戦争で三百二0万の国民の命が奪われたのだ。中国その他でも多くの人々が戦争で命を落した。そして戦争の帰結として、共産主義勢力がアジア各地を手に入れ、その恐怖支配下で戦争をはるかに上回る命が奪われていった。日本もロシアに領土を奪われた。私たちは、戦前のこの国家と戦争を担った共産主義と国家社会主義を断固糾弾し、解体していかなくてはならない。

 戦いの土台は思想戦である。中国も日本の共産主義勢力も、日中戦争を糾弾する。しかし毛沢東はかつて、佐々木更三を団長とする社会党訪中団に、「日本は中国に大きな利益をもたらした。日本軍のおかげで、中国共産党が中国を手に収めることができたのだ」と真実を暴露した。私たちが、日中戦争を阻止できなかったことを反省するということは、中国共産党独裁政権と日本の左翼を打倒していくということである。中共に一切の謝罪をしてはならない。

 本文は、中川八洋教授の『大東亜戦争の「開戦責任」』に学びつつ、国家社会主義と共産主義を峻別する私の見解を述べたものである。

                二00四年三月二七日記


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