三成が自室で書を読んでいると、廊下の向こうから豪快な足音が聞こえてきた。
奴か。
三成が読書を諦めてため息交じりに書物を閉じるのと、家康が部屋に入ってくるのはほぼ同時だった。
「三成! 邪魔するぞ」
「なんだ、騒々しい」
三成が冷ややかに迎えるのに怯みもせず、家康は後ろに続く者たちに入室を合図する。すると、畳紙をいくつも捧げ持った女中たちが、ぞろぞろと中に入ってきた。
「そこに置いて行ってくれ」
家康の指示にうなずき、女中たちは畳紙を置いて退室していく。あとには、家康と三成、そして三成付きの女中と大量の畳紙が残された。
「家康。貴様、どういうつもりだ?」
「ああ、三成に新しい着物をと思ってな」
にこやかに言う家康とは反対に、三成は聞くなりきりきりと眉を吊り上げる。新しい着物を買うほど着るものに不自由してはいないし、買わなければならないにしても、これほどの数は必要ない。
一体どういう風の吹き回しか?
家康が倹約家で、必要最低限のものしか身の回りに置かないことは、豊臣時代からよく知っている。実際に、三成が家康の城に住まうようになってからも、家康だけでなく三成のものも、実用的なものを必要なだけしか買っていない。三成は、それは家康の長所の一つだと思っていた。だから、三成は突然の家康の散財が理解できない。
だが、そんな三成にはおかまいなしに、家康は女中に命じて、畳紙を次々と開けさせる。
出てくるのは、目が眩みそうな小袖や打掛。間着にするための小袖は白無地が基本だからどれも似たり寄ったりだが、生地も仕立ても一級品であることは一目で見て取れる。打掛に至っては、染物もあれば、刺しゅうを施したもの、紋様を織り込んだものなど、さまざまに手が込んだ逸品ばかりだ。
どれもため息が出るほど見事な品だが、致命的な欠点が一つある。
三成は女物を着ない。
家康がそれを知らないはずがないのだが、と、三成は眉をひそめる。
「私はこのようなものは着ない」
「そう言うなよ、三成。これは特に、三成によく似合うと思うんだが」
家康が手に取ったのは、藤の紋様を織り込んだ、銀と淡藤の打掛だ。冴えた色合いのそれは、三成の透き通った美貌によく映える。
「御方様」
女中に声をかけられて振り向くと、彼女が袖を通せるように打掛を広げていた。だから、着ないと言っているだろう! と思ったが、家康にはともかく、彼女に八つ当たりをするのは間違いだ。仕方なく、三成は促されるままに打掛に手を通した。
「まあ、よくお似合いでいらっしゃいます」
「やはり似合うな」
これにしようと家康が言うと、女中はうなずいて退出した。袴姿に打掛を着た奇妙な服装のままの三成は、にこにこと自分を見上げる家康にむっとして、背を向けるように座った。
「さすがだな」
家康の唐突な言葉に、なにかと思えば、打掛の裾捌きのことだった。朝日姫と名乗った時期もあるだけあって、三成の裾捌きは手本のように完璧だった。
「このくらい、当然だ」
いきなり褒められた三成は、居心地が悪そうに顔をそむける。三成を愛しそうに見つめていた家康は、おもむろに立ち上がると、三成のすぐ隣に腰を下ろして、三成の身体を引き寄せた。
「あ…っ」
後ろに向かって身体が傾いで、思わず悲鳴を上げた三成は、家康の胸に倒れ込む。三成をしっかり抱きとめた家康は、そのまま胡坐をかいた膝の上に三成を捉えると、その肩口に顔を埋めた。
「家康?」
「………すまない、三成……。ワシはもう、お前に政で負担をかけたくなかったんだが……」
「ということは、政に私が必要なのだな?」
「そうだ……」
もう三成を政に関わらせたくない、自分の城の奥御殿でゆっくり穏やかに暮らしてほしい。そう決めていたのに、表舞台に三成を引っ張り出さなくてはならない。それが家康には悔しくて情けなくて、力のない声でただ三成に詫びる。
けれど、三成は違った。迷う間もなく腹をくくった微笑を浮かべると、自分を抱きしめる家康の手を安心させるように握る。
「なら、遠慮するな。私が役に立つなら、私を使え」
「だが、三成。三成はもうワシの正室だ。本来なら、政に関わる必要など……」
「貴様の正室だからこそ、だ。私は貴様の伴侶であると同時に、第一に仕える者だろう? ならば命じろ、貴様を手伝えと」
「それでは、三成に負担をかけてしまう」
「馬鹿か、貴様は。秀吉様がご存命の頃、秀吉様の左腕として、半兵衛様の腹心として、私がどのような陰謀の中を生き残ってきたと思っている。太平の世の政の負担など、数に入るか」
「三成……。……そうだったな」
事も無げな三成の口ぶりに、家康の表情もほぐれる。身を起こし、三成の顔を覗き込むと、三成がつと手を伸ばした。
三成の白い手が、家康の顔を引き寄せる。されるままに顔を近づける家康に、三成は小さく口づけた。
「三成」
「すこしは立ち直ったようだな」
「うーん……もうちょっとかな」
安心した微笑みを浮かべる三成に、家康は悪戯っぽく言うと、今度は自分から口づける。それも、三成が仕掛けたような可愛らしいものではなく、もっと濃厚な……。
「…ん、っふ……」
呼吸を支配された三成が鼻で啼く。仰け反った白い喉を、こぼれた唾液が伝っていく。三成の腕がねだるように家康の背に回った。
「は…ぁっ」
息継ぎのために解放されて、三成が大きく喘ぐ。その開いた口に、すぐまた家康の舌が差し込まれる。三成は鼻で啼きながら、それに応えた。
やがてまた唇が離れて、すぐにまたどちらからともなく近づいて……
そうして、二人は何度も口づけを交わして午後を過ごした。
「ところで、あの着物の山の理由を聞こう」
「ああ…、あれは、その。三成に負担をかける詫びを、と思ってな……」
詫びの品に打掛を選んだのは、政の場で男姿をすることになる三成に、せめて奥御殿では正室らしい衣装を着ていてほしいという家康の希望があったからだが、これは三成には言わないでおく。
だが、三成は家康の真意に気付いたのだろう。
その日以来、奥御殿では、時折、美しく着飾った三成の姿が見られるようになった。