昼間の屯所は、巡察に出る隊士や戻ってきた隊士、非番の隊士などがそれぞれに立ち動いていて、活気に満ちている。
そんな様子を障子越しに感じながら、葛葉はことりと筆を置いた。
「土方殿。書状の清書、済みました」
「ご苦労。墨が乾いたら、その書状は山崎に渡してくれ。後のことは山崎が了解してる」
「はい」
部屋の反対側で文机に向かっている土方は、振り返ることもなく指示を出す。その指示に葛葉はうなずくと、書き終えた文を墨が乾くまで脇机に乗せる。
「お茶をお淹れしましょうか?」
「ああ」
書類に目を落としたまま、顔も上げない土方に、葛葉は丁寧にお辞儀をすると部屋を出た。
葛葉が土方の補佐として新選組に身を置くようになって、まだ三月と経たない。そんな自分の淹れた茶を、土方はなんの警戒もなく口にしてくれていた。葛葉はそれが嬉しくて、折に触れて茶を淹れている。
小袖の上に唐風の羽織を着ている葛葉の姿は、屯所にほかに女人がいないという点でも、纏っているのが一般的な女人の装束ではないという点でも、目立っていた。しかも、髪は武家や町人のように結わずに、肩の下辺りで緩く括っているだけ。髪形から見れば公家とも見えるが、公家は懐に短刀を持ったりしない。
普通なら身なりや髪の結い方で身分や社会的立場がわかるものなのに、葛葉の外見からはなにもわからない。それがいっそう、葛葉を謎めいた存在にしていた。
それでも、土方や土方に近しい幹部たちは、葛葉に友好的だった。葛葉が土方の傍近くに仕えるようになって、土方の無理な徹夜がなくなったことが、理由のひとつだろうと思う。
勝手場で湯を沸かし、手際よく、だが心を込めて茶を淹れていると、ひょっこりと顔を出した藤堂に声をかけられた。
「あ、葛葉。あとで手ぇ空く?」
「ええ、平助殿」
「よかった! じゃあ、夕飯の当番、手伝ってくれよ」
「喜んで」
間を置かずにうなずくと、藤堂は「やった!」と握り拳を作った。少年らしい仕草に、葛葉はくすりと笑って、盆に茶碗を乗せる。
盆を持って歩き出す葛葉に、藤堂はしゃべりながらついてきた。
「それ、土方さんにだろ? 葛葉はマメだよな」
「ありがとう。このくらいしか、お役に立てることがないだけよ」
「そんなことないだろ。この間、近藤さんが言ってたぜ。葛葉のおかげで、土方さんが徹夜しなくても、会津藩に持ってく書類が間に合ったって」
「喜んでもらえたなら、嬉しいけれど」
控えめな葛葉の物言いに、藤堂は「葛葉らしいや」と笑った。
「平助!」
不意に、廊下の向こうから声がかけられる。振り向くと、永倉と原田が稽古の仕度を整えて立っていた。
「俺ら、これから道場行くけど、おまえはどうする?」
「ごめん、新八っつぁん、左之さん! 俺、夕飯の当番!」
藤堂が誘いに大声で返すと、永倉が「ああ、もうそんな時間か」とひとりごちた。
「葛葉は? 稽古、見学するか?」
葛葉が時間の空いたときは道場で稽古を見学することを知っている原田は、藤堂の隣の葛葉にも誘いをかける。だが、葛葉はゆるりと首を振った。
「ありがとう、原田殿。でも、平助殿の炊事当番を手伝う約束なの」
「そっか。それじゃ、夕飯の準備、頑張ってくれ。葛葉の邪魔にならないようにな」
にやりと笑う原田は、藤堂が葛葉に頼り切ることを見抜いているようだった。
「なんだよ、それ!!」と憤慨する藤堂の横で、葛葉はつい吹き出してしまう。くすくすと静かに笑い続ける葛葉にも、藤堂は「そんなに笑わなくてもいいだろ!」と憤慨した。
「ほーれみろ、葛葉だってわかってるじゃねえか」
「左之さん! 葛葉も笑うなよ!」
「ご、ごめんなさ……ふふふっ」
葛葉は謝るが、笑いで切れ切れになりながらでは、説得力はない。だが、原田が言っているのが、この間、藤堂が炊事当番だった時に、葛葉が手伝いを頼まれて、結局藤堂自身が作ったものは冷奴だけだったことだと、すぐにわかってしまったものだから、笑いはなかなか収まりそうになかった。
「ひどいや、みんな。……葛葉、今日はやっぱり俺独りで頑張るっ。手伝わなくっていいからな!」
怒った藤堂は、くるりと踵を返すと、勝手場へと大股に歩いて行ってしまった。
可哀相なことをしたと、葛葉は反省したが、もう遅い。廊下の向こうでは、永倉と原田が、藤堂の夕飯では美味いものは期待できないと、からかいすぎたことを後悔していた。
土方に茶を届け、墨が乾いた書状を畳んで封をすると、暗くなる前に土方の部屋の行灯の油を補充しようと、葛葉は油をもらいに行く。
油を手にして戻ると、土方の部屋には山崎が来ていた。葛葉は山崎に会釈をすると、話の邪魔にならぬよう、そっと行灯に寄って、油皿を確かめる。案の定、昨夜の夜更かしで、土方の部屋の行灯は油が切れ掛かっていた。葛葉は持ってきた油を行灯の油皿に注ぎ足す。
「葛葉」
山崎と向かい合い、何事か話していた土方が、ふと葛葉を呼んだ。不意に話しかけられて、葛葉は油差しを置き、土方に向き直る。
「はい」
「おまえ、夜中に出歩くことが多いらしいな?」
「あ……。申し訳ありません」
土方の厳しい口調に、葛葉はぱっと頭を下げた。土方の向こうでは、山崎が淡々とした眼差しを葛葉に向けている。山崎が土方に報告したのだろう。山崎に見咎められた記憶はないが、山崎は神出鬼没だ。どこで見られていても、不思議ではない。
葛葉の反応に、土方は眉間にシワを寄せた顔で、困ったように確かめる。
「てことは、本当なのか」
「はい。……屯所内を少し歩いて、夜風に当たるくらいなのですけれど……いけないことだと知らなくて。申し訳ありません」
焦りながらも素直な葛葉の言葉に、土方はひとつため息をついた。
「別に、いけねえってわけじゃねえ。無断で門限破ってるわけでもねえんだしな。……ただ、てめえは女だろう。こんな男所帯で、万が一のことがあっちゃいけねえ。夜中に不用意に出歩かねえほうがいいとは思う」
「はい」
落ち着いた声で返事をしたが、葛葉はすこしがっかりしていた。土方がなんの心配もなく休めているかが気になって、落ち着いて寝てなどいられない。それに、夜の部屋に篭もった空気は、とても息苦しくて、葛葉は苦手だった。だから、風に当たりながら、土方の部屋を騒がす者がいないように張り番をするのは、好きだったのだけれど。
その沈んだ口調に、葛葉が納得していないと土方は気付いて、困ったように言葉を続ける。
「不本意だろうが、了承してくれ。てめえの補佐が屯所で手籠めにされそうになった話なんざ、聞きたかねえんだ」
「…………。護身は一通り身につけておりますよ。ご存知とばかり思っていました」
まさか、土方が心配しているのが自分の身の安全とは、露ほども思ってみなかった葛葉はきょとんと答える。それが理由なのなら、心配はいらないから、夜の散歩を許して欲しい。
そんな葛葉の無自覚さに、土方は今度は深く大きくため息をついた。葛葉が自分を女だと主張しないことが、屯所内でたった一人の女性でありながら、その存在を異端にしない、最大の要因だった。だが、そのことと、女性として持っていて欲しい警戒心を備えるのに必要な自覚とは、また別の話だ。
「……いいから、てめえは夜出歩くんじゃねえ。わかったな」
「……はい」
苦い顔で押し被せるように命じた土方に、葛葉は仕方なくうなずく。部屋に重苦しい空気が満ちる。だが、葛葉はしなくてはいけないことがあったことに気付き、気持ちを切り替えた。土方に一礼し、会話を終了すると、葛葉は立ち上がって文机に寄った。
「山崎殿。お渡しする書状の用意ができています」
文机から山崎宛の書状を取って山崎に差し出す。山崎は表情を改めて、書状を受け取った。
「副長、確かに受け取りました」
「ああ、頼んだ」
すでに話が通っていたため、土方と山崎の会話は短く終わる。
「お疲れ様でございます」
書状を懐にしまい、部屋を辞する山崎を、葛葉は三つ指をついて見送った。
「なあ、葛葉」
「はい」
山崎の気配が去ったことを確認してから声をかけた土方に、葛葉は向き直る。
「別にな、てめえが夜出歩こうが、出歩くまいが、本当はどっちだって構わねえんだ」
「……はい」
土方が先ほどの話の続きをしているのだと気付いて、葛葉はうなずいた。
「てめえが一声叫びさえすりゃ、俺がすぐに助けに入れる。だから、平隊士共に手篭めにされねえかなんて、まあまったく心配してねえわけじゃねえが、実は、それほど深刻に思っちゃいねえ」
「え……?」
「けどな。今、新選組は幕府の密命を受けて動いてる。てめえもそれは知ってるな」
「はい」
土方の仕事を手伝っていて、そのことは葛葉も知っていた。葛葉自身は内容までは関知していなかったが、幹部の中でもごく一部しか知らない、重要な密命だということは承知している。
「それにてめえを関わらせたくねえ。わかったら、夜の間は不必要に出歩くな」
土方が、まさか、理由を詳しく説明してくれるとは思っていなかった。葛葉は軽い驚きと共に、嬉しさがこみ上げるのを抑えられなかった。
「はい」
今度こそ、きっぱりと返事をし、葛葉は深々とお辞儀をした。
夕食を済ませ、勝手場の片付けを終えた葛葉は、月がすっかり天頂に昇っている夜空を見上げて、足を速めた。
土方の今夜の予定は確認していなかったが、土方の文机から処理待ちの書類が消えることはない。葛葉が手伝わなければ寝る時間さえ取れない量の書類仕事を、土方は正に寝る間も惜しんで続けるに違いない。そうとわかっていて、歯止め役も兼ねた手伝いをしないことなど、葛葉の意識にあり得なかった。
急ぐ視界の隅に浅葱色が入ったのは、そのときだった。一瞬、夜勤の巡察隊かとも思ったが、その割には少人数で、組長がいなかった。非番の者が外出するのなら、隊服を着ているはずがない。第一、もう門限の時刻は過ぎていた。これからの外出は、夜勤の巡察以外許されない。
おかしい。そう判断した葛葉は、音を立てずに土方の部屋へと走った。案の定、土方の部屋には灯りが点っている。葛葉はその障子の前に、滑り込むように膝をついた。
「土方殿」
「なんだ、葛葉か? 夜更けに騒々しいな」
珍しく慌ただしい物音を立てた葛葉に、土方が訝しむ。葛葉はすらっと障子を開けると、口を開いた。
「火急のご報告です。隊服を着た隊士が数名、外出しました」
「なんだと?」
瞬時に土方の表情が険しくなる。葛葉は報告を続ける。
「人数はごく少人数、組長と思しき方のお姿は見当たりませんでした。巡察ではないと存じます。またこれは、わたくしの見間違いかもしれないのですが」
「なんだ」
「白髪の者が、いたようです」
聞いた瞬間、土方は立ち上がると、和泉守兼定を佩き、鉢鉄と隊服に手を伸ばした。
「葛葉、総司と斎藤に出動命令を出して来い」
「1番隊と3番隊にではなく?」
「そうだ。奴ら2人にだけだ。早くしろ」
「はい」
口早な土方の指示に短く返事をした葛葉は、沖田と斎藤の姿を探して屯所内を走り始めた。
すぐに2人を探し当て、土方の命令を告げると、彼らもすばやく身支度を整える。一緒に門前に駆けつけると、土方はすでにそこで待っていた。
「副長」
斎藤が声をかけると、土方は葛葉にちらりと目をやり、視線を戻した。聞かれたくない話をするのだと葛葉はすぐに気付いたが、土方は葛葉が下がるのも待たずに口を開いた。
「羅刹が数人、許可なく屯所の外に出た。すぐに追い、必要ならば処断する。ついてこい」
「了解」
沖田が返事をし、斎藤はすぐさま走り出す。どうしたらよいものか一瞬迷った葛葉に、土方は低く吐き捨てた。
「仕方ねえ。許す」
「はい!」
間髪入れずに返事し、葛葉は土方と一緒に走り出した。
土方たちは全力疾走で外に出た羅刹と呼ばれる隊士たちを探し回った。葛葉は、初めて同行する隊務に神経を張ったが、だからといって足手まといにはなるまいと、その速度に合わせて随行した。