桜守 45

 がそう返事をしたときだった。

「ぐっ、う……!」

 苦し気な呻き声が、土方の口から漏れ出る。見る間に、黒髪が真っ白に変化していった。

「そちらの木陰に。他の兵に気づかれてしまいます」

 は土方を抱え込むようにして、手近な木陰に飛び込む。

「くそっ、こんな時まで……!」

 土方は呻きながらも、が促すままに足を動かす。野営から充分距離を取った所で、死角になるところに土方を運ぶと、は自分の着物の襟をぐいっと広げた。月明かりに、白い首筋が浮かび上がる。

 手や腕を傷つけるのでも足りるかもしれない。だが、もしそれでは足りなかったら……。いつ事情を知らない者に見咎められるかわからない。のんびりと、別の場所に傷を作りなおす余裕はないかもしれないと思うと、一度で済ませたかった。そのためには、最初からある程度出血させられる部位を選ぶのが手っ取り早い。

 懐の短刀を抜き、己の首筋に滑らせる。チッと熱いような冷たい感触が肌に走り、生暖かい液体が流れ出すのがわかった。

「土方殿、お早く」

 が言うのと、土方がを抱き寄せて首筋に顔を埋めるのとは、ほとんど同時だった。

 血液を溢れさせる傷口に土方が吸い付く。暖かくぬめる感触が首を這い、はびくりと肩を震わせた。じゅるっと啜る音が至近距離で耳に響く。

 土方が落ち着きを取り戻して顔を上げるのと、がふらりとよろめくのとは、ほとんど同時だった。

「悪い、もらいすぎたな」

 を支えた土方は、広がった襟元を直してやりながら詫びる。はゆっくり首を振った。

「いいえ、大丈夫です。貧血でふらついたのではありませんから、次もどうぞご遠慮なく」

「そうは言っても……」

「本当に、大丈夫です。土方殿は、わたくしの体調よりも考えることがあるはず。ですから、どうかお気遣いなく」

 貧血ではない、と言ったのは、嘘ではなかった。なぜ足がよろけたのか、理由はわからないが、少なくとも貧血や、急に血液を失ったことで気分が悪くなったというようなことではないことだけ、わかっていた。

「……おまえは、ずっと俺に血を飲まれるつもりか?」

 夜の闇の中でもわかるほど、心配と不安に満ちた目で、土方が問いかける。は笑みを浮かべてきっぱりと答えた。

「はい。一緒に行くのですもの、もちろんです」

 呆れたのか、安心したのか。土方はさらに口を開くことはなく、二人は静かに野営に戻った。




 日光を目指して進軍をする途中、宇都宮まであと少しの頃だった。

「まさか、宇都宮を官軍に押さえられてしまうとは……予想外だった」

 初対面の気まずさをどこかに引きずったまま、大鳥と土方は軍議を重ねていた。

 この頃には、が女性であることは大鳥にも知られ、の処遇にも協力的だった。おかげで、目を離すのは心配だと、軍議に同席させてくれている。

「押さえられたっていっても、単に、官軍にびびって恭順した口だろ。奴ら以上の力を見せつけてやりゃ、すぐにこっちに尻尾振ってくるさ。……節操のねえ連中だからな。新政府軍に寝返った奴らの城なんざ、落としちまって構わねえだろ? 歩兵奉行さんよ」

「僕は別に、戦うことに反対しているわけじゃない。ただ、小山で戦っていた中軍、後軍はまだ合流しきれていない。彼らが追いつくまで、待ってくれと言っているんだ。城を落とすというのは、戦略的に愚の愚とされている。今は――」

「……やれやれ。そりゃどこのありがてえ操典の孫引きだ? お得意の西洋砲術か?」

 事態を深刻と見てはっきりと意見を述べる大鳥と、飄々として棘さえ感じさせる土方は、ここに至ってもかみ合わない。ははらはらしながら、土方の隣で議論の行方を見守っている。

「これは、西洋だけの常識ではない。孫子の兵法にだって同じことが書かれている。上兵は謀を伐ち、その次は交を伐ち、その次は兵を伐ち、その下は城を攻む。つまり、やむを得ない時を除いて、城を攻めるというのは愚かだと説いているんだよ。愚を犯すのであれば、せめて自軍を最良の状態にして、確実な勝利を目指さなくては……」

「兵は拙速を聞くも、未だこれを巧みにして久しくするを見ざるなり。戦争ってのは時間をかけてうまくやるより、多少下手でも、素早くやれってことだ。……これも孫子の兵法に書かれてる言葉だせ」

「……土方君、話を混ぜっ返さないでくれ。中軍、後軍が我々に追いつくのに、何十日もかかるわけじゃない。あと少しだけ待ってくれと……」

「のんびり後続部隊を待ってるうちに、敵の援軍が来ちまったらどうするんだ? あの射程の長い化け物銃を持った薩長の連中がやって来やがったら、勝てる見込みはなくなっちまうぜ」

「それは……」

「機を逃すくらいなら、俺が先鋒軍だけで城を落としてやるさ」

「それは……、危険だ! そんなのは戦争ではない、ただの自滅だ!」

「自滅? 結構じゃねえか。命懸けで歯向かってくる敵はどうにかなるが、命を捨てて歯向かってくる敵ってのは、倒すのに骨が折れるもんだ」

 自棄にぎらつく土方の瞳に、大鳥は気圧されながらも、なおも食い下がる。

「君は、君の自滅に、彼女も付き合わせるのか」

「戦をしねえ理由にがなるなら、俺はとっくにこいつを江戸に置いてきてたぜ」

 土方に即答され、大鳥は一瞬怯む。

「大鳥殿、どうぞお気遣いなく。わたくし、土方殿が行くのなら、銃弾の雨にもお供します」

 軍議に口を出すつもりはなかったが、矛先が向いた以上は、自分の言葉で返さなくては。そう思ったは、大鳥をまっすぐに見て、言った。

 今度こそ、大鳥は言葉が見つからなくなってしまった。

「ま、黙って見てろよ。明日、日が暮れるまでには宇都宮城を落としてやるさ」

 土方は、そう不敵に笑って、軍議を畳んだ。




 そして、4月19日。

 宇都宮城を攻撃する旧幕府軍は約2千人、対する宇都宮城の守備兵は約7百人の攻城戦が繰り広げられた。

 下川原門は特に激戦で、幕軍約千人を、約4百人の守備兵が迎え撃つ。人数差こそあるものの、守備側は城を盾にして、戦況は膠着状態だった。

 大鳥に大見得を切った素早い戦に持ち込むには、なにか、新たな一手を打たなければ。そう考えた土方は、自隊の約2百の兵を振り返った。

「……このままじゃ、キリがねえな。そろそろ、敵陣に突っ込んでもいい頃か」

「て、敵陣に!? なにを言ってるんですか! 向こうは、銃を持ってるんですよ!?」

「奴らが持ってるのは、薩長が使ってる新型の銃とは違う。百間も離れりゃ当たらねえし、命中精度も低い。それに、弾の一発や二発当たったところで、すぐ死ぬ訳じゃねえさ」

「そ、そんな無茶な……!」

 土方が平然と下した命令に、旧幕兵たちは騒然となる。当たり前の顔をして聞いたのは、だけだった。

 そんな兵たちに、土方は呆れたように冷めた目を向けた。

「おまえら、ここになにしに来たんだ、戦争しに来たんだろ? だったら、死ぬ覚悟ぐらい持ち合わせてるはずじゃねえか。――合図をしたら、そこの奴から前に進め!」

 雨のように銃弾が降り注ぐ中を指し示され、幕兵たちは青ざめる。お互いに顔を見合わせ、そして――

「お、俺は……、俺は嫌だぁあああっ! こんな所で死にたくねえっ――!」

 最前列の一人が、恐怖に耐えかねて、逃げ出そうとする。

「――!!」

「ぐ……、がはっ……!」

 敵に背を向けて走り出そうとした瞬間、土方はその背を斬った。兵士は、一刀で絶命し、倒れ伏す。

 一瞬、しんと静まり返ったその場は、次の瞬間には蜂の巣を突いたようにざわめきだす。

「お、おい……! 味方を斬りやがったぜ……?」

「ど、どういうことだ……! 頭がいかれてやがるのか……」

 うろたえ、どよめく兵士たちを、土方は冷然とした目で見据える。

「他にも、敵前逃亡してえ奴はいるか? 怖かったら、逃げてもいいんだぜ。ただし、逃げようとした奴は片っ端から、この刀で斬り捨ててやる。俺に斬り殺されるか、それとも銃弾の雨ん中を突っ切って行くか――、好きな方を選べ」

 その冷たい目の中には、殺意が光っている。数多の修羅場を潜り抜けてきた本物の殺意だ。その光と、先ほど斬られた兵とを見れば、土方の言葉がただの脅しかどうか、ぬるま湯育ちの幕兵たちにも一目瞭然だった。

「鬼だ……、あの人は鬼だよ……」

 誰ともなくつぶやく声がぽつりと響いた。

 土方は誰よりも努力家で、誰よりも一生懸命で、誰よりも情に厚い。同時に〝血も涙もない〟と評されるほど、周囲に厳しく、自分自身にも厳しいのもまた事実だ。だが、その土方を鬼と呼んでいいのは、彼によって命を落とした者だけだ。いま生きて、土方に続こうともせず怖気付いている幕兵たちではない。

 静かな怒りを飲み込んで、は最前線に飛び込む土方の後に続いた。

 足音でに気づいた土方は、敵兵を斬り倒しながら叫んだ。

、なんでついて来る!?」

「お供します」

「だめだ、戻れ」

「敵前逃亡は士道不覚悟です。局注法度には背けません」

「……ちっ」

 土方は舌打ちを一つ溢すと、それ以上何も言うことなく、また一人敵兵を斬った。戻れと命じることは諦めたようだった。

「土方さん! あと少しで、城門を崩せそうです!」

「おう、頼んだぜ! 信用してるからな、島田!」

 結局、島田も土方率いる先鋒軍に合流していた。それを咎めるどころか、当然のように戦力とするのだから、いろいろと理屈をつけても、やはり信用する配下の存在は大きいのだろう。

 も、護身の範囲で打刀を振るいながら、二人についていく。絶え間ない銃声と、すぐ横をかすめていく銃弾は恐ろしかったが、土方と一緒に戦っているのだと思えば耐えられないことではなかった。

 羅刹になってしまった土方は、昼日中に動き回るだけでもつらいはずだが、そんな素振りを見せることもなく獅子奮迅の戦いをしている。命中しない旧式銃など恐れるに足らず――そう思わせるには、充分だった。

「す、すげえ……」

「あの人は、本当に人間なのか? 地獄から這い上がってきた、鬼なんじゃねえのか……?」

 後方で尻込みしながら土方の戦いを見つめていた兵たちにどよめきが広がっていく。噂でしか知らなかった〝人斬り新選組〟の姿を目の当たりにして、恐ろしいだけではない姿に呑まれていくように……。

「おい、おまえたち! そろそろ敵の銃弾も尽き始めたようだぜ! 気合い入れ直せよ!」

 硝煙が立ち込める中、土方の檄が飛ぶ。その迫力に引き込まれていた兵たちは、目論見通りに鼓舞された。

「こ、この戦……、もしかしたら、勝てるんじゃねえか?」

「そ、そうだ! 勝てるかも知れねえぞ! 新選組に――、土方さんに続け!」

 脅されて仕方なく戦っていた兵たちは、すっかり戦意を取り戻して、熱のこもった戦いを始めた。

 勢いづいた攻勢は、城門と旧式銃で退けられるようなものではなかった。昼を過ぎた頃、門はついにその扉を開く。

「開いた……! 城の大門が開いたぞ!」

「勝った……? 俺たちが、勝ったのか?」

 城門突破の知らせに、陣中がざわめく。は汗と泥で汚れた顔を袖で拭い、土方を振り返る。疲弊しきった土方も、勝利の笑みを刻んでいた。

「……思ったより手間取ったが、ま、予想どおりだな」

「副長の采配、お見事でしたよ! 弾の嵐の中を突っ切っていく姿は、まさに武士の鑑でした!」

「……おだてたって、なにも出ねえよ。それに、まだ城が落ちたわけじゃねえ。気を引きしめてかからねえとな」

 島田の賛辞に冷静な言葉を返しながらも、その声には達成感が滲んでいた。確かにまだ城が残っているが、それでも、最大の難関を突破したことに違いはない。

 土方の言葉にうなずき、が高揚感の中で目標を定めなおしていると、周囲を旧幕兵が取り囲んでいることに気づいた。

「土方さん、素晴らしい戦いぶりでした! まさに、源義経が蘇ったかのようで……! さすが新選組の副長です!」

「我々は、あなた方を誤解していました! 申し訳ございません! 離脱しようとしていた兵士を斬ったのは、我々を勝利に導く為……、これ以上の脱落者を出さない為だったのですね!」

「あなたの下で戦えることを、誇りに思います! あなた方こそ、本物の武士だ!」

 口々に土方を称賛し、その目には崇拝と熱狂を光らせている。その様子は、つい先ほどまでの恐怖と反抗に満ちた眼差しとは、大違いだった。

「こ、これは……、いったいどういうことなんでしょう?」

 戸惑う島田の気持ちももっともだ。手のひら返しという言葉が、これほど似合う場面も、そうはないだろう。呆れが混ざったため息が、仏頂面の土方から、ついこぼれ出る。

「土方殿、ご体調が優れないですか?」

 がそっと尋ねると、土方は青ざめた顔に浮かぶ脂汗を返り血ごと拳で拭った。

「……大丈夫に決まってんだろ。城を落とすまでは、死ねねえさ」


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