羅刹隊を監督しながら新撰組本隊を率いて会津に先行する斎藤と別れ、葛葉は島田に医務を教わりながら、伝習隊を含む旧幕府軍と共に宇都宮を目指して北上することになった。
数日後、方策尽きた土方が合流する頃には、葛葉の学習も、山崎の帳面に書かれていることを実践できる程度に進んでいた。まとまった数の兵が行軍していて、土方がいる。勉強の成果を披露する機会は、この先すぐにでも訪れそうだ。
その土方は、いまにも倒れそうな顔色で、葛葉のすぐ前にいる。蒼白の顔をしているのは、体調のことだけでなく、限界まで神経が張り詰めているせいだろう。
これだけの兵を率いていて、夜になるまで休めるわけがないことは、葛葉にもわかる。羅刹の発作は起きていないようなので、葛葉はなにも助けになれることがない。いつ土方が倒れても動けるよう、島田と目配せしあうくらいが精一杯だ。
「……なあ、あいつらが、人斬り新選組か?」
「ああ。気に入らなきゃ仲間さえ斬り捨てる、狂犬の集団だってうわさだ。目を合わせない方がいいぜ。どんな難癖つけられるか、わかったもんじゃねえ」
周りの旧幕府兵は、旗本の子息たち――つまりは育ちが良く、実戦経験に乏しいお坊ちゃまたち――ばかりだ。新選組の隊士たちは魔物を見るような目で見られ、遠巻きにされている。おかげで、葛葉が女かどうかと騒がれることもなく……なにしろ、女とわかるほど近くに寄ってくる者などいないのだから、その点に関しては有難かったが。
「あっと、そこ、通してくれる? 悪いね。よっ、と……」
兵士たちをかき分けて、近づいてくる人影がある。わざわざ近づいてくるような人物に心当たりもなく、葛葉は警戒心も露わに土方の手前に出た。
「初めまして、あなたが土方さんですか? あなた方新選組の名前は、僕たちの間でもずいぶん鳴り響いているよ」
きちんとした身なりと言葉遣いから、それなりの立場にいる人物だと見当がついて、葛葉は土方の後ろに下がる。土方は開けた視界の正面に立つ彼を振り返り、不機嫌に口を開いた。
「……何だ、あんたは」
「ああ、自己紹介がまだだったね。僕は、歩兵奉行の大鳥圭介。伝習隊の指揮を任されている。新選組のみなさんには今後、色々と世話になると思う。いろいろよろしく頼む」
愛想よく大鳥と名乗った青年は、人懐っこい笑顔で右手を差し出した。その手の意味がわからず、葛葉は島田に目を向ける。島田も目顔で「わからない」と合図を返した。
土方も冷ややかに大鳥の手を見る。しらっとした気配を察した大鳥は慌てて、
「あっ、と……手袋を外すのを忘れていたなぁ」
手袋を外してから、またあらためて右手を差し出してくる。
「……何だ? 金でも恵んでくれってのか」
「あ、えっと……、シェイクハンド、だよ。知らないのかい? 欧州での、挨拶のようなものだよ」
挨拶と聞いても、土方は大鳥の手を取る気配も見せなかった。興味ないと言わんばかりに視線を逸らされ、大鳥はやがて無言のまま手袋をはめ直した。
「大鳥さん。土方さんに、なにかお話があったんじゃないですか?」
「ああ。是非、新選組の副長から直々に、京での、特に鳥羽伏見の話を聞かせてもらいたいと思ってね」
大鳥は笑顔を絶やすこともなく、島田の問いかけに答える。土方は険しい表情で皮肉を返した。
「俺から聞くより、尾ひれのついたうわさでも追っかけた方が楽しいんじゃねえか。……お喋りな連中が多いみてえだしな」
「いやぁ、これは申し訳ない。軍備は整えたんだが、軍紀の方はまだ末端の兵にまで行き届いていなくて」
土方の皮肉も受け止め、大鳥は表情を改めて本題を切り出した。
「……とりあえず、この軍の編成について説明しよう。旧幕府軍脱走隊約三千人が、先鋒・中軍・後軍に分かれている。僕は、その総督を任されているんだが……」
「総督? つまり、あんたが総大将ってことか」
「一応、そういうことになるね」
大鳥の答えを聞いて、土方はうんざりした表情を浮かべた。本人を前に失礼な。と葛葉は内心で慌てるが、なんとなく、土方の胸の中がわかる気がした。
いままで、新選組の大将は近藤だった。近藤だけが土方の大将だった。その近藤を失って、まだその傷は土方の心で生々しく傷口を開いているのに、土方はこのまま進もうと思うなら、大鳥を大将としなければならない。そして、大鳥の印象は、近藤とはまったくかけ離れていた。
その大鳥は土方の反応を予想していたのか、それとも構わないと思ったのか、そのままの口調で先を続ける。
「先方は、桑名藩、会津藩を主体とした部隊。そして中軍は、僕たち伝習隊を主体としている。後軍は、幕府回天隊が中心だ。僕は、この先鋒軍の参謀に土方君を推薦しようかと思っている。どうですか?」
「……どうして、俺なんだ?」
「僕には実戦経験があまりないから、優れた先達に従おうかと思ってね。それに、新選組の土方君の名前は、敵にも味方にも知らない者はない。先鋒軍には、うってつけの指揮官だ」
大鳥の自信に満ちた推挙にも、土方は無言のまま。鬱陶しさが全面に出ている表情で、大鳥とは反りが合わなさそうだ。
「では、僕はこれで失礼するよ。詳しい作戦については、また後日話し合うことにしよう」
土方の様子を察したのか、それともただ大鳥の性格なのか――。大鳥は土方の答えを聞く前に、戻って行ってしまった。
その晩、野営をしていると、土方の呼ぶ声がした。
「……島田、葛葉、話がある。こっちへ来い」
葛葉は立ち上がり、土方の傍に膝をつく。島田も葛葉の隣、より土方に近いところに寄った。
「……おまえたち、さっき、あの歩兵奉行さんとやらが言ってたことを覚えてるか?」
「土方さんが、先鋒軍の指揮を執るということですよね?」
土方は島田の確認にうなずく。
「そうだ。で、おまえたちの身の振り方だが……。おまえたちは先鋒軍に入れねえ。中軍、後軍に編入させるつもりだ」
「それは……どういうことでしょう? 副長が指揮するのは、先鋒軍なのですよね?」
「おまえは、鳥羽伏見の戦いを経験してるんだ。実戦経験のねえ部隊を指揮するにゃ、もってこいの人選だろ。向こうにゃ、理論はあるが実戦経験がねえ。こっちは、実戦経験はあるが戦術理論とやらがねえ。お互いに足りてねえもんを補い合える、ちょうどいい組み合わせじゃねえか」
「しかし……」
島田の本音は、土方と同じ部隊で、土方の指揮で戦いたいのだろう。土方の説明は筋が通っているが、島田は承服できない顔で言葉を失う。
島田は、どう答えるだろうか。土方の命令を拒むことは信念に反するだろうけれど、その命令は己の意と反する。島田は、どう決意する? 葛葉は固唾を飲んで島田の答えに耳を澄ませる。
しばらく考え込んだ島田は、やがて顔を上げて口を開いた。
「……わかりました。副長の命令であれば、従います。ですけど、ひとつ確認させてください。新選組がなくなってしまうわけではありませんよね? 俺は、新選組の島田魁として、この戦に参加するつもりです。【誠】の隊旗を掲げます。……それで、構いませんよね?」
「……好きにしろ」
ため息交じりの土方の答えは、投げやりに響いた。島田から逸らされた視線が、土方の苦しさを表しているようだった。
「それから……、部隊指揮は、葛葉さんには荷が重過ぎると思います。有能な方だと知っていますが、隊士ではなく、副長補佐ですし、なにより、前線に出れば、他の兵たちに女性であると知られてしまうでしょう。隊士たちはともかく、他の幕兵が女性の指揮に従うとは思えません。なので……、他の手を打つのが賢明かと。では、俺は他の隊士たちに、決定を伝えに行ってきます」
新選組の本隊と羅刹隊は、斎藤が率いて会津に向かっている。いまここにいるのは、土方たちの他は10名ほどの平隊士だった。
島田の背中を見送った葛葉は、土方との距離を一歩詰めた。
「御命令の真意をお伺いしても?」
そっと問いかけたが、土方は星を眺めたまま、答えようとしない。
聞いてはいけないことだったようだ。そう思って、葛葉もその場を離れようとした時だった。
「……近藤さんがいつ戻って来るのかさえわかりゃ、死ぬ気で戦いもするさ。だが今度ばかりは、どうなるかわからねえときてやがる。……山崎が言ってたとおり、新選組ってのは、俺と近藤さん二人のものだったんだ。……俺一人で、支えきれるわけねえだろ」
確かに土方は気が長い方ではない。だが、新選組に関して、こんな風に投げやりになったことはなかった。葛葉が知る限りは、なかった。その土方が、いまは無気力に肩を落としている。
「……新八の言うとおりだったよな。甲府城に行くって決まった時、あいつと原田が言ってたろ? 勝安房守が、軍資金や大砲を気前よく出してくれるはずがねえ、なにか裏があるんじゃねえかって。……その通りだったよ。新政府軍に江戸城を明け渡すって決めたのは、その勝安房守さんだったらしい」
「えっ!?」
「新政府と穏便に話を進めてえのに、俺たちみてえのがいちゃ邪魔だから、体よく追っ払われたってことだ」
「そうだったのですか……」
葛葉の脳裏に、甲府へ出陣する前の永倉と原田の言葉がよみがえった。
『勝って人のうわさは俺も何度か耳にしたことがあるが……、はっきり言ってあんまりいい評判を聞かねえぜ。なんでも、大の戦嫌いで有名らしい。そんな人が、なんで俺たちに大砲やら軍資金を気前良く出してくれるんだ?』
『……そもそも徳川の殿様自体が、新政府軍に従う気満々らしいしな。勝なんとかさんも、同じ意向なんじゃねえのか』
永倉も原田も、決して反対するための反対をしていたわけではない。いままでずっと、そうやって、さながら刀匠が刀を打つときの相槌のように別の角度からの視点を提起して、土方の判断を検証する機会を作ってきた。
あの時の土方は、けれど、その相槌を一蹴して甲府に出陣した――
「……ああ、くそっ! どうして気付かなかったんだよ。いつもの俺なら、絶対におかしいって勘付いてたはずじゃねえか。近藤さんに戦の指揮を執らせてやりてえ、戦場に立たせてやりてえって気持ちに目がくらんじまった。……それが負け戦になっちまって近藤さんのやる気をなくさせちゃ……、何の意味もねえじゃねえかよ」
土方の気持ちが痛いほどわかって、葛葉はそっと目を伏せた。甲府への出陣命令に、それは喜んでいた近藤の姿は、葛葉もくっきりと思い出せる。
『御公儀からは既に、大砲二門、銃器、そして軍用金を頂戴している! ここは是非とも手柄を立てねばな! 諸君』
『御上が我々を、甲府を守るに足る部隊だと認めてくれているんだぞ。ならば全力で応えるのが、武士の本懐というものだろう』
近藤の朗々とした声と、闊達な笑顔が見られたのは、これが最後だったように思う。最後の笑顔がしっかり思い出せたことに、すこし嬉しくなりながら、それが最後だったことに、すこし寂しくもなる。
「おまけに、必死こいて剣術の稽古して……、ようやく刀差せるようになったってのに。百姓や町人に銃持たせただけの、長州の軍隊に歯が立たねえときた。武士ってのは、戦いが専門じゃねえのか? 俺たちがずっと信じて追いかけてきたものって、一体何だったんだ? その先に何かがあるって信じてたからこそ、きつい思いして、みっともなく歯食いしばって、坂を登ってきたんだぜ? 登った先に何もねえってわかっちまったら、これからどうすりゃいいんだよ。俺は、なにを信じて生きていきゃいいんだ?」
葛葉にとって、鳥羽伏見の戦いが始まってからの日々は、それまでの仲間たちや生活を失うことばかりが続く、悲しく、寂しい日々だった。だが、それは土方にとっても同じだったのだと――度合いはもちろん、葛葉よりも桁違いに大きいけれど――喪失感に苛まれ、信じたものに裏切られて、傷ついているのは誰より土方だったのだと、葛葉はあらためて思い知る。
土方を慰める何ができるわけでもないけれど――
「登った先になにもなかったなら、お好みに合うものを作ってしまうのはいかがですか? 土方殿を信じてついてきた島田殿や、ほかの隊士の方々、もちろん、わたくしもお手伝いします。歯を食いしばって登る途中で、土方殿はいろいろなものを手に入れてきたはず。失ったものはとても大きいでしょう。代わりになるものなんてない、唯一無二だったと思います。でも、まだ残っているものを活かして新たなものを得ることは、これからだってできます」
なにを言い出すのか……と、土方は葛葉に目を向ける。その鬱陶しそうな視線を、葛葉は柔らかく受け止める。
「……土方殿がなにを信じたらよいかわからなくなってしまったなら、わたくしを信じてください。土方殿を信じているわたくしを信じてください。大丈夫です、決して、これ以上悪くはなりません。だって、わたくしとなら、この状況をひっくり返せるのでしょう?」
流山にいたときに、土方が言ってくれたのだ。『俺とおまえなら、できると思ってるんだ』と。
だから葛葉は、今この瞬間だって、変わらずに信じていられるのだ。自分が隣にいるのだから、土方はこの状況をひっくり返せると。
葛葉の穏やかだが揺るがない眼差しに、土方は少しずつ己を取り戻していく様子だった。亡羊とした目に、だんだんと光が戻ってくる。そして、優しい微笑みを浮かべて言った。
「……そうだよな。見失っちまったものってのは、てめえでもう一度見つけなきゃどうしようもねえよな。それに、今はでかい戦が控えてる。あれこれ悩むくらいなら、勝つことを考えねえとな」
再び、夜空に目を向けるが、それは今までの無為な視線とはまったく違う、力のこもったそれだった。
虫の声だけが響く沈黙が訪れる。葛葉は邪魔にならないよう気配を殺して、傍に控え続けていた。
「……おまえ、本当にここにいるつもりか?」
「はい、ここにいます。……お邪魔でしたら、下がります」
一人になりたいのかもしれないと、葛葉は自分から提案する。土方は素気なく答えた。
「邪魔ってわけじゃねえ。いたいなら、いればいい」
島田と一緒に行けるわけでもない葛葉は、土方の傍がいちばん安全で、いちばんいたい場所だ。土方もそれを思い出したかのようだった。
「ありがとうございます」