「。俺だ。入ってもいいか?」
朝食が済み、松本が処方してくれた痛み止めを飲み終えた頃、土方が部屋を訪れた。それはまるで、が落ち着いた頃合いを見計らったようだった。
の尻尾と耳は、まだ隠せていない。それだけの神力が戻ってきていない。浴衣姿で、尻尾も耳もある姿で、みっともなくて見せられない。そう思う半面で、こんなに長く土方の顔を見ていないことは屯所に来てから初めてで、寂しくなってもいた。昨晩、動揺している心のままに、使いで土方を攻撃してしまった罪悪感もある。
勇気を振り絞って、は口を開く。
「……見ても、嫌いになりませんか?」
「なんだと?」
「わたくし、いま、とてもみっともない恰好をしています。本当は、こんなお見苦しい姿でお目にかかりたくありません。でも……もし土方殿が、はしたないと、みっともないと嫌ったり、しないでくださるなら」
が人ではない姿でいることをみっともないと思わないでいてくれるなら、土方に会いたかった。もともとは、土方の傍にいたくて屯所に押し掛けたのだから。
すると、土方は障子の向こうで真剣な声で答えてくれた。
「俺はおまえの外見で補佐にしたわけじゃねえぞ」
あっと思ったときには、もう障子は開いていた。土方が心底心配している顔で入ってくる。土方がこんな顔をしたのは、山南が怪我をしたときと、池田屋で沖田や藤堂が負傷したときくらいだった。
ぱたんと障子を閉めると、土方は傍らに腰を下ろして、手を伸ばす。反射的にびくりと震えたの耳をくいくいと撫でると、髪に手を滑らせた。
「この姿も悪くねえな」
慈しむような微笑を浮かべる土方の言葉に、は涙が浮くのを止められなかった。なによりも恐れていたことは、起きなかった。嬉しいと言うよりも、ただ安心した。
「ふ…ぇ……」
声を殺しながら泣くを、土方が腰を浮かせて抱き締めた。土方の着物を掴み、その胸にぐいぐいと顔を押し付けながら、は泣いた。
耳が耳なので、大きな犬が飼い主に甘えているようにも見える。それがまた微笑みを誘った。
「いきなり斬りつけられて、怖かったよな。守ってやれなくて、すまなかった」
土方の手が、優しく髪を撫でてくれる。時折、耳ごと撫でてもくれる。が泣き止むまで、その手は止まらないでいてくれた。
しばらくして涙が止まって、すん、と鼻で息をしたは、近すぎる土方の匂いで自分がどういう体勢でいるのかに気付いた。
「……きゃ」
叫びかけたところで、慌てる土方に手で口をふさがれる。叫ぶこともできず、はかぁぁっと赤くなる。
「叫び声は止まったか?」
訊かれてこくこくとうなずくと、土方は放してくれた。はぁっと大きくため息を吐いた土方は、障子の向こうの気配を窺った。
「いまおまえが叫んだら、また寄ってたかって騒ぎに来やがるからな」
そのうんざりした言い方に、はぷすりと吹き出す。の様子に、土方も安心したように息を吐いた。
「あの、昨夜は申し訳ありませんでした。こんな姿をお見せできないと思って、つい……。お怪我はありませんでしたか?」
「あの程度で怪我するほどヤワじゃねえよ。ま、ちっとばかり驚いたのは確かだが」
座り直した土方は、あらためてに向き直る。
「熱も下がったみてえだな。焦らず養生しろ」
「はい。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「かまわねえよ。…それより、訊きたいことがある」
「はい」
ふと表情をあらためた土方に、も表情を引き締める。
「斬った奴の顔を覚えてるか?」
「覚えています。4、5名ほどの集団で、浪士と思われる服装をしていました。人相をうまく説明できないのですが、また会えばわかります」
「なぜ斬られたか、心当たりはあるか?」
「わたくしの服装が普通ではないことを見咎められて、斬られました。本当はわたくしのことを殺すつもりだったと思います。でも、わたくしが土方殿の名を口にしたとたんに、怯えて走り去っていきました。ですから、この怪我だけですみました」
そのあとのことは、永倉から聞いたとおりだった。土方はふと気になったことを口にする。
「おまえ、神力を使えば、怪我することはなかったんじゃねえのか」
すると、はすこし悲しそうな顔をした。
「神力を使えば、わたくしがただの人ではないと露見します。本当に殺されるという瞬間まで、使うことはできません」
「……そうだったな」
危険な目に遭っていても身を守ることもままならないとは、神様は神様で、いろいろと大変なようだ。だが、とにかくいまは、が恐怖心に負けて神力を使わなかったことに感謝しよう。
「とにかく、怪我だけで済んでよかった。ゆっくり休んで、怪我が治ったら、また手伝ってくれ」
「はい」
うなずいたの肩を押し、背中を支えながら横になるのを手伝ってやると、鎮痛剤が効いたのか、上掛けをかけてやる頃にはは軽い寝息を立てていた。
「今回ばかりは、おまえが隊士じゃなくてよかったと思ったぜ」
もし隊士だったなら、浪士に斬りつけられて、相手を仕留めずに帰ってきた時点で、士道不覚悟として処断される。がここでゆっくりと療養していられるのは、ひとえに、が正式な隊士ではないからだった。
手を伸ばし、そっとの前髪をかき上げて、額をあらわにする。ぴるる、と耳が動いたが、は起きる気配がない。
しばらくのあいだ、土方は狐の耳と尻尾が生えた補佐の寝顔を眺めていた。
結局、を斬った浪士の情報はつかめないまま日が経ち、は立って歩けるほど回復した。神力もすっかり戻って、狐の耳も尻尾も消えている。
傷は松本が驚くほど早くかつきれいに治り、痕も残らなかった。まさか松本に『お稲荷様のお姫様なので、痕が残りませんでした』とは言えず、その回復ぶりを不思議がるのを、千鶴とは気まずい思いでごまかした。
天気のいい今日は、土方の買い物の供をしていた。は買い物なら自分が使いに出てくると言ったのだが、下手人がまだ捕まっていないのにを一人で出歩かせるわけにはいかない、かといってほかの者に買ってくる品物を知られたくはないと土方が頑なに言い張り、結局二人で出かけてきたのだ。には10日ぶりの外出だった。
「…っ」
の喉がちいさな悲鳴を上げたのは、買い物も済ませ、散歩がてらに少し遠回りをした大通りの辻でのことだった。
「、どうした?」
の気配が変わったことに鋭く気付いた土方が振り返る。は土方の背に隠れながら、震える指で前方を指した。
「あそこに……」
斜め前、かろうじて姿が見える距離にいる浪士の一団。同じ方向に歩いているので、土方からは顔が見えない。だが、がなにを訴えようとしているのかはすぐにわかった。
とっさに土方は近くの小間物屋に飛び込む。そこには、諜報活動中の山崎がいた。は知らなかったが、そこは監察方の協力者になってくれている小間物屋だった。
「山崎、伝令を頼む。近くを三番組が巡察している。すぐに来るよう伝えてくれ。例の辻斬りと言えばわかるはずだ」
「承知」
山崎が裏口から出ていくと、協力者である店の女将に、土方はを預けた。
「すまねえが、俺が戻ってくるまでこの女を預かっててくれ」
「は、はい」
女将の返事も待たず、土方は飛び出していく。はついて行きたかったが、怪我が癒えたばかりの自分では足手まといになると思い、我慢した。
やがて、男たちの怒声と剣戟の音が聞こえてくる。遠くから駆けつけてくる足音とともに、「副長」という斎藤の声も聞こえた。斬り合う音が増え、怒声に悲鳴が混じり始める。
はただ、一刻も早く無事に戦いが終わるのを、小間物屋の女将と二人で祈るように待っていた。
土方が傷一つなくを迎えに来たのは、それから間もなくのことだった。
辻斬り騒動は、こうして、下手人の浪士たちが新選組に討ち取られて決着した。
はこれまでと変わらずに副長の補佐に戻ったが、しばらくの間、土方の過保護が度を越していたのは、それに気付いていた試衛館からの仲間たちだけの秘密だ。