土方が戻ってきたのは、夕食が始まったころだった。
玄関の前がざわめいたかと思うと、荒々しい足音とともに土方が広間に入ってくる。
「が怪我したって!?」
「おお、おかえり、トシ」
いつも通りの近藤に迎えられて、土方はじれったそうに詰め寄る。
「『おかえり』じゃねえよ。が怪我したってのは本当なのか、近藤さん」
「まあ確かには怪我したが、松本先生に手当てしてもらって、何の心配もない。いまは食事をしているはずだから、トシもまずは夕飯を食べて、済んでから顔を見に行ってやってはどうだ」
「そんな悠長なこと言ってられるか。とにかく、様子を見てくる」
「駄目です!!」
いらいらと部屋を出ようとする土方を止めたのは、千鶴だった。夕方、あんなふうに泣くを見てしまっては、とてもではないが土方を部屋に入れるなどできない。
「なんだと!?」
「さんは大怪我をして、いまとても疲れています。もうすこし落ち着くまで……せめて明日まで、待ってあげてください」
「明日までだと? 近藤さんは『食事がすむまで待て』とか言うし、ああ言ったりこう言ったり、いったいなんなんだ」
「なにって……」
かみつくように土方に問われて、千鶴が言葉に詰まる。そこに割って入ったのは、山南だった。
「土方君。忘れているかもしれませんが、君は嫁入り前の女性です。夫でもない君が、その病室に入るのは、道徳的に見ていかがなものかと思いますよ」
「な…っ!!」
「あー…、それはよくねえな、土方さん」
「土方さんが責任取れるってんなら、また別じゃねえ?」
「駄目だって! そんなことになったら、、絶対ぇ泣くって!」
原田、永倉、藤堂が山南の言葉に乗っかった。思いがけない指摘に絶句した土方は、気を取り直して反論する。
「うるせえ! てめえらだって、入ったんじゃねえのかよ」
「そりゃまあ。が怪我したのは脚だから、運んでやらなきゃどこにも行けねえだろ」
「脚!?」
「なんだ、トシ。島田君に聞かなかったのか」
原田の言葉に反応した土方に、近藤がきょとんとして訊ねた。島田はの怪我の詳細を知らされた上で土方の迎えに出ている。
「そりゃ…が怪我したくらいは聞いてきた」
「どこをどの程度ということは?」
「島田はそこまで言わなかったぜ」
正確には、島田がそこまで言う前に馬で飛び出してきた、の間違いだが、それを訂正できる当の島田はまだ帰着していない。
「そうか。は脚を怪我して、歩けないんだ。それで……」
「で、歩けねえをどうやって部屋まで運んだって…?」
説明し始めた近藤を遮るように、地獄の底から這いあがってくるような低い声が土方から発せられた。
藤堂と千鶴が、びくっとして身を縮める。腹をくくった永倉と原田が手を挙げた。
「屯所までは俺が運んだ」
「そのあとは、俺が抱いて部屋まで運んだ」
「ほほぅ」
「仕方ねえだろ。は自分で歩けねえんだし、土方さんは外出してたんだしよ。千鶴がを運べるわけもねえんだし」
とはいえ、原田もまだ命が惜しいので、抱き上げた時にが素直に腕を回した姿がとても可愛らしかったことだとかは、言わない。
「副長。そんなに気になるのなら、一度様子を見てきては」
まるで厄介払いをするように、斎藤が口を開いた。それまでなんとかしてと土方を会わせないように努力していた千鶴たちは、「何を言い出す!?」と斎藤を凝視するが、斎藤はお構いなしに淡々と続ける。
「の様子がわかれば、すこしは安心できるでしょう。松本先生の見立てもお伝えしたいですが、その前にまずは副長が落ち着かれる方が先では」
斎藤に言われて、土方はようやく、自分が外出から戻った格好そのままであることや、朝餉を食べてから今まで茶ぐらいしか口にしていないことに気付く。
「そうだな…。とにかくに戻ったと伝えてくる」
そう言って土方が広間を出ていくと、その場の全員が斎藤をぎっと睨んだ。
「一君! あんな言い方したら、土方さん、のところに行っちゃうじゃんか!」
「そうだよ。夕方、泣いていたを見ただろう。またあんなふうに泣かせたら、かわいそうだ」
代表するように藤堂と井上が斎藤を責める。だが、斎藤は表情も変えずに「大丈夫だ」と応えた。
「いまのは手負いの獣と変わらない。副長が無理やり入ろうとすれば、神力を使っても拒むだろう」
「いやぁぁ―――!!」
がらがらがっしゃん。
斎藤の言葉とほぼ同時に、の悲鳴とともに派手な音が響く。斎藤と山南を除いた全員が障子を開けて首を伸ばし、予言通りになった庭を見た。
土方が障子を開けようとした瞬間、が使いを放ったらしい。小狐が障子を突き破り、回転しながら土方の腹に飛び込むと、勢いで吹き飛んだ土方の上にどさどさと小狐たちが乗っかったのだそうだ。
千鶴たちが様子を見に行くと、小狐山の下敷きになった土方が庭に倒れていて、部屋の中では、とうとう耳まで顔を出したが小狐を一匹抱きしめて半泣きになっていた。
障子はすっかり駄目になっていたので、斎藤と沖田が別の部屋から障子を外してきて、の部屋に取り付ける。原田と永倉と藤堂は庭の小狐山を解体して土方を救出する作業に取り掛かった。小狐たちは土方に懐いているので、解体するにもひと苦労する。千鶴は部屋の中で、をなだめ、傷の様子を確かめる。
結局、元の通りに障子がはめ込まれたの部屋の前には、使いの狐が二匹、番に就くことになった。
「話を聞こうか」
小狐山の下から救助された土方は、着替えを済ませ、夕食を摂ると、不機嫌を隠すこともなく口を開いた。
土方が落ち着き次第、事情聴取が始まると予想していた幹部たちは、千鶴の淹れたお茶を飲みながら待っていたが、土方の言葉と同時に湯飲みを置いて土方に向き直る。
「俺が巡察の途中で、道端にうずくまってるを見つけた。左脚が血塗れになってたんで、抱き上げて屯所まで連れて帰ったんだ」
永倉のあとを、藤堂が引き継ぐ。
「で、俺が松本先生を呼びに行ったってわけ」
「松本先生とわたしで、さんの手当てをしました。傷は、縫いましたけど、きれいに治るだろうって松本先生は仰っていました。縫った傷はたいてい痕が残りますが、さんは治癒力が強いので、痕も残らないと思います」
千鶴が傷の説明をすると、広間に沈黙が漂う。誰も、が使いを放ってまで土方を拒んだ理由を説明しないからだ。しびれを切らした土方が、うなるように尋ねる。
「が俺を近づけねえのは、どうしてだ」
「土方君は、女性にとてももてる割に、女心を理解していないのですね」
応えたのは、冷笑混じりともとれる山南の冷ややかで穏やかな声だった。
「いくら普段は見えないところとはいえ、痕が残ってもおかしくない傷を負ったのですよ。女性なら誰でも、その事実に深く傷ついて、誰にも会いたくないと思うものです。まして、君は嫁にも行っていない若い女性です。それでなくとも、病みついた姿で人前に出たいと思う女性など、いませんよ」
「だとしても、原田や斎藤はの部屋に出入りしてたっていうじゃねえか」
「身の回りの世話で、必要だったからな」
「雪村では、力のいることはできませんので」
そこを言われても困る、と原田は顔をしかめる。斎藤の言うことももっともだったが、彼らはよくて土方は駄目な理由にはなっていなかった。
「それはそうと、土方さん。のあの傷、刀傷だぜ」
話を変えようと、やや強引に永倉が気になっていたことを口にした。
「俺はその場を目撃したわけじゃねえけどよ。あの傷の大きさは、刀だぜ。位置と向きから考えて、こう…すれ違いざまに、斬りつけたんじゃねえかな」
「それって、辻斬りってこと!?」
藤堂の質問に、永倉は難しい表情のまま答える。
「かもしんねえ。個人が斬りつけられる理由はねえだろ」
「最近辻斬りが出てるって話は、入ってきてねえがな」
「が外出するときは、大抵俺たちの誰かが一緒にいる。新選組幹部の顔を知っている浪士たちに覚えられていても、不思議はないが」
原田の反論に、斎藤も別の可能性を示唆する。永倉はうなずいて、
「だとしたら、犯人は本気でを殺す気だったはずだぜ。俺がを見つけたのは、大通りから2本も離れたところだ。俺らの巡察でもなけりゃ、邪魔するような人間が通りかかることもねえ。が抵抗したとしても、女一人、殺すのは楽だろうぜ」
「つまり、下手人はを殺すつもりはなかったということかい?」
井上の確認に、永倉はうなずく。
「ああ。あの程度の傷で済んだことが、を殺す気じゃなかった何よりの証拠だ。つまり、下手人は誰でもいいから人を斬れりゃよかったのさ」
だとしたら、こんなに被害者に向かない人選はなかった。壬生狼を敵に回して、命があることはあり得ない。
「よし。おまえたち、明日から、巡察のときは情報収集と下手人捜しを頼む。近藤さん、山南さん、会津や桑名のお偉方から情報を引き出してきてくれ」
話を聞き終えた土方はどすの利いた声で次々と指示を出す。名を呼ばれた彼らは、それぞれにうなずいた。
「人のもんに傷をつけた罪、命で償ってもらうぜ」
土方の怒りは、もう誰にも鎮めることができないほど、強くなっていた。