「副長」
内偵に出ているはずの島田が副長室を訪れたのは、ある日の午後だった。
「いいぜ。どうした?」
土方が入室を許すと、島田は障子を開けたが、中には入らずに口を開く。
「お忙しいところ、申し訳ありません。少々、ご足労をお願いしたいのですが」
「どこだ?」
行先を訊ねながら、土方は持っていた筆を置く。ちらりと隊服に目を向けると、島田は首を振った。新選組だと知れない方がいいようだ。土方は大小を取ると手際よく佩き、部屋を出る。
島田が告げた行先は、監察方が拠点に使っている協力者の店のうちの一つだった。
土方が事情をあれこれと質問しなかったのは、島田の声が切羽詰っていたからだった。土方が仕事を山のように抱えていることは島田も知っている。その土方を屯所から引っ張り出そうというところから考えても、軽い用件であるはずもない。どちらにしろ、行けばわかる話だ。
目的地の古着屋からは、なにやら男の怒鳴り合う声が聞こえてくる。眉間にしわを寄せながら、土方は中に入った。
「邪魔するぞ」
どんっ!
声をかけるのと同時に、なにかが勢いよくぶつかってくる。衝撃を踏み堪えた土方は、それがであることに気付いた。
「!?」
驚く土方に、はぐいぐいと額をすり付けながらしがみつく。その後ろで、山崎の怒鳴り声が響いた。
「だから言っているだろう、この人には決まった人がいると!! いい加減にしないと、役人を呼ぶぞ!」
「なんの話だ、山崎!?」
「しぃっ! 副長、ここは我々に話を合わせてください」
さらっととんでもない山崎の発言を聞き咎めると、背後から島田にたしなめられる。その間も、は助けを求めるように土方にひしっとくっついている。土方はさっぱり状況がつかめないまま、のしたいようにさせながら、山崎と対峙している相手に目を向けた。
育ちのよさそうな青年。大店の息子といったところだろうか。山崎に食って掛かっている。その山崎も、常に冷静な彼にしては珍しく、いらいらと仁王立ちしていた。の身体の向きと、いまの全員の位置関係からすると、山崎はを背に庇って、青年と向き合っていたらしい。
「その決まった人とは誰ですか。さっきからそう言ってはいるけれど、名前すら明かしていませんよね。本当にいるんですか、そんな人? 僕に対する嫉みから、彼女を渡すまいとしているだけなんでしょう?」
「誰が嫉むか! 名前を明かせないお方だと、何度言えばわかる!?」
「山崎、ご苦労だった」
なんとなく状況が飲めた土方は、ため息を吐きながら割って入る。土方の声を聞いて、山崎ははっと我に返ると、生真面目に頭を下げた。
「ふ…あ、いえ。申し訳ありません、ご足労をおかけしました」
うっかり『副長』と呼んでしまいそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ山崎である。
「かまわねえよ。…経緯は知らねえが、を守ってくれてたみてえだな。礼を言う」
「とんでもないです。自分は職務を果たしたまでです」
「あなたが、その『決まった人』ですか?」
かしこまる山崎の向こうで、青年がぎらりと土方を睨みつける。途端に、がぴゃっと土方の背中に隠れ、潤んだ目で土方を見上げる。思いがけず可愛らしい仕草に一瞬動揺するが、気を取り直して、土方は安心させるように微笑むと、構えるでもなく青年に向き直った。
「うちのが、なにか迷惑をかけたみてえだな? 悪かった」
「いいえ」
一芝居打ちつつ、あえて本題を反らした土方の意図を汲み取ることもなく、青年はまっすぐに首を振る。
「迷惑なんて、かけられていません。僕はただ、さんに嫁に来てほしいという話をしていただけです」
「そこの山崎が、説明はしたと思うが?」
「はい。僕にはとても信じられない内容でしたので、納得できませんでした」
まっすぐで恐れを知らない青年の返事に、土方はくつくつと笑いをこぼす。
「信じられねえとは、ずいぶんな言われようだな。山崎、なんて説明したんだ?」
「さんには、すでに決まった人がいる。身分も名前も明かせないが、その人がいる以上、そちらの嫁にはなれない……と」
「なるほど、間違ってねえな。それを信じられねえとは、山崎も説明のし甲斐がなかったろうよ」
「だって、当然じゃないですか! 名前も身分も明かせないような人が決まった人なんて、ただの嘘に決まってるし、もし嘘じゃなかったとしても、ろくな人じゃないですよ!」
「そんなこと!」
ここにきて、ようやくが声を発した。土方が『ろくでもない』と言われて、黙っていられなかったのだ。だが、青年の圧しに怯えて、すぐに土方の背にすがりつく。
土方はの髪をさらりと撫でると、ふんと鼻で笑った。
「とりあえず、てめえの審美眼は褒めておこうか。こいつを見初めるとは、悪くねえ。ただ、運が悪かったな。こいつはもう俺のものと決まってる」
「『女房』とは言わないんですね。こんなに美しくて気立てのよい人を、妾にして囲っているということですか。許せません!」
土方の言葉尻を捕まえて、余計に食って掛かる青年に、土方はいまさらの質問をする。
「ところで、さっきからなかなかの態度だが、てめえは何者だ?」
「僕は若狭屋の息子で、与吉といいます。そちらのさんを僕の嫁にほしいんです」
「俺のものだと言ってもか?」
「妾奉公をしていた人が旦那に捨てられて嫁ぐのは、よくある話ですよね」
「は妾なんかじゃねえ。俺の女だ」
そんな事実を作ったこともないが、ここまできたら売り言葉に買い言葉だ。さらりと宣言して、土方はを抱き寄せる。はぴたりと土方に寄り添い、警戒するように与吉に目を向けた。
「信じられません! ただお芝居をしているだけじゃないと、誰が証明してくれるんですか?」
指摘はなかなか鋭いが、芝居をしてまで求婚を拒みたいのだとは察してくれないらしい。土方と山崎と島田は、深い溜息を吐く。
「じゃあ、てめえはどうしたらが俺のものだと信じるんだ?」
「さんがあなたのものだとわかるようにしてくれたらです」
「こいつはさっきからずっと俺にすがりついてるが、それじゃ足りねえか?」
「足りません!」
きっぱりと言う与吉に、4人は頭を寄せてぼそぼそと早口に話し合う。
「どうしますか、副長」
「局長か誰かに、仲人のふりをしてもらいますか? それで、確かに祝言に立ち会ったと言ってもらうとか」
「それで信じるか、あいつ? 現に今だって、芝居だと言われてるんだぞ」
「しかし、証言してもらう方法が駄目なのでは、あとはもう家に連れて行くしかなくなりますよ」
「家って……我々は屯所に住み込みですよ、島田さん」
「あの、屯所ではいけないのですか? 土方殿は新選組の副長だと言って……」
「屯所に連れて行くとなると、我々が新選組で、ここが新選組に協力していることが露見します。我々は京の町で嫌われていますから、協力していたこの店の人たちに迷惑がかかってしまいます」
「では、手近な家をしばらく借りましょうか」
「借りてどうするんだ」
「そこでしばらく副長とさんに生活していただいて、納得してもらうしか……」
「そこまでするんですか?」
「では逆に訊きますが、さん、あの男と結婚したいですか?」
山崎に訊かれて、ぷるぷると勢いよく首を振るである。