ドアの開く音を聞いて、雲雀は顔も上げずに言い捨てる。
「草壁? 食事ならいらないから、片付けて」
「恭弥!! どうしたんだ、こんなにやつれて。ダメじゃないか、ちゃんと食べないと」
言い終わるかどうかのうちに、温かい手に肩をつかまれる。飛び込んできたのは、誰よりも聞きたかった声だった。
だが、続いた言葉はなんだかおかしいと雲雀は思った。どうした、だって? ぱしんと肩の上の手を払いのけ、目の前の人の胸倉をつかむ。
「誰の所為でこんなだと思ってるの!? 無事なら無事だって、どうして連絡ひとつしないんだっ!」
「どわっ!」
不意打ちを喰らったディーノは、バランスを崩して一瞬よろめく。次の瞬間、胸を押さえて小さく呻くのを見て、雲雀は手を離した。
「無事なんじゃなかったの?」
「まあ、命は無事だったけど、それ以外じゃあんまり無事でもねーかな」
ディーノの右肩から胸にかけては包帯でがっちりと巻かれ、顔と言わず手と言わず、あちこちに絆創膏が貼ってある。右肩は固定されているのか、袖を通してはいなかった。
「恭弥、心配してくれてたんだな」
バツが悪そうだが嬉しそうでもあるディーノを、雲雀は「バカ馬」とつぶやいて張り飛ばした。
「これ」
ソファに落ち着いたディーノに、雲雀はリングを差し出した。
「僕が貰っていいんでしょ」
「おう。恭弥の為に作らせたからな」
頷くディーノはまだ少し顔色が悪かった。後ろに立つロマーリオも、頭に包帯を巻いている。本当は無理をするなと怒鳴りつけたいところだったが、そんな状態でも会いにきてくれたことが嬉しくもあった。
「赤ん坊から、託ったって渡されたけど」
「ああ。それを恭弥に渡す前にオレになにかあっても、それは絶対に恭弥に渡るようにしてあったからな」
「どうして?」
「それがあれば、恭弥はキャバッローネに対して、オレの次に権限を持っていることになる。ボンゴレリングと併せれば、恭弥の身元と安全は、誰も脅かすことができない」
それはつまり、このエメラルドのリングは、エンゲージリング以上の意味を持つということだった。もちろん、ディーノはエンゲージにするつもりで用意しているのだけれど、結果的にはリングの威力は、それをはるかに超えている。キャバッローネが雲雀のプライベートについて、全面的に責任を持つということだった。
それほどのリングを雲雀に用意してくれた気持ちが嬉しくて、雲雀はリングを嵌めなおすと陽の光に翳した。高価すぎることへの反発心は、いつの間にか消え去っていて、そんな気持ちを持ったことさえすでに忘れていた。豊潤な緑の前では、それでよいのだろう。
リングに見入る雲雀の様子に、ディーノは満足そうに…だが、すまなそうに続けた。
「本当は、まだ渡しちゃいけないんだけどな。恭弥が言っていた『恭弥が貰って一番嬉しいもの』、見つけられてないから」
「…は?」
エメラルドを矯めつ眇めつしていた雲雀は、ディーノの言葉に引き戻される。きょとんとした目を向ける雲雀に、ディーノは困った顔で頭を掻いた。
「散々考えたんだけど、さっぱり思いつかねーんだよ。恭弥は服とか靴とか興味ねーはずだし、なんかのコレクターとかでもねーし。恭弥が16歳になる前にそのリングを贈りたかったから、必死で考えたんだけど、完全にお手上げなんだ」
雲雀は一瞬、どうしてこの人のことをこんなに好きなんだろうと、自分の感情が恨めしくなった。乏しい情報で生死を心配していた自分に、生きて帰ってきた感動に浸る間もなく、この人は実にのん気な悩みを暴露する。条件を覚えていてくれたことも、一生懸命に考えてくれたことも、本当なら喜ぶべきことなのだろうけれど、状況が状況なだけに、正直、腹立たしい。
「考えながら運転してたら、道には迷っちまうし、ハンドルミスって事故っちまうし、単独事故だったから話は簡単だったけど、巻添えで携帯壊しちまうし、電話借りようと思って近くの家に行ったら、そこがちょうどやりあってたファミリーのボスの情婦の家で、迎えを呼ぶどころか傷の手当てしてもらえただけラッキーな有様で……」
調子よくしゃべるディーノに、雲雀のもともと決して丈夫ではない堪忍袋の尾は、あっさりと引きちぎれた。
「ちょっと待て。なにその間抜け極まりない顛末」
「え…」
「あなた、ついさっきまで生死不明だった人間の自覚、ある!? なに、その緊張感のなさ」
「ちょ…恭弥?」
「行方不明だって聞いた直後に、このリングだけ渡されて、僕がどんな想いしたと思うの!?」
「わかった、悪かった」
感情にまかせて詰め寄る雲雀に、ディーノの宥めるような詫びが、油を注ぐ。だんっとソファを蹴るようにして立ち上がり、雲雀は叫んだ。
「悪いなんて思ってないでしょ、このバカ馬! 僕のことも考えないで、よその女の家にいて!」
「そんなことない!」
「怪我の手当てだって、その女に取り入って、してもらったんでしょ! どうせ僕は、包帯だって満足に巻けないよ!!」
「恭弥!」
「あなたなんかっ! そのまま…んっ」
わめき散らす雲雀が、いちばん言ってはならないことを、衝動的に口にしようとした瞬間。言葉ごと、ディーノがキスで封じ込めた。怪我をしていない左手で雲雀の右腕を封じ、痛みを押して右手を雲雀のあごに添えて。
深いキスに、雲雀の眦からぽろりと涙が零れ落ちる。一緒に、張り詰めていたものが切れたように、ふっと雲雀の身体から力が抜ける。雲雀の右手首をつかんでいた手を離し、ディーノがあやすようにぽんぽんと背を叩くと、雲雀は泣き顔を隠すようにディーノに縋りついた。
「ごめん、恭弥。抗争なんかオレにはもうすっかり慣れたもんだったし、襲撃受けたわけでもなかったから、そんな大したことに思ってなかった。そうだよな、普通なら、消息不明っつったら、すげー心配するもんだよな。本当に、すまなかった」
「うん」
雲雀の顔の当たる、ちょうどシャツの胸の辺りが、じんわりと熱くなる。本気で雲雀を心配させたのだと、ディーノはようやく思い知った。
「ごめん恭弥。本当にごめん」
雲雀の細くなった肩をぎゅっと抱きしめる。雲雀はぴたりとディーノの胸に頬を寄せて、心音を聞いていた。
「まだ怪我も治ってないのに、僕のところに来たの?」
「ああ。ボノには悪いと思ったけどな。全部任せて、来ちまった」
「大変だったんだぜ、恭弥。なにしろ、ボスは助け出されるなり、今すぐ恭弥に会いてーって聞かなくてよ」
ディーノの言葉を聞いて、にやにやとロマーリオが口を挟んだ。普段ならば、ディーノと雲雀の会話に入ってくるなど、まずしないというのに、今度ばかりはぜひとも補足説明をしたいらしい。
曰く、ボノが仕掛けた作戦は上手く行って、ディーノとロマーリオは作戦実行から数時間の後には救出された。そのとき、いちばん最初にディーノが言ったのは「恭弥に会いたい」で、病院で手当てを受けたあとすぐに、医師や部下の制止も振り切って、ろくな検査も受けずに飛行機に飛び乗ってきたのだ。
「じゃあ、ちゃんと診察受けてないってこと!?」
どうやら軽傷とはとても言えない状態なのに、応急処置だけで飛んできたと聞いて、雲雀の眉がふたたびキリキリと上がっていく。せっかく納まった機嫌がまた悪くなってはたまらないと、ディーノは慌てて釈明した。
「仕方ねーだろ。オレは今すぐ恭弥のところに行かなきゃいけねーって思ったんだよ」
「ふぅん?」
「上手く説明できねーけど、部下に無事を知らせたら、次は何をおいても恭弥に会わなきゃいけねーって、そればっか考えて」
「わかった。いいよ、怒らないから」
「え?」
「条件。ちゃんと、できたじゃない」
呆気に取られるディーノの腕からするりと抜け出し、「結果オーライだっただけだけど」と流し目で笑って、雲雀はエメラルドにキスをした。