突然現れた、金髪の青年。リボーンの知人だというから、さぞかし強いのだろう。最初の興味は、ただそれだけだった。
彼は毎日学校に来て、雲雀は彼の顔を見れば咬み殺さずにいられずトンファーを振るう。その繰り返し。雲雀はいつも勝てなかった。彼は引き分けだと言うけれど、草壁とロマーリオに止められてその日の仕合を終えるときに、より消耗しているのは、必ず雲雀だった。
いつ雨が降り出してもおかしくない空の下、並盛中の屋上で、雲雀は今日も金髪の青年と仕合う。
名前は知らない。初めて会った応接室では、名前を聞く前に戦闘態勢に入った。その後、彼が名乗っていたかどうか、記憶がない。自分からは訊ねていないから、そのままになっている。でも、名前を知らなくても仕合える。
伸びてくる鞭を、左腕でブロックする。絡め取られては厄介だ。受け流すように腕を引いて払い、右のトンファーで打撃を繰り出す。上体を仰け反らせてかわした彼は、その勢いを使って鞭の軌道を引き戻す。咄嗟に飛び退った雲雀を、新たな一撃が追いかけた。
必要なのは、彼が応接室に来ること。武器を持って、部下を連れて。ただそれだけでよかった。リボーンのことも、彼が自分にしたがっている話も、もともと然して興味があったわけでもなかったけれど、何日もしないうちに、本当にどうでもよくなっていた。
ビシィッ! 懐に入った鋭い一撃を、雲雀は続けて跳躍することで避けた。わずかに衝撃はあったが、喰らったというほどではない。
こんなときに考え事をするとは、自分らしくない。集中さえしていれば、今の一撃だって完璧にかわせていた。それができなかったのは、きっと、屋外での活動を躊躇いそうなこの天気でも彼が来たのが、嬉しかったからだろう。
トッと着地した雲雀が、同時に、次の動作に移るために彼の動きを確認しようと視線を投げる。次の攻撃を仕掛けてくるはずの彼は、しかし鞭を構えることもせず、茫然と雲雀を見ていた。
「恭弥……おまえ、女だったのか…」
彼が見ていたのは、シャツの胸元。ボタンが鞭で飛ばされ、大きく開いた袷からスポーツブラが見えていた。それでこの人は動きを止めたのかと、雲雀は構えの姿勢を解いた。
「だったら、なに?」
なくなったボタンの代用品を求めて、雲雀はポケットを探りながら訊ねる。恥ずかしがるでも慌てるでもない雲雀の反応に、彼はきょとんとした表情を消せない。
「僕が女だと、なにかある?」
「なにか…って……そりゃ」
淡々とした雲雀の様子は、本当に、これを瑣末事としか考えていないそれだ。あんまり雲雀が平静すぎて、かえって彼のほうがうろたえる。
「女にそんな怪我させちゃ、男は慌てて当然だろ。まして、顔にも傷作っちまったし……おまえ、女だって、言わねーから」
「言う必要ないでしょ」
結局ポケットになにも入っていなかったため、雲雀は風紀の腕章についているスペアの安全ピンを外した。それを使って、シャツの袷を留める。応急処置としては、これで充分だ。
「んなわけ…」
「ないんだよ」
雲雀は一言でぴしゃりと彼の言葉を遮る。本気で彼の戸惑いを煩わしく思っているようだった。けれど、彼は気づいてしまった。雲雀はたぶん今、悲しい。
「困ってるみたいだから、言っておくよ。確かに僕は女だよ。訊かれたら認めるし、特別隠してもいない。疑うなら、その辺の生徒を捕まえて訊いてみたら? 僕が女だって、知ってる生徒は少なくないよ。あなたが誤解しているのには気付いていたけど、訊かれなかったから言わなかった」
「恭弥」
「その必要があれば、色仕掛けだってするよ。僕は女であることが嫌なわけじゃない。だけど、変える必要のない態度を、女だからってだけで変えられるのは、気に入らないね」
雲雀は嘘をつかない。まだ出会って数日だけれど、彼にはそれがわかっていた。今だって、雲雀の言っていることはすべて雲雀の真実。だけど、彼はまだ知りたいことを訊いていないような気がしていた。
雲雀の何を知りたいのか、彼にも明確にはわからない。もしかしたら、雲雀が隠していることを暴きたいだけなのかもしれない。ただとにかく、彼は雲雀のすべてが欲しかった。
「オレはそんなつもりはねー。ただ」
「同じでしょ。現にあなたは、もう僕と戦う気持ちをなくしてる」
答えながら、雲雀は心が波立つのを感じた。どうして、この人にこんなことを言っているのか、自分でもわからない。この人が僕に戦意を持っていてもいなくても、僕は咬み殺せばそれでいいだけのはずなのに。
「残念だよ。あなたも結局、型を押し付ける大人と違わなかった。僕は僕だ。女とか男とか、そんな物差は僕には関係ない。僕はいつだって、僕のしたいようにしかしないし、誰の指図も受けない。それが嫌なら、二度と僕の前に顔を見せるな」
もう彼を、雲雀は咬み殺したいと思わなかった。
言うだけを言って、雲雀は屋上を後にする。残されたのは、どうしたらいいのかわからないままの彼と、そんな彼を痛ましげに見るロマーリオだけだった。
「ちゃおッス、ヒバリ」
翌日の放課後、応接室に来たのは、彼ではなくリボーンだった。残念を通り越した落胆を、雲雀は遠いところで感じた。
「珍しいね、赤ん坊。何の用?」
「おめー、オレの教え子に、何をした?」
「どういうこと?」
いつになく真剣な表情のリボーンに、雲雀は眉を寄せる。リボーンのことを認めてはいるが、こんな風に責められるのは心外だった。
「ディーノの奴、おめーを怒らせたから、もう家庭教師はできねーと連絡してきた。こっちだってツナを鍛えるので手一杯だってのに、あいつ、もうダメだって聞きゃしねー。あいつがあんなんなるってことは、ヒバリ、おめーと何かよっぽどのことがあったんだろ? 何したんだ」
「あの人、ディーノっていう名前だったの」
リボーンの問いかけにも答えず、雲雀はつぶやいた。正直、リボーンの言葉の半分も、雲雀の耳には入っていなかった。初めて知ったディーノの名前を覚えることだけに、雲雀の意識は行っていた。
「なんだ。名前も知らねーで毎日特訓してたのか?」
呆れたようなリボーンの言葉さえ、雲雀の頭を素通りしていく。雲雀は確かめるように何度かディーノの名前をつぶやいた。
「ディーノ……ディーノ。ディーノって名前だったんだ……」
ディーノの名前を口にするたびに雲雀の表情が優しくなっていくのを、リボーンは信じられない思いで見ていた。孤高の浮雲に選んだ気高い少女は、リボーンの目には間違いなくそのとき、ただの恋に焦がれる少女でしかなかった。雲雀の知ると知らざると、好むと好まざるとに関わらず。
「ヒバリ。ディーノと何があった」
「何も。赤ん坊が思うようなことは何も」
頭を振る雲雀の、目の前まで近寄って、リボーンは雲雀の視線を自分に固定する。雲雀はまっすぐにリボーンを見返した。その目に、戸惑いがあるのを、リボーンは見逃さなかった。
「言え」
「あの人が、僕が女だと知った。それだけだ。何かあったうちに入らない」
「おめーは本当にそう思っているか?」
「そうじゃないなら、なんだと言うの」
言い返した雲雀の口調で、リボーンは雲雀がそう思おうとしているのだと気付く。もしかしたら、それだけじゃないと、とっくに雲雀は気付いているのかもしれない。けれど、雲雀はそれを認めたくないがために、そこから目を逸らしているのだ。
「僕が女だったことは、そんなに大事件? 笑わせないでよ、そんなの今さらだ」
「そーだな。オレにとっちゃ、確かに今さらだ。だけどな、ヒバリ。自分が女だってことをそんなに気にするお前も、今さらだぞ」
「ああ、そうだね。今さらだ。僕は女だ。間違いようもなく女だ。だけど、僕はそこで立ち止まらない。もっと先へ、僕は僕でしかないところへ行くんだ。だから、女でしかない僕は、置いていかなくちゃいけないのに」
「それとディーノと、どう関係があるんだ?」
「関係なんてない。関係あると思っているのは、あの人だけ。僕が女だから、あの人はもう僕に鞭を振るわない。ただ、それだけ」
雲雀は明らかに、傷ついていた。女である自分に。そして、自分に女であることを、女は男と同じには扱われないのだと、突きつけたディーノに。ディーノが、もう自分と戦わないことに。傷つき、絶望していたのだ。
「本当に、そうか?」
「それ以外に、何があるの!」
リボーンはいつもと同じ表情の読めない面持ちで、容赦なく雲雀を見据える。気圧されそうになって、雲雀はぐっと唇を結んで睨み返す。言いたくなかったことを言わされて、渦を巻く悔しさの片隅、楽になっているのを雲雀は認めたくなかった。
「ヒバリが不満なのは、ディーノがもうおめーと戦わねーことそのものじゃねー。その結果、ディーノが家庭教師じゃなくなって、二度と顔が見れなくなる。そっちじゃねーのか」
「寝言は寝てるときに言ってよ。二度と来るなって言ったのは、僕だ」