ディーノが応接室にやってきて、頼みごとをしたとき、雲雀の頭を占めたのはひとつだけだった。
僕は、ＦＢＩ捜査官でもなければ、某国の情報部員でもない、並盛の風紀委員長なんだけど。
しかし、雲雀以外の女性に興味の向かないディーノの都合と、他の女性と一緒のディーノを見たくない雲雀の願望は、例によって例のごとく、他の選択肢を許してはくれず。
そして、雲雀は社交ダンスの特訓という、人生において経験する予定があったかなかったかという括りで考えれば限りなくなかった方にカテゴライズされる経験を、することになったのだった。
べしっ！
「イテッ！」
いい音を立てて、ハイヒールがディーノの脚に当たる。思わずそこを押さえたディーノは、振り返った先で床に座り込んでいる雲雀を見つけた。
ディーノが特訓のために手配した練習スタジオ。その真ん中で、ぺったりと床に座り、裸足の雲雀がすっかりむくれている。
「恭弥…」
またかとディーノは気の毒そうな表情を浮かべる。社交ダンスの、とりわけスタンダードは決め事が多くて細かい。型に嵌められるのを嫌う雲雀は事ある毎に癇癪を起こしていた。
「……そんなに嫌なら、やめようか。もしかしたら正規の出席者としてじゃなくても、なんとか会場に入れるかもしれねーし」
雲雀を気遣うディーノはそう言ってくれたが、今回の事情を考えれば無理なく会場にまぎれられる方が得策なのは、雲雀にもわかっていた。
月末に開催される本格的なダンスパーティで、ドラッグの取引があるという話がキャバッローネに舞い込んだのは、先週のことだった。
それはキャバッローネのみならず、裏社会の不文律に則って活動をしているファミリーのいくつもが問題視している、秩序を無視した新興勢力による取引。ディーノは現場を押さえるために、会場に行くことを決めた。
立ちふさがったのは、そのダンスパーティ自体は堅気のダンス協会が主催する、業者やスタジオ経営者などが参加するイベントだということだった。もちろん、関係者ばかりとなれば、ハイレベルなダンスが当然のように踊られることだろう。
斯くして、なんとか手に入れた参加証で、ディーノはダンススタジオ経営者という名目として会場入りしなければならなくなり。
「いいよ。一度引き受けたんだから、このくらいやってあげるよ」
雲雀は急遽、ディーノのパートナーとしてスタンダードを踊らなくてはならなくなったのだった。
ディーノ自身は、マフィアかどうか以前に、ある程度の財産を保有し、国内でも名を知られた企業の経営者であるという点から、パーティに必要な教養はすべて身につけていた。ダンスも、何度か振り合わせをすれば、それなりに見られる程度には踊れる。
ダンスの特訓が必要なのは、雲雀だけだった。それが雲雀をさらに不機嫌にしている。
「恭弥、運動神経すごくいいんだし、その気になればいくらでも踊れるようになるぜ」
ディーノはそう言って、すっかりダンスを嫌いになってしまった雲雀の気を引き上げて、１曲誘う。愛しげになだめられて少しだけ機嫌の直った雲雀は、仕方なさそうにハイヒールを履き直して立ち上がると、ディーノと組んだ。
「もう、振りは覚えたんだろ？ 手ごたえとか、どーだ？」
ワルツのステップを踏み出し、ディーノが訊ねると、雲雀は危なげなくついて来ながら答える。
「どうって言われても、基準になる経験なんてないから、わからないよ」
ディーノのリードに乗って、クローズドチェンジからリバースターン、スピン、と踊る雲雀は、無表情であることを除けば、パーフェクトな仕上がりだった。
「大丈夫みてーだな。よかった」
「このレベルでいいなら、ヴェニーズワルツもできるよ」
「それなら、当日フロアで踊んなくちゃなんなくなっても、問題ねーな。ありがとう、恭弥」
ディーノにぎゅむっと抱きしめられて、雲雀の機嫌は完全に回復する。
機嫌が直れば現金なもので、雲雀はディーノの手にかいぐられながら、この人は練習中にダンスの先生と僕が散々密着していたことについてどう思っているんだろうなどと、のどかな疑問を浮かべていた。
当日のためにディーノが雲雀に用意したのは、白地にラヴェンダーの織り模様のドレスだった。ダンス衣装とも、少し個性的なパーティドレスとも取れるデザインのそれは、鹿鳴館を思わせるクラシカルな雰囲気を持っていた。
燕尾服を着たディーノは、ドレスアップした雲雀に上機嫌の微笑を浮かべて、エスコートする。
「そういえば、今日の目的というか、予定はどうなっているの？」
歓談席とダンスフロアが広がる会場内で、早くもダンスは始まっていた。競技会ではないので、ダンスへの参加は自由ということだったが、スタジオや用品の宣伝のためという側面があるのだろう、意外と多くのペアが踊っている。これだけ人がいて、上手く現場を取り押さえられるのかと、雲雀は眉を顰めた。
「オレらの連れとして、ロマーリオたちが入ったろ。いま会場中に散開してる。まずは奴を探すところからだな」
ディーノは歓談席の空いているテーブルに雲雀を導く。そこは、歓談席とダンスフロアの両方が見渡せる、張り込みにもってこいのテーブルだった。
「僕は？」
「恭弥は、オレの横にいて、オレの正体が怪しまれないようにしてくれ。状況次第じゃ、何曲か踊らねーといけなくなるかもしれねーし」
「つまらない」
「そう言わねーでさ。恭弥がいてくれねーと、オレが困るだろ」
ディーノに重ねて制されて、雲雀は拗ねたようにぷいと横を向いた。その勢いで、雲雀の耳のイヤリングがしゃらんと音を立てる。
タンザナイトをグラデーションに配置した葡萄の房のようなイヤリングも、ディーノが特注した雲雀のためのイヤリングだ。雲雀は重たいと文句を言ったが、色白の肌に青紫の粒を連ねたそれはとてもよく映えていた。
「それで、見つけたらどうするの？ 現場を確認したら、それで終わり？」
「終わらねーかな。売る側と買う側、両方押さえたら、連れて帰って取調べねーと」
「それで？」
「それでって……一通り話聞いたら、そのときにまだ自力で帰れるようなら、買う側は解放」
「売る側は？」
「裏がどうなってるかにもよるけど、単独ならコンクリ履かせて海か、鉛弾食わせるか……いちばん楽なのは放置だけど、それは奴の状態次第かな」
「捕まえた後が本番ってことか」
「そういうことだな」
優雅なダンス曲が流れる会場で話す内容ではない会話が、まるで明日の予定を連絡するように交わされる。
雲雀にはディーノの優しい手がドラッグの密売人を拷問する様は想像がつかなかったけれど、ディーノが自分の群れを脅かすものに対して容赦しないところは容易に想像できた。
「恭弥、踊ろうか」
ヴェニーズワルツの曲がかかったことに気付いて、ディーノが立ち上がる。てっきりこのまま座っているのかと思った雲雀は、強引に立ち上がると雲雀の手を引いてフロアに出るディーノに面食らう。
「どうしたの、急に」
くるくると回転するヴェニーズワルツ特有のステップを踏み出しながら訊くと、ディーノはようやくすまなそうに笑った。
「いや、話しかけようとして近づいてくる人が見えたからさ。あんまりしゃべって、ボロが出てもまずいだろ」
納得してうなずいた雲雀の脳裏を、今日は一日ずっとこの調子なのかという嫌な予感がよぎった。
