2月14日の朝、一晩かけて焼き上げたブラウニーを持って、雲雀は家を出た。
風紀委員は、雲雀の命令どおり、校門で所持品検査をしている。没収品を置く折り畳み机には、みるみるうちにチョコレートの包みが積みあがっていった。
これで、罷り間違っても、ディーノが自分以外の誰かからチョコレートをもらうことはない。安心した雲雀は草壁に検査を任せると、応接室に入って、ブラウニーの包みを机の上に乗せた。
切れ端を味見したけれど、今回のこれがいちばんいい出来なのは、間違いない。卵の殻も入っていないし、小麦粉のダマもないし、砂糖の塊も残っていないし、生焼けでも焦げてもいない。けれど、雲雀は未だに、これに自信を持てなかった。
椅子に座り、机に肘をついてブラウニーを見つめる。自信のないものを、ディーノにあげても、いいのかな。昨夜からずっと考えているが、結論はちっとも出ない。
やっぱり、やめようか。でも、せっかく作ったのだから、失笑を買うのを覚悟で渡す方がいいのでは。正反対の二つの考えがぐるぐると頭の中を回って、答は一向に出てこない。
こてん、と机に頭を乗せて、雲雀はため息をつく。バレンタインデーが、こんなに憂鬱な日だったなんて、知らなかった。
コンコン。
ドアをノックする音で、雲雀は慌ててブラウニーを隠すと、「誰?」と声をかける。
「失礼します。委員長、これはどこに置いておきましょうか」
入ってきたのは、段ボール箱いっぱいの没収品を抱えた草壁だった。ほとんどぜんぶがバレンタインチョコだ。雲雀が応接セットのテーブルを指差すと、草壁はどさっと音を立てて箱を下ろした。
「食品がほとんどのようですが、どうしますか」
「明日の朝、中央昇降口で返却して。こんなにあっても仕方がないから」
返却と言っても、心当たりの生徒が好きに取って行けるように、段ボール箱ごと放置するだけだ。草壁はうなずくと、ちょうどよく鳴り始めたチャイムを潮に、応接室を出て行った。
椅子から立ち上がった雲雀は、テーブルに歩み寄ると、段ボール箱から目に付いた包みをひとつ取り上げる。ラッピングで手製とわかるそれは、可愛らしいリボンが結んであって、とてもいい匂いがした。
反射的に雲雀はそれを段ボール箱に放ると、机の上のブラウニーをゴミ箱に力一杯投げ捨てた。
やっぱり、自分は女の子らしくなんてなりたくないし、なれるはずもない。何日練習したって、ケーキを上手く焼くことなんてできないし、上手くできないなりに努力した成果を贈り物にすることもできなかった。
上手くできもしないことを人に見せるくらいなら、最初からできないと突っぱね通す方がずっといい。たとえ、それでディーノがどれだけ落胆したとしても。
雲雀恭弥は、他人に無様を晒しはしないのだから。
苦手分野と言えど、他人に後れを取ったことが悔しくて、大きく息を吐く。握り締めた手は、爪が手のひらに食い込んで、出血していた。
無様を晒しはしない。けれど、晒していないだけで、いまの自分は途轍もなく無様そのものだった。上手くできるはずもないことを何日もかけて練習して、もらって喜ぶ人がいるはずもないものを用意して、用意した自分に舞い上がって、それがただの思い上がりだと突きつけられて。これが無様でないのなら、なんだと言うのだ。
甘い匂いを放つゴミ箱のブラウニーも、現実を突きつけるテーブルのチョコの山も、どれもがひたすら腹立たしくて仕方がなくて、雲雀は応接室を飛び出した。
誰にも逢いたくなくて、けれど家に帰ればブラウニーを焼くのに一生懸命だった自分を思い出してしまうから帰れなくて、雲雀は学校の屋上にいた。
5限が終わるチャイムが鳴る。掃除当番の生徒や、帰宅する生徒でにぎやかになったかと思うと、だんだんと静かになる。
陽が傾いて、風が冷たくなっても、雲雀はそこから動けないでいた。
静寂の中、キィ、と階段につながる鉄扉が音を立てた。ざり、という靴音で、誰かが来たのだとわかる。だが、振り向くのさえ億劫で、雲雀は身動ぎひとつしなかった。
「恭弥」
名を呼んだ声は、ディーノだった。仕方なく、気が進まないまま緩慢に振り返ると、見覚えのある紙袋を持ったディーノが、嬉しそうに立っていた。
「恭弥。ブラウニー、すげー美味かった!」
「え…?」
「恭弥が菓子焼けたなんて、知らなかったぜ。言ってくれたら、オレ、すっげーリクエストしまくったのに。なんで教えてくれなかったんだよ」
上機嫌のディーノが信じられなくて、雲雀は茫然とディーノを見つめる。
「あなた、なに言ってるの……?」
「なんだよ。あのブラウニー、恭弥が作ったんだろ?」
「でも、あれは捨てたはずだよ…?」
「おう。応接室に行ったら、匂いがするのにモノがなくて、探し回ったぜ」
「拾ったの、あなた?」
「だって、外側がぐしゃってなってただけで、中は全然無事だったし。恭弥が作ったって、すぐにわかったしな。オレ宛かどうかはわかんなかったけど、恭弥が作ったもんを他の男に食わすの、絶対ぇ嫌だったから、ぜんぶ食った!」
満面の笑顔のディーノを見れば、それが嘘ではないことはすぐにわかる。それでも、美味しいものを食べ慣れているはずのディーノが、よりにもよって自分の作ったものを残さず食べたことが信じられなくて、雲雀は手が震えた。
「なんで、食べたの……?」
声まで震える雲雀の、目の前まで歩いてきて、ディーノはそっと手を伸ばした。親指で頬を撫でられて、雲雀は自分が泣いていることに気付く。
ディーノは何度も指を動かして雲雀の涙を拭いながら、ふっと優しい表情になった。
「恭弥がオレに食わせたいと思うなら、それが猛毒だって、オレは笑って食えるぜ」
猛毒でも食べられるのだから、毒でもなんでもないものなんて、問題ですらない。味なんて、美味しいと決まっているのだから。
つまりは、愚問ということだ。
「…っ」
涙で喉を詰まらせる雲雀に、ディーノはくしゃくしゃで空っぽの紙袋を見せて、言った。
「なあ。オレ、まだ恭弥から直接もらってねーんだ。待てって言うなら待つから、恭弥、オレにちゃんとくれねー?」
余裕なその言い方が、なんだかすごく癪で、雲雀はぐいぐいと袖で目元を拭うと、ディーノを睨み返した。
「それなら、ウチに練習で作ったのがいっぱいあるよ。ぜんぶあげるから、一切れ残さず、あなたが食べて」
とても無茶なその言葉に、けれどディーノは「やった! 恭弥のブラウニー、また食える!」と喜んだ。雲雀の試作品は、1週間毎日焼いたおかげで、冷蔵庫にぎっしりと詰まっている。あれを見ても、まだ浮かれていられるだろうかと、雲雀はちょっと呆れる。
ディーノの言葉が、呆れるのとおなじくらいに嬉しかったのは、ディーノがブラウニーを食べきったら、教えてあげようと思う。