「あの…ところで、委員長。ここでいったいなにが?」
スーツを窮屈そうに着て、草壁は半歩前を歩く姿に話しかけた。正体を隠すために、トレードマークのリーゼントも、今日は封印している。
草壁の前を歩く雲雀は、ちらりと草壁に視線を流し、言外に『委員長』という呼称をたしなめた。
「草壁は知る必要はないよ。ただ僕に付き従っていればいい」
ハーフウィッグで黒髪を腰までたらした雲雀は、普段のイメージとはかけ離れた妖艶な化粧を施し、フロントに太ももまでスリットの入った黒のスリップドレスに身を包んでいる。とても15歳の少女には見えない、艶やかな出で立ちだった。
「わかりました」
雲雀の言葉に頷いた草壁は、一切を飲み込んで命じられた役割に徹する。草壁のそういうところを、雲雀は気に入っていた。
ここは、とあるホテル。宴会場では夕刻から財界の著名人の集まるパーティが催されている。雲雀はそこに入り込むために、変装をしているのだった。
事の起こりは、数日前。雲雀はディーノの浮気疑惑をシャマルから聞かされた。
「なに、それ。どういうこと?」
前触れもなく聞かされた話が信じられなくて、目の前の胡乱な保健医を雲雀は詰問する。シャマルは己の失言を後悔しながら、先ほどの話を繰り返した。
「だからな。跳ね馬はいま別の女と日本に来てる。裏社会じゃ、その女が跳ね馬の本命だってもっぱらの噂だ」
「………」
「お嬢、跳ね馬が来てること、本当に知らなかったのか?」
シャマルは、雲雀がすべて知っていると思って、つい口を滑らせたらしかった。雲雀を気遣うような口調に、普段の雲雀ならうっとうしいと言うところだったけれど、さすがにいまはそれどころではない。
「ねえ」
「なんだ?」
「あなた、どこに行けばその話の確認ができるか、知っているんでしょ? 教えて」
きゅっと拳を握り締めて、まっすぐにシャマルを見る雲雀に、シャマルは息を飲んだ。
これが、ボンゴレの守護者というものか。シャマルは内心で舌を巻く。百戦錬磨のシャマルが、まだ完全に裏社会に染まりきったわけでもないという雲雀に、完全に気圧されていた。
「わかった。潜りこむ手筈も整えてやる」
シャマルに、それ以外の答えは、選べなかった。
そして当日、シャマルが用意したのは、変装用のドレスと偽の招待状。そして、着付け担当のビアンキだった。
ディーノは、表の顔で、あるパーティに出席する。そこに例の女性も同伴するというのが、シャマルのつかんだ情報だった。そこに行けば、事の真偽が確かめられる。
雲雀はとある財閥の令嬢という設定で、単独では不審に思われるので供をつけろとシャマルは言う。雲雀は迷わず、草壁を呼び出した。
ディーノに見つかったとしても、雲雀だと判らないように、ウィッグで髪の長さを変え、濃い目の化粧をしてもらい、ハイヒールで背丈の印象も変えて。
斯くして、雲雀は財界人の集うパーティに乗り込んだのだった。
雲雀が会場に足を踏み入れた瞬間、会場がざわつく。一瞬、女物の服など着慣れていない自分の身なりがおかしいのかと雲雀はたじろいだが、ビアンキの「傾国ってこういうことを言うのね」という言葉を信じて、無表情を保つ。
「委…雲雀様」
「大丈夫。正体がばれないように彼を捜して」
周囲の視線から守るように距離を詰めてきた草壁に安堵しながら、雲雀は声を低くして指示を出した。
草壁には、ディーノの調査をするのだと説明してある。ディーノの名前は知らなくても、校内で何度も顔を見ている草壁は、雲雀の半歩後ろの位置をきっちり確保しながら、ディーノを探し始める。
雲雀も、会場の目を集めている以上、あまり不審な行動を取るわけにもいかない。知り人を探すふうを装って、注目する人々の視界からさりげなく離れた。
キャバッローネ・カンパニーの代表として、ディーノは次々と来る取引先の経営者に挨拶をしていた。右に立つのは腹心のロマーリオ。左にはドレスアップした女性が立っている。
パートナー同伴のこのパーティで、ディーノの隣に女性が立っている。自然、その女性がディーノのパートナーなのだと、会場では認識されていた。
会場の入り口のあたりが不意にざわめいたのは、ちょうど訪問者の途切れた頃だった。
「なんだ?」
聞きつけたディーノが、その方を振り返る。
「すげぇ美人が、現れたらしい」
同じように様子を窺っていたロマーリオがディーノの問いに答える。警戒するような事態ではないとわかって、ディーノはほっと息をついた。
「美人というだけでは、気にかけるに値しないというわけ?」
横にいた女性が、イタリア語で問いかける。ディーノは首を振って、答えた。
「シニョリータ・リンチェ。オレはあんたを連れて出席する以上の指示は受けてねーぞ」
「あら、詮索無用と言うの。残念、あなたのこと、もっと知りたかったのに」
「教えるほどのことなんかないさ」
ディーノのそっけない返事に、リンチェと呼ばれた女は肩をすくめ、そして料理の並ぶテーブルの方へと歩いていった。
その様子をやれやれと見送ったディーノは、ふと視界の隅を掠めた人影が気になった。
絹のような黒髪。細い身体。切れ長で妖艶な美貌。見慣れた少女にどことなく重なるその女性は、これまたどこかで見たことのあるようなボディガードを連れていた。
「雲雀様。見つけました」
草壁の目線を追った雲雀は、ディーノの隣に栗色の髪の女性がいることを確認する。あまり近づくことができなくて、何を会話しているのか聞き取れないが、なんだか気安げに見える。
「横の女が何者か、調べられる?」
「お任せを」
雲雀の側を離れることに一瞬躊躇った草壁は、しかし雲雀の命令を遂行するために、招待客の中へ消えていった。
独りになった雲雀は、通りかかったウェイターの盆からドリンクを取り、ため息をつく。
ディーノは社会人で、自分はただの中学生。ディーノに自分の知らない面があることは理解していたけれど、まさか、自分以外にも隣に置く女性がいるのだとは思ってもみなかった。
自分ばかりが、ディーノにのめりこんで。自分だけが、ディーノに愛されているのだと、思い込んでいた。
ぎり、とグラスを持つ手に力が篭る。感情にまかせて、そのまま握りつぶそうとして、ふと赤いマニキュアが目に止まった。
『手許は綺麗にしなくちゃね。それがいい女の余裕を生むのよ』
ビアンキがそう言って塗ってくれたマニキュア。飾り気があった方がいいと貸してくれたハイジュエリー。
力を緩め、グラスを優雅に持ち直す。知りたかったことを知ることはできた。あとは、草壁が戻ったら撤収するだけだ。
そうだ。僕は雲雀恭弥だ。したいことをしたいようにする。誰かに思考を自由にされるなんて、ありえない。
落ち着きを取り戻し、グラスに口をつけたとき。聞きなれた声が雲雀の注意を引いた。
「失礼ですが、シニョリータ。少しお話をさせていただいてもよろしいですか?」
ゆっくりと首を廻らせれば、そこにはディーノが立っていた。
驚くべきか、警戒するべきか、雲雀にはよくわからない。ただ、やってはいけないことだけはわかっていた。絶対に吹き出してはいけない。
ビジネスで出席しているパーティなのだから当然のことだが、ディーノはきちんと髪をセットしてスーツを着て敬語を使っていた。ただそれだけのことなのに、普段のラフな姿からはとても想像がつかなくて、まるで別人のようだ。それが、雲雀にはひどく可笑しかった。けれど、なにがなんでも、ここで笑うことはできない。
顔は醒めた無表情を保ちつつ、笑いを堪える。口を開く余裕がなくて、目線で訝しむと、ディーノはもう一度非礼を詫びた。
「紹介も得ずに声をおかけして、申し訳ありません。その…知り合いにあまり似ていたものですから、つい、気になって。キャバッローネ・カンパニー代表のディーノと申します。お名前を伺っても?」
「面識のない男性に、預けられる名はありません。それでもよければ、お話は伺いましょう」
雲雀は殊更に女性らしい口調を意識して言葉を発した。今は、この場を切り抜けることが第一だ。
「そうですか。…それでは、不躾ですが、ご家族かご親族に、雲雀恭弥という人がいませんか? 家庭教師として教えていたことのある人なのですが、あなたがあまりによく似ているので…」
まさかここに自分の話が出ると思っていなかった雲雀は、小さく息を飲んだ。もしかして、バレたのか? しかし、ディーノの様子では、感づいているようでもない。本当に、よく似た別人だと思っているようだった。
「知人に似ているとか、どこかで会ったことがないかとか、そういうのを使い古された手と言うのでしょう? わたしはそんな人知らないし、あなたの手にも乗りません」
かすかに笑いを混ぜれば、ディーノはまじまじと雲雀を見つめてきた。それまでの遠慮がちなコンタクトとは違い、今度は確信に満ちた眼差しだ。僕が別人だと思ったなら、この人は初対面の女性に、次はどんな言葉をかけるのだろう。それは、気になるけれど知りたくないことだった。
ふと、草壁が少し離れたところで、雲雀の会話が終わるのを待っているのが見えた。どうやら、頼んでいたことは調べがついたようだ。
雲雀は潮時と判断して、会話を切り上げた。
「迎えが来ましたので、これで失礼します」
手にしていたグラスを、通りすがりのウェイターに返して、雲雀は会場を後にした。