3度目ともなれば、雲雀の対応も慣れたものだった。
「で、今度は誰? あなたの昔の女? それとも、見合いでも強要された? いつドレスを着ればいいの?」
並盛中の応接室に現れたディーノが、まじめくさった顔で「恭弥」と言った直後の、雲雀の言葉である。
飲み込みが早くて協力的…と思いきや、実はいい加減うんざりしているだけだったりする。うっすら投げやりな口調が、その真情を如実に物語っていた。さすがのディーノも、一瞬怯む。なぜなら、今回はドレスを着るだけではすまない頼みごとをしなければならないからだ。
「ドレスのほかに、もうひとつあるんだけど、いいか?」
「とりあえず言ってみなよ」
そうは言うものの非協力的な雲雀に、ディーノは内心でドキドキしながらも真正面からアタックした。
「オレの嫁さんになってくれ」
「却下」
即座にぴしゃりと返事がくる。もっとも、「死ねば」でなかっただけ、進歩である。
本当のところ、雲雀はディーノのことが嫌いなわけではないので、なんであれ「嫁に」と言われて嬉しくないはずはない。だからあまり強い言葉は使わなかったのだが、ディーノが本気なのだとすればあまりにムードがなさ過ぎたし、単なる頼みごとなのだとすればあまりに無神経だった。
「待ってくれって。今度ボンゴレでやる会合に、どうしても嫁さん連れてかねーといけねーんだよ」
「僕は知らないよ。ボンゴレなんだったら、沢田綱吉でも連れて行けば」
「ツナは嫁じゃねーだろ」
本気のプロポーズではないなら、なおさら、雲雀はうなずけない。結婚してくれと本番で言われてもいないのに、どうしてディーノの都合に合わせなければならないのか。悲しいのか腹立たしいのか、雲雀自身もわからない。でも、いちばん待っていた言葉を、こんな状況で聞きたくはなかった。
「僕だってあなたの嫁じゃないよ!」
ぎっとディーノに鋭い眼差しをぶつけ、出て行かないディーノの代わりに自分が応接室を出る。ばんっとドアを閉めたときに、嵌めこみのガラスにヒビが入ったようだったが、かまうものか。
後には、淋しげな表情を浮かべたディーノが残された。
あのやりとりから10日。ディーノは応接室に来なかった。雲雀は雲雀で、ディーノにまるで都合のいい女のように扱われたという感じを拭い去れず、思い出しては苛立ち、あるいは沈んで、時間をやり過ごしていた。
精神的な浮き沈みは、雲雀の食欲にも影響し、食べようとしても嘔吐してしまう日が続いていた。
「あのぅ、ヒバリさん」
そんな時、応接室に来たのは綱吉だった。雲雀が守護者のリングを受け取ってから、綱吉は以前ほど雲雀をむやみに怖がることはしなくなっていた。今日も、雲雀の都合を気にするような素振りは見せたものの、雲雀自身におびえることはなく入室する。
それでも、綱吉が自分から近づいてくることは多くなかったので、雲雀は少しだけ興味をそそられた。
「なに。僕に何の用?」
「あの…。ディーノさんが今度、お見合いするって、御存知ですか?」
綱吉の言葉は、恐る恐るのものだった。決して、強く響いたわけではない。しかし、雲雀が表情を強張らせるのに、それは間違いなく充分な内容だった。
「説明して」
「イタリアにいる父から、聞いたんです。これまでは、ディーノさん、まだ若いからとか、ファミリーを優先したいとか、いろいろ理由をつけて避けてきたそうなんですけど、この間のリング争奪戦で、9代目を助けたこととか、オレのバックアップをしたこととかで評価が上がって、立場上断りにくいところからも縁談が来るようになったって。それでもディーノさんがいい返事をしないので、とうとう、今度ボンゴレの城で開かれる同盟のパーティに、正式な恋人を連れてこられなかったら、見合いをするようにって条件が出されたって」
「そう」
道理で、ディーノが来なくなったわけだ。イタリアに帰ったと知らなかった雲雀は、ディーノが来ない訳に納得が行き、うなずいた。
驚いたのは綱吉の方だ。雲雀は、知っているのでなければ、聞くなり怒るとばかり思っていた。そのどちらでもない反応は、想像と大きく違って、綱吉を戸惑わせた。
「怒らないんですか?」
「どうして?」
綱吉の問いにも、雲雀は平然と訊き返す。それとも雲雀は、それほどディーノに心を寄せていなかったのだろうか。気高い雲雀が、戯れに誰かに身体を許すなど、するはずがないと思うけれども。
「君にこんなことを話すのは癪だけど、いちいち騒がれたら迷惑だから、言っておくよ。僕は今の話、君から初めて聞いた。あの人は僕にそういうふうには言わなかったよ。ただ、ボンゴレの集まりに嫁の振りして来てくれって言われただけだ。そして僕は断って、あの人はそれ以上のことを言わなかった。ということは、あの人は実際に僕と結婚するつもりなんかないってことだ。僕だって、そんな人に頭を下げて結婚してもらおうとは思わない。だから、君はもうあの人の話を持ってこないで」
「え?」
睨みつける雲雀の剣幕に、しかし綱吉はきょとんとして首をかしげた。
「ディーノさん、ヒバリさんにプロポーズして、OKもらったって、前に言ってましたけど」
「は?」
今度は、雲雀が目を丸くする番だった。覚えている限り、ディーノにプロポーズされた記憶はない。そして、本当にされているのなら、忘れるはずもない。
「あの人がいつ、僕になんて言ったって?」
「前に、ヒバリさんをくださいって9代目に土下座するってディーノさんが言ったら、そのときはオレには自分が土下座するってヒバリさんが言ってたって……」
「……ああ」
綱吉の言うやり取りを記憶の底から引きずり出して、雲雀は嫌そうにため息をついた。雲雀にとっては、あれは睦言の綾でしかない。でまかせだとは言わないけれど、真剣な会話のつもりも、かけらもなかった。それをプロポーズとその返事と解釈されては、二人きりの時間に何もしゃべることが出来なくなる。
「じゃあ、やっぱり…?」
雲雀に思い当たる記憶があったとわかって、綱吉は祈るような気持ちで雲雀を見つめる。ただの行き違いならいいのにと、どれほど思っていることか。
だが、雲雀は綱吉に無情に告げた。
「あれがプロポーズなんだったら、さっさとどこかのイタリア女と結婚したらいいんだよ」
出て行って、と雲雀に言われ、綱吉はしぶしぶ応接室を後にする。結局、雲雀はディーノの言葉を待っているだけなのだとはわかっても、綱吉に打てる手は見つからなかった。
夕方。
その日数度目の嘔吐に、雲雀は表情を険しくした。
ここ数日の胃の調子は、明らかにおかしい。好きだったはずの食べ物さえ、手を出す気にならない。
正しいかどうかは別にしても、心当たりなら掃いて捨てるほどあった。どれもこれも、イタリアの某馬の所業だ。
よろめいて、背後の壁にぶつかる。ずるずるとへたりこんで、天井を仰いだ。答なんて、それで見つかるはずもない。けれど、雲雀は立ち上がることも、首を動かすことさえ、できなかった。
「委員長。お体の調子がよくないようですが…」
気遣わしげな草壁の口調で、雲雀ははっと我に返った。
この日は、朝の服装検査で、雲雀はずいぶん前から校門に立っていた。込み上げてくる吐き気と、全身のだるさを堪えることに気が行きすぎて、ぼうっとしていることに気付いていなかった。
「大丈夫。心配要らないよ」
そう言って、雲雀は再び、登校する生徒たちに鋭く目を向ける。その額に汗がにじんでいることに、草壁は気付いた。できるだけ早く、雲雀を休ませた方がよさそうだ。
予鈴も近くなって、綱吉が獄寺と山本と共に登校してきた。獄寺のアクセサリーと煙草を指摘しようと、風紀委員が色めき立つ。
「獄寺隼人」
名前を呼んで、一歩前に踏み出したとき、雲雀は地面がスポンジのように歪んだと感じた。
「委員長」
次の瞬間には、傾いだ雲雀の身体を草壁が抱きとめる。
「ヒバリさんっ!」
「おい、ヒバリっ!?」
驚いた綱吉たちの声も、雲雀には遠くの叫び声のようだった。
「救急車だ! すぐに病院に…」
周囲の風紀委員に指示を出す草壁の腕を、雲雀はなけなしの気力で掴む。
「委員長?」
「産…婦人科に……」
言い切ることも出来ずに、雲雀の意識は途切れた。
「いま、産婦人科って言ったよな…?」
消えるような雲雀の言葉に、居合わせた全員が耳を疑った。山本の問いかけに、綱吉と獄寺がおっかなびっくりうなずく。
「委員長、まさか…」
苦しそうにつぶやいた草壁の視線の先には、守るように腹に添えられた雲雀の手があった。
「シャマル!」
病院の廊下、手持ち無沙汰にベンチに座っているシャマルの元へ、綱吉たちが来たのは、雲雀が診察を受けている最中のことだった。
学校からの救急搬送ということで、保健医という立場上付き添うことになったシャマルは、綱吉に静かにしろと合図する。
「まだ診察中で、オレも詳しいこたぁ知らねーが、あれだろ? 跳ね馬のガキなんだろ?」
「…!」
その場の誰もが漠然と持っていた確信を、シャマルが言い切る。答えようがなくて絶句する綱吉の顔を、シャマルは心得顔で見上げた。
「お嬢が他の男となんて、可能性考える必要もねーもんな」
「ヒバリさんは…」
「わかってたんだろ。救急車の中で目ぇ覚まして、倒れた理由はわからないけど、診せるなら産婦人科にって、自分で言ってたからな」
俺の出る幕なかったぜ、とシャマルはため息をつく。診察室の白いドアを振り返り、綱吉は数日前のディーノに対して拗ねていた雲雀を思い出した。思えば、あの時も雲雀の感情の起伏がおかしかった。あの情緒不安定は、このせいだったのか。
かちゃりと診察室のドアが開く。草壁に付き添われた雲雀が、診察室から出てきた。廊下で待ち受けていた綱吉たちを見て、不愉快げに眉を顰める。
「こんなところでまで、群れないでくれる?」
そう言う声に、いつもの切れ味はない。雲雀の右手はいまも腹を守るように添えられていて、そこに子供がいるのだと、否応なしに知らしめていた。
「お嬢。医者はなんつってた?」
シャマルに聞かれて、雲雀は一瞬、嫌そうな顔をする。しかし、学校を休まないのであれば、今後保健室ひいてはシャマルの世話になることは明白だったので、雲雀は重たい口を開いた。
「2ヶ月だって。堕ろさないから、これからよろしく」
「産むのか。跳ね馬は知ってるのか?」
「さぁね。知らないんじゃない、僕からは言ってないし。関係ないよ」
「関係ないって…ヒバリさん」
「関係ないんだよ、沢田綱吉。あの人がいてもいなくても、僕は産むんだから」
「ヒバリさん……」
雲雀の決意は、誰が何を言っても変わるものではない。それは、綱吉たちだってよく知っていた。それでも、なんだか誤解とか行き違いがあるのではないかと思えて、綱吉は説得の言葉を捜して言いよどむ。
「そうか…。じゃあ、お嬢。これはオレからの懐妊祝いだ」
沈黙を破り、ぽんとシャマルが渡したのは、ポータブルDVDプレーヤー。不思議そうに受け取った雲雀を促して、談話室のソファに移動する。
「オレのところに入ってきた話で、面白ぇのがひとつある。昨日、ボンゴレの城で起きたばかりの、できたてほやほやのビッグニュースだ。向こうの知り合いから、そん時のビデオをネットで送ってきたんでな。お嬢に見せてやらねーと、と思って、持ってきたんだ」
「興味ない」
「そう言うなよ。主役は跳ね馬だぜ」
ぽいとプレーヤーを放り出そうとした雲雀を、シャマルはとっておきの一言で制した。
「苦情は、見た後で聞いてやる。隼人、ビデオの会話、全部通訳しろ」
そこまで言われて、雲雀はしぶしぶプレーヤーのスイッチを入れた。