異常なほど過保護なディーノに説教をし、雲雀が毛布の呪縛から抜け出たのは、雲雀の妊娠がわかってから2週間が過ぎた頃だった。
毛布の中に篭った熱気が気持ち悪いことや、運動不足はかえってよくないことをこんこんと説き、よくないことをしてしまっていた自分に落ち込むディーノを慰めて、雲雀はようやく普段通りの生活を取り戻したのだった。
「恭弥、気分はどうだ?」
のどかな昼下がり、日当たりのよいテラスに出ていた雲雀に、ディーノは声をかけた。振り向いた雲雀は、ディーノに自分の隣の椅子を勧める。
ディーノは極力外出を控え、デスクワークの合間に雲雀と過ごす時間を増やすようにしていた。雲雀の方も、綱吉の配慮のおかげでボンゴレから指令が入ることもなく、大体のことは草壁が代理として対応してくれている。ディーノと結婚してから、ここまで平和な日が続いているのは初めてだった。
「おかげさまで、だいぶいいよ」
雲雀の前には、ペパーミントのハーブティが湯気を立てている。紅茶とブレンドしていないので、カフェインレスで香りも然程きつくない。数日前に、ディーノが「ペパーミントがつわりに効くらしい」と聞き込んで、葉を用意したものだ。
雲雀はまるでマニュアル本から抜け出てきたかのように、ふとした拍子に吐いてしまったり、食欲がさっぱりとなくなってしまったり、という、つわりの症状が出ていた。先日は、どうしてもカンパチの握りが食べたくて、ボンゴレどころか日本にいる山本の父まで巻き込んだ騒ぎにまで発展したが、食べたくないときに無理して食べる必要はないと聞いてからは、気の向くままに好きなようにして過ごしている。
「家の中だとあまりわかんねーけど、やっぱり外で見ると顔色よくねーんじゃねーか? キツいことあったら、無理しねーで言えよ」
「わかってるよ、心配性だね」
雲雀の肩のストールを直して、ディーノは隣に座る。暖かな午後、穏やかな表情を浮かべる雲雀と肩を並べて、心配事と言ったら雲雀の体調くらい。ディーノがずっと夢に描いていた、理想の状況だ。
「夕飯はどうする? もし食べられそうなら、白身の魚で軽い料理とか用意させるけど」
「悪くないね。気が向いたから、カンパチじゃなくてもいいよ」
先日のボンゴレの総力を結集したカンパチの握りは、それはもう絶品だった。あれほどのものは日本でもそう簡単に食べられないことは、よくわかっているので、雲雀もあっさり譲歩する。
「わかった。コックに言っとく」
「よろしく。あ。ご飯はいらないから。お料理だけでいいよ」
「了解」
笑顔でうなずいたディーノは、厨房に向かおうと腰を上げる。そのまま執務に戻れば、休憩時間ぴったりというところか。
「う…っ」
しかし、ディーノの足は耳に届いたうめき声に、くるりとUターンする。口元を押さえた雲雀を抱き上げ、ディーノは洗面所に飛び込んだ。
「けほっ」
洗面ボウルの上にかがみ、雲雀は小さくむせながら胃の中のものを吐き出す。ディーノは雲雀の身体を支え、ゆっくり背中をさすった。
今日だけで、もう何回目だろうか。吐くものなど、どれほど胃に残っているものか、想像もつかない。
側にいて、こうして背をさするくらいしかできることがないディーノには、眉を寄せて咳き込む雲雀を見ているだけでも辛かった。
「けほ……っはぁ」
ひとしきり吐いて落ち着いた雲雀が口をゆすぐ横にラックのタオルを差し出すと、雲雀は背後のチェストを指差した。洗ったばかりのタオルを出せという意味だとすぐに気付いて、ディーノはチェストから別のタオルを出して渡す。
「……ふぅ。ありがとう」
「タオルもダメなのか?」
口元を拭い、大きく息をついた雲雀に、ディーノは心配そうに訊ねる。雲雀は洗濯物を入れる籠にタオルを投げ込むと、うなずいた。
「一度使ったタオルの、湿った感じがダメなんだと思う。洗ってあるタオルなら平気」
「夕飯、どうする? やっぱ止めとくか?」
「大丈夫。今日はそんなにひどくないし、魚、ちょっと楽しみだから」
守るように隣を歩くディーノに微笑みかけて、雲雀はテラスに戻る。寝椅子に腰を降ろした雲雀に風除けのストールを巻き直して、ディーノは仕事の残る執務室へ足を向けた。
「ねえ」
しかし、そのディーノを真剣な顔の雲雀が呼び止めた。
「あなたは、ちゃんと食べたいものを食べたいだけ食べてね」
「恭弥?」
「僕は、食べたい気分になったときに、食べたいものしか食べない。今はそういう風にしか食べられないから。だけど、あなたはそういう食べ方をしないと食べられないわけじゃないし、いい年の男の人がそんな食事を続けたら、身体をおかしくするよ」
たとえば、今晩は雲雀は白身魚をカルパッチョかマリネあたりに調理したものを食べるだろう。雲雀と少しでも長く一緒にいたいディーノが、自分の食事も雲雀に合わせることは容易に想像できた。けれど、その一皿だけでは、ディーノには足りるはずがない。
「あなたには温かいパスタやよく煮込んだシチューだって必要なはずだよ。僕と一緒に食事したら、食べられない。僕が席を外した後にでも、ちゃんと食べて」
「昼、会食でどうしてもがっつり食うことになるから、夜はあれでちょうどいいんだって」
「なら、寝る前にお腹鳴らさないでよ」
さっくりと雲雀に撃破され、ディーノは言葉に詰まった。
雲雀の言っていることは事実で、夕食に限ってのことではあるが、雲雀が食べられないときにはディーノも食べず、食べられるときには雲雀と同じものを食べている。
食べるという行為が負担にならないようにしている雲雀と同じ夕食にしていてちょうどよいはずがないことは、毎晩夜通しキュルルと鳴る胃を抱えているディーノ自身がいちばんよく知っている。
それでも、結婚してどれほども日が経っていないのに夕食のテーブルを別にすることは、ディーノには寂しすぎた。同時に、食事自体を嫌悪し始めている雲雀の前で、ボリュームたっぷりの食事をすることも、ディーノにはできなかった。
「これでも30過ぎてるんだぜ、自分の限界くらい、わかってるよ。大丈夫だから、オレも恭弥と同じがいい」
「僕としては、ちゃんと食事してくれる方が、心配事が減ってありがたいけど」
「心配してくれて、ありがとな。恭弥、愛してる」
雲雀の頬を両手で挟み、祈るように額をくっつけると、雲雀は不服そうに口を尖らせた。
それでも、ディーノが誰よりも雲雀のことを、体調だけでなく気持ちの部分までを考えていることは、雲雀に少なくない幸福感をもたらすのだった。
相変わらず食べられたり食べられなかったり、吐いたりそれほど吐かなかったりの日を過ごす雲雀のところに、綱吉から連絡が入ったのは、ある日の昼過ぎのことだった。
ディーノに渡すものがあるのだが、守護者は全員出払っていて、その品物を預けられるような部下もいないので、大変申し訳ないが受け取りに来てもらえないかという。
今日はそれほど調子も悪くない。雲雀は了承すると、メイドを呼んでスーツに着替えた。
一応、朝からキャバッローネの表会社に顔を出しているディーノに電話を入れると、秘書は終日会議で電話が取り次げないと言った。表会社では重役になっているロマーリオも同様だと言う。裏も表も承知している側近の部下ならともかく、表だけの秘書なので、あまり無理も言えず、ディーノへの伝言を頼むと雲雀は電話を切った。
「ヒバリさん、お久しぶりです」
ボンゴレ本部で数日振りに会った綱吉は、気遣うように雲雀をソファに案内した。折を見て見舞いに来てくれる綱吉とは、それほど間を空けずに顔を合わせているけれど、ボンゴレ本部で会うのは本当に久しぶりだった。
「お前、出歩いていいのかよ。妊婦なんだろ、安静にしてなきゃいけねーんじゃねーのか?」
思いがけず雲雀の顔を見た獄寺は、あたふたと煙草を消した。煙もよくないからと、部屋中の窓を全開にする。
「そんなことはないよ。日常生活レベルには動かないと、かえってよくないんだ。ウチの馬が騒ぎすぎなだけ」
「ホント、ディーノさん、ものすごい過保護ぶりだもんな」
毛布でお雛様のようになってしまった雲雀を見ている山本は、言いながら堪えきれずに吹きだした。カンパチ騒動は守護者全員が知っているが、毛布の十二単は目撃した綱吉と山本しか知らない。
「見た感じ、僕が来なくても、手は足りてたみたいだけど」
「そんなことないですよ。獄寺君も山本も、いまはちょっと時間が空いたみたいだけど、またすぐ仕事なんです」
わざわざ呼び出した必要があったのかと眉を吊り上げた雲雀に、綱吉は弁解する。綱吉を援護するように、獄寺と山本も綱吉のセリフを補足した。
「オレは部下の書類待ちのあいだに、10代目の様子を見に来ただけだ。書類できたら、またすぐ出る」
「オレも、ツナのサイン貰ったから、もう出ねーと」
言った側から、獄寺の携帯に呼び出しが入る。山本は山本で、綱吉がサインして押印した書類を確認すると、行って来る! と飛び出していった。
「相変わらず、慌しいね」
ばたばたと去っていく二人を見送って、雲雀は綱吉を振り返る。綱吉は苦笑してうなずいた。
「いまちょっと、動きが気になるファミリーがあって…。見当違いってこともあるので、いまは守護者とその直属だけで内偵中なんです。それでちょっと、ばたついてて。すみません、御足労かけました」
「いいよ。キミが僕を呼びつけるには、それだけの事情があるって、わかってる」
デスクの引き出しから文庫本ほどの箱を取り出した綱吉は、それを持ってきて雲雀の向かいに腰を降ろした。
「先日、ディーノさんから連絡があった物です。そう言って渡せば、わかります。中身が何かは、極秘なので説明できません」
「わかった」
箱を受け取った雲雀は、スーツのポケットから紙テープを取り出すと、綱吉の見ている前で箱に封をした。箱の合わせを止めた幅広の白い紙テープに、綱吉がサインをする。
「いつも思いますけど、ヒバリさん、預かり物に厳重ですよね」
「万が一のとき、余計な疑いは掛けられたくないからね。特に、キャバッローネ宛となれば、気は抜けない。僕の立場は難しいし」
誰かが箱を開ければ、同じテープで箱を止め直さない限り、開けた事実は隠せない。そして、雲雀が持っている一巻きと同じ商品番号のテープに、綱吉のサインを貰わなければ、同じテープは作れない。
「それじゃ、確かに預かったよ。他に何か用件は?」
「いえ。お大事に、というくらいですね」
事務的に確認する雲雀を見つめて、綱吉は優しく微笑んだ。一瞬、わずかに表情を緩めた雲雀は、小さくうなずいた。
「それじゃ、戻るよ」
「送ります」
立ち上がった雲雀を追いかけるように綱吉も腰を上げる。ボスが部下を見送るのは変ではないかと思ったが、兄貴分の奥さんを見送るのは変じゃないでしょうと言い返されてしまった。