その週の金曜日。
「シニョリーナ・チリエージョ」
会議から戻ってきたアルトゥリに呼ばれて、雲雀は書類から顔を上げた。アルトゥリの表情がいつもと違うことに気付き、内心に焦りを感じる。
「社長。いかがなさいましたか?」
表面では平静を装って、机の前に立ちふさがったアルトゥリを見上げた。そんな雲雀にお構いなしに、伸びてきたアルトゥリの手が、雲雀の読んでいた書類を取り上げた。
「昨日、企画部から上がってきた提案書か。営業資料は読まないのか?」
「社長にお渡しする資料と、社の業務内容を勉強するための資料は、読みますが」
「勉強家だ。出納帳簿まで、綿密に目を通していたようだね?」
「経理の状況に興味がありましたので」
問いに答えながら、マズいと感じる。アルトゥリは明確に方向を定めて、雲雀を問い詰めている。なにかボロが出るようなことはしていないはずだったが、どこかでただの中途採用の秘書ではないと、知られてしまったに違いなかった。
「君は、キャバッローネという企業グループを知っているかね?」
「イタリアで、その名前を知らない人間はいないと思います」
「だから、君はその代表と、一緒に食事をすると?」
その言葉と共に突きつけられたのは、最後にディーノと会ったときに食事をした、レストランでの写真だった。プライベートで会っていると一目でわかる二人の服装。言い逃れようはない。
「どういうことですか?」
「資料室への出入りは、もっと目立たないようにするのだね。もっとも、君ほどの美人なら、人目を引かずに行動することなど出来ないか。君にスパイの適性は、ないようだよ」
「私がスパイ。なにを根拠に?」
「この写真さ。君がいろいろと嗅ぎまわっているらしいと聞いて、ある特殊な筋に相談したら、これをくれた。キャバッローネのスパイなんだろう? なにを探りに来た?」
「私が、キャバッローネの人間だと言うのですか」
「おや。違ったのか? 君はディーノ・キャバッローネの愛人じゃないのかね?」
その口ぶりは、スパイとして来た雲雀ではなく、愛人をスパイに仕立てたディーノを嘲笑っているように聞こえた。愛人をスパイにするような男の愛人のままでいいのかと、言外に匂わせているのに気付かない雲雀ではない。証拠写真をひらつかせるアルトゥリに、雲雀は例えようのない怒りを感じた。
愛人? 自分が? 笑わせる。
がたりと椅子を押しのけて、雲雀は立ち上がると、ほとんど同じ高さのアルトゥリの目を正面から見据える。
「僕があの人の愛人だって? あなたの目は節穴?」
それまで演じていた秘書の仮面を脱ぎ捨てて、雲雀は吐き捨てる。どうやら、ここでの仕事はこれまでのようだ。
「勘違いしないでよ。そんな不毛な関係を彼と築くほど、僕は零落れていないよ」
「なら、お前がキャバッローネの手の者だと、認めるんだな?」
アルトゥリの問いを、雲雀はふんと鼻で笑った。
「下衆」
「な…っ!」
激昂するアルトゥリが殴りかかるのを、雲雀はトンと床を蹴り、その背後に跳躍することでかわした。
「僕を愛人に出来ないと悟ったら、次はアラ探しってわけ? それとも、弱みを握って脅迫しようとでも考えた? 滑稽だ」
素早く拾い上げていたショルダーバッグを肩に下げる。手に入れた書類のコピーも、自分に繋がるかもしれない品物も、何一つ残してはいけない。
「もうちょっといて、内部から崩してやろうと思っていたのに、残念だよ。でも、情報は充分いただいたからね。あなたは返礼を、震えながら待っておいでよ」
バッグの隠しポケットから小型のピストルを取り出すと、飛び掛ろうとしたアルトゥリの足元へ発砲して威嚇する。次の瞬間には、雲雀はくるりと踵を返して社長室を飛び出した。
「おいっ、スパイだ! 秘書の女だ、逃がすな!」
アルトゥリの怒鳴り声で、社長室の隣にある秘書室から、黒服の男たちがバラバラと走り出てくる。男たちの手に武器はなかった。おそらく、何も知らない一般社員の目を恐れて、銃を使えないのだろう。背中から撃たれる心配はいらないらしいと判断して、雲雀は手近な階段へ向かう。
「逃がすな!!」
「階段を塞げ!」
吹き抜け構造のビルの廊下は、ドーナツ状の中央に渡り廊下がある、上から見ると円の中に一本線を引いたような形で設けられているため、向かい側もよく見える。挟み撃ちを狙って、後ろからばかりか廊下の向こう側からも男たちが走ってきていた。
階段まで行くのは無理だ。そう思った雲雀は、中央の渡り廊下に駆け込む。黒服の男たちはたちまち左右から迫り、雲雀の銃を警戒して数メートル離れた位置で囲んだ。
「さあ、チリエージョ。もう逃げ場はないぞ」
男たちをかき分けて、アルトゥリが前へ出てきた。
まったく、予定外にバレたおかげで、こんな間抜けな騒ぎになってしまった。慣れないスパイ活動なんてするものではなかったかと、自嘲が込み上げる。
ここはビルの3階。吹き抜けの中央であるここなら、飛び降りることはできるが、その後すぐに体勢を立て直して逃げられる見込みは低い。
それでも、やるしかないか……。
手すりのギリギリまで後退った雲雀は、決心がつかないまま、着地点を確かめようと、ちらりと階下をのぞき見る。そして見つけた。
雲雀の金の守護馬を。
「申し訳ありません。社長は、アポイントのない方とは、お会いできません」
繰り返される受付嬢の言葉に、ディーノはそれはそうだろうと内心うなずく。それでも、事前にアポイントを入れずに来たのは、変な勘ぐりや小細工をされたくなかったからだ。
「とにかく、会えるか会えないか、一度聞いてみてくれないか」
ロマーリオが受付嬢に食い下がる横で、ディーノはふと人の怒鳴り声を聞いたような気がして辺りを見回した。オフィスビルなら当たり前の、そこはかとない喧騒の中に、なにやら穏やかならない雰囲気が混じり始めている。
「ロマーリオ」
「上だ、ボス」
ロマーリオも受付嬢との押し問答を止めて、周囲を警戒する。上階から聞こえる大勢の足音に気付いたロマーリオの言葉に、ディーノがはっと上を見上げる。
銃を持った女を、大勢の男が取り囲んでいる。女が下を覗いて、その顔が見えた。雲雀だ。確信した瞬間にばっちりと目が合い、雲雀も自分を見つけたと悟る。
「来い!!」
反射的に叫んだディーノが渡り廊下の下へ走り出すのと、雲雀が銃を投げて飛び降りるのとは、同時だった。3階の高さから落ちた雲雀を、ディーノは危なげなく受け止める。
「くそっ!」
慌てて手すり際に駆け寄ったアルトゥリが下を覗いたときには、雲雀が放った銃を拾って構えたロマーリオと、雲雀をしっかりと抱えたディーノが、アルトゥリを見上げていた。
「タッソ・アルトゥリ! この件はたったいま、この跳ね馬が預かった!! 文句があるなら、いつでも来やがれ!」
ディーノは啖呵を切ると、雲雀を抱いたまま、悠々とアルトゥリ・カンパニーのビルを出る。マフィア社会でも有数の実力者の凄みを目の当たりにしては、さすがに、追って来る者はいなかった。
「あれで大丈夫? 止めに撃ち殺してきた方がよくなかった?」
ロマーリオの運転でキャバッローネの城に向かう道の中、雲雀はディーノに訊ねる。
2シーターのフェラーリに3人は座れないので、雲雀は助手席のディーノの膝の上だった。というか、正確には、雲雀と一緒にこの車で帰るには、助手席に座る方が雲雀を膝に乗せるしかないので、必然的にロマーリオが運転することになったのだが。
「大丈夫だよ。あれだけ大勢の前でアルトゥリを殺す方が、マズいだろ」
雲雀は狭い車内を物ともせずに無理矢理ディーノの方を向いている。ディーノは至近距離の雲雀の頬にちゅっとキスを落とした。
運転席のロマーリオは、いつでもどこでもいちゃつくふたりにはもう慣れっこなので、そのあたりはどうでもよかったが、無茶な体勢の雲雀の脚がいつギアを蹴飛ばすかにはひやひやしている。
「仮にも裏社会に出入りしようって奴が、跳ね馬の意味を知らねーはずはねー。ビビって手を引けばそれでよし。それともオレに楯突くなら、正面から潰すまでだ。それ以前に跳ね馬を知らねーってんなら、マフィアと商売する資格はねー」
「それもそうだね」
ディーノの説明にうなずいた雲雀は、ディーノの首に回していた腕を外して、下ろしていたバッグを取り上げる。
「ここに、アルトゥリの資料をコピーしたの、持ってきたから。好きなように使って」
「ツナに渡した方がいいだろ、それは」
お前はボンゴレだろ? と言うディーノを、雲雀はキスで黙らせた。
「僕の手に入れた資料を誰に渡すかは、僕だけが決めるよ」
ロマーリオの運転するフェラーリは、結局、ボンゴレ本部には向かわずにキャバッローネの城へ戻った。
風呂上り、バスローブの紐を締めながら、ディーノはテラスで風に当たっている雲雀の許へと歩いた。雲雀が愛用しているシャンプーの香りが、風に乗って流れてくる。
風呂上りで外に出るなよ…と思いつつ、しかし、夜の闇に佇む雲雀の姿もディーノは好きだった。
「恭弥、なんであそこで取り囲まれてたんだよ?」
昼間の、アルトゥリ・カンパニーのロビーでのこと。なんとなく話題にしあぐねて、いままで訊いていなかった疑問をディーノは口にした。
「バレたんだよ。前にあなたと食事をしたときの写真を見られてね。それによると、僕はあなたの愛人らしいよ?」
「恭弥が? ふざけんな、愛人がキャバッローネの首根っこ掴めるかよ」
「ねえ」
冗談めかした雲雀の口調に、ディーノも肩をすくめて軽く答える。雲雀を愛人にできる人間など、この世にもあの世にも、いるはずはない。
ディーノとは、愛人どころか、恋人でも夫婦でもないと、雲雀は言う。そんな簡単な関係ではないという意味が篭っていると、ディーノもいまでは知っている。それならばなんて言ったらいいのかと訊いたら、わからないけれど、例えば相手が死んだら自分も生きてはいられないのだから、自分以外の存在との繋がりを表す単語では説明できないと、雲雀は言った。
「外で食事するのも、気分が変わって悪くなかったけど、これからは考えた方がいいかもね。こんなんじゃ、僕、諜報活動はできないや」
「いや、幹部クラスが自ら諜報活動する方が、なんか違ぇと思うぞ」
「そうか」
ディーノの指摘に、雲雀はつまらなさそうに応える。雲雀がんーと伸びをした拍子に、バスローブの袷が緩んで、ディーノは手を伸ばしてそれを直した。
「その写真を撮った奴、探して絞めとくよ。アルトゥリに肩入れしてたファミリーもな。これで、奴らももう裏には出て来れねーだろ。…でも、恭弥。これからもオレと外で食事できるのと、恭弥が自分で諜報しにくくなるのと、どっちが嫌か考えといてくれよ」
「そういう2択? ずるくない?」
「ずるくない。可能性やらなにやら考えれば、そういう話になるだろ」
「なら、諜報は草壁に頼むことにする」
案外あっさりと引き下がった雲雀に、ディーノは今回の件は雲雀に意外と負担だったのだと気付いた。おそらくは、無理矢理我慢していたというセクハラが理由なのだろう。
「あ、そうだ」
「何?」
「昼間、あなたがあそこにいて、助かった。ありがとう」
「Prego. Una principessa.」
恭しくお辞儀をして、ディーノは雲雀の手に騎士のキスをする。それが、気にするなというディーノの気遣いと、雲雀も理解した。
「さて、それじゃ恭弥。この間話した、重大案件についてなんだけど」
「そういえば、次に会ったら話すって言ってたっけ。なに、重大って?」
「恭弥がそろそろ跡継ぎ産んでくれねーと、マジでキャバッローネが危なくなっちまうんだけど」
急に真顔になったディーノがおかしくて、雲雀は思わず吹き出した。
「あ、笑うなよ! いいか、オレはもう30過ぎたんだぜ? いまから子供作っても、成人の頃にはオレ50んなるんだぞ!? いまのロマーリオより上だぜ? さすがにヤベーだろ、これは!」
くつくつと息も吐けずに笑う雲雀に、ディーノは切々と訴える。それが余計におかしくて、雲雀は腹を抱えて笑った。
「恭弥!」
「わかった、わかったから、ちょっと待って」
そう言ってディーノを押し止め、雲雀はなおも笑う。確かに重大だし、切実だし、解消に時間もかかる問題だけれど、いまここで話題にしたことが、たまらなくおかしい。
ひとしきり笑って、目尻に浮いた涙を拭いながら、雲雀はディーノを見上げる。
「それじゃ、子作りしようか、caro」
誘いの返事は、キスで返ってきた。
翌日。
午後遅くボンゴレ本部を訪れたディーノは、雲雀が手に入れた資料と一緒に、事の次第を報告していた。
「つーわけだから、この件はキャバッローネで処理させてもらうってことでいいか、ツナ?」
「わかりました。わざわざありがとうございます、ディーノさん」
うなずいた綱吉は、資料と報告書のファイルを背後に控える獄寺に渡した。獄寺はファイルを受け取ると、担当者と事後処理を検討するために、足早に退出する。
「それで、ひとつ頼みがあるんだけど、いいか?」
「はい。なんですか?」
兄弟子と慕うディーノに、綱吉は従順な目を向けて問い返す。そのまっすぐな目に、ディーノは照れくさそうな微笑を浮かべた。
「恭弥、しばらく貸しといてくれねーか? 昨夜、うっかり抱き潰しちまってよ。いい機会なんで、跡継ぎのこと、真剣になろーと思ってんだ」
綱吉はにっこり笑って、今日以降の雲雀のスケジュールを真っ白けにした。