商談中の日本企業が接待の席を設けたのは、どっしりとした門構えの料亭だった。離れの座敷まで歩く廊下からは、よく手入れされている日本庭園が見える。日本の庭に詳しくないディーノにさえ一目でわかるほど、松の枝振りが立派だった。
今回の商談に、ディーノは気乗りしていなかった。どうしてもと請われてわざわざ日本まで来たが、よほどのことがない限り、この商談は白紙に戻すとキャバッローネでは決まっていた。
先方も、ディーノの結論を薄々は察しているのだろう。再考を促そうと、躍起になってディーノの機嫌を取ろうとしてくるのが、煩わしい。
料理が運び込まれ、芸者が呼ばれる。ディーノとロマーリオは淡々と料理に箸をつけ、杯を口に運んでいたが、愉快とは冗談でも言えない気分だった。
「きゃぁっ」
不意に、芸者の1人が悲鳴を上げた。はっとして顔を上げると、相手企業の社長が、芸者を平手打ちしていた。
「どうしたんですか、社長さん?」
思わず眉をしかめて訊ねると、社長は取り繕うように薄笑いを浮かべた。
「これは失礼しました、キャバッローネ社長。いえ、この芸者が、立場をわきまえないものですから、少々……」
「日本では、むやみに身体を触ろうとする男性に、嫌悪感を持った女性が抵抗するのは、立場をわきまえないことなんですか?」
どちらに非があるのかは、わかっている。そういう口調で問いかけたディーノに、社長はうろたえた。
「あ、いや……、そういうわけでは……。…困りましたな。それではまるで、私が悪者ではありませんか」
「へぇ、違ったのかい?」
割って入ったのは、しなやかな若竹のように凛とした声だった。
声の主に気付いた座敷内の芸者たちが、さっと端に寄って、頭を下げる。襖を開いて入ってきたのは、髪をリーゼントに整えた男だった。
あの声が、この男のものであるはずがない。ディーノは、声の主の姿を探して、部屋を見回すが、それらしい人影はなかった。
男は座敷の最下座に向かうと、正座をして畳に手をついた。
「草壁と申します。お客様にご不快をかけたそうですが、いったいなにがあったのでしょうか?」
低い声が、慇懃に訊ねる。だが、この丁寧さは形だけのものだと、ディーノはすぐに気付いた。草壁は、なにがあったのかも、悪いのはどちらなのかも、きちんと把握している。
「なにがあったのか、知らないで来たのか!? この女が、私に無礼を働いたんだ! この料亭は、格式のある店だと聞いていたのに、こんな芸者を使っているのか!?」
草壁の落ち着いた態度に数瞬気圧されていた社長が、声を張り上げる。相手が自分より立場が下だと見て取るなり、居丈高な態度を取るなど、みっともないと、ディーノとロマーリオは揃って呆れたため息をついた。
草壁は顔を上げると、まっすぐに男を見据えて口を開いた。
「お言葉ですが、お客様の方こそ、先になにかその者が礼を失してしまうようなことを、なさったのでは?」
「なにっ!?」
「大変申し訳ございませんが、どうやら、失礼をいたしましたのは、その者ではなく、当家の女将だったようです。お客様に、お通しするべきではない座敷を、ご案内してしまいました。どうぞ、お許しのほどを」
暗に、ここはおまえの来る店ではないと言っていることは、その場の誰もが理解していた。
「お見送りいたします」
草壁はさっと立ち上がり、襖を開いて退出を促す。激昂して喚こうとする社長を、草壁は芸者たちに手伝わせ、実に見事にあしらいながら廊下に連れ出した。
社長の怒鳴り声が遠ざかり、座敷にはディーノとロマーリオだけが残る。
「……それで、オレらはどうしたもんかな」
取り残されて困惑したディーノがつぶやくのと、和服を着た少女が入って来たのとは、同時のことだった。
少女は口を開くと、ぽつりと言った。
「騒がせたね」
素っ気ない声は、ディーノが先ほど聞いたあの声だった。
「おまえは……」
「雲雀恭弥。いていいよ。…料理、まだ残ってるでしょ」
雲雀が指差すのは、ディーノとロマーリオの前の膳。趣向を凝らした皿は、まだ半分以上残っていた。
「僕が認めた板長の料理なんだから、残したら咬み殺す」
そう言われては、帰るとも言いにくい。ディーノは気まずさを押し隠して、ふたたび箸に手を伸ばした。
ふたりがまた食べ始めるのを確認した雲雀は、ディーノの斜向かいにある格子窓に寄ると、窓を背にしてディーノに目を向ける。淡々とした表情からは、雲雀がなにを考えているのか、窺えない。
「恭弥…だったな。おまえ、ここの経営者の関係なのか?」
「そうだよ。この料亭は、実質、僕が仕切ってる」
「じゃあ、あいつの予約を受けたのも?」
「それは、さっきも言ったけど、女将。僕が留守の間に、勝手なことされて、ほんと迷惑」
きっぱりと言い切った雲雀には、ひとつの料亭を取り仕切る風格があった。その凛々しさと目を離せなくなる存在感は、ディーノにぞくぞくとする快感を運んでくる。
「おいおい。仮にも、相手は女将だろ?」
「関係ないよ。僕は僕がしたいようにする」
雲雀の視線とディーノの視線が、ばちりと音を立ててぶつかり合う。お互いに、自分が興味を抱くのに充分な相手に出会った喜びを、目に浮かべていた。
「恭弥、か…」
記憶に刷り込むように雲雀の名をつぶやくディーノに、雲雀は小さくくすりと笑みを零す。そして、やおら扇を取り出すと、片肌を脱いで立ち上がった。
露わになった肩には、緋色の雲雀の刺青が入っている。それが、限りなく白に近い象牙色の肌によく映えていて、巻いた晒に隠されている胸などよりもずっとディーノの目を惹きつけた。
「気分直しになるかはわからないけど、芸者の代わりに、特別に舞ってあげる。ただし、僕は高いからね」
そして、三味線も琴もない座敷で、雲雀は扇を広げてひらりひらりと舞い始めた。
無音の中で舞う雲雀は、先ほどの芸者より、数段見応えのある舞い手だった。なめらかな中にも鋭さのある動きは、ひとつひとつが美しく、艶かしい。
白い手と扇が翻る度に、肩の緋の雲雀が動いて、まるで生きているかのように羽ばたく。扇にも雲雀の模様が描かれているので、2羽の雲雀が戯れているようにさえ見えた。
ディーノはその艶やかな姿から、一瞬たりとも目が離せなくなっていた。ロマーリオがそっと席を外したことにさえ気付かないほど、ディーノの意識は雲雀に奪われていた。
日本酒をぐっと飲むと、強いアルコールが喉を焼きながら胃に落ちていく。自分の身を削りながら美味いものを味わうその行為は、雲雀の切れ味に背筋を震わせながらも見つめずにいられない今の状況とよく似ていた。
雲雀の足運びが畳を擦る音と、衣擦れの音だけが聞こえる。ふとした拍子に割れた裾から覗く白い襦袢が、妙に色っぽく見えて、ディーノはどきりとした。
その瞬間、緋の雲雀も、扇の雲雀も、突然光を失ったかのように、存在に力を失う。そして、ディーノの目は、雲雀のしっとりとした肌ばかりに釘付けになった。
雲雀が扇を翳してくるりと回る。ディーノは衝動的に立ち上がると、扇を持つ手を掴み、雲雀の身体をぐっと抱き寄せて、有無を言わさずに口付けた。
「……ん、ぅ…っ」
唐突な深いキスに、雲雀は抗うようにもがいて、苦しげな鳴き声を漏らした。けれど、お構いなしにディーノは雲雀の唇を貪り、口腔を蹂躙する。
やがてくたりと雲雀の身体から力が抜ける。緩んだ手から、からんと音を立てて扇が落ちた。ディーノはその音を待っていたように唇を離す。
荒い息を吐く雲雀の口の端から、飲み下しきれなかった唾液が零れ、顎から首へと伝っていく。ディーノはそれを舌の先で追って舐め取ると、かぷりと白い鎖骨に歯を立てた。
ぴくん、と雲雀の身体が跳ね、緋の雲雀が羽ばたく。ディーノは緋の雲雀にも舌を這わせ、時折啄ばみながら、雲雀の帯に手を掛けた。
緋の雲雀が茱の実に埋もれた頃、ばさりという重たい音と共に帯が畳に落ちる。雲雀の吐息は一呼吸毎に熱を増して、ディーノの耳を次々と掠めた。
細い肢体から、年端の行かない少女だとはわかっている。けれど、ディーノにはもう止められなかった。目の前の小鳥を自分のものにしてしまわなくては、正気でいられそうになかった。
障子の向こうで、空が白み始める。そろそろ行かなくてはならないか、と、ディーノは仕方ないため息を吐いた。
心残りを断ち切るように起き上がり、繋いだままだった身体を離す。それまで堰き止められていた白濁があふれ出し、しどけなく横たわる雲雀の脚は、たちまちディーノの征服の証で塗れた。
震えもしない雲雀の閉じられた瞼にキスを落とすが、やはり反応はなかった。無垢な身体に無理をさせすぎた自覚はある。ディーノは雲雀を起こしてしまわないよう、手早く身繕いをした。
眠る雲雀に自分の羽織ってきた上着をかけ、代わりに脱がせて放っていた雲雀の着物を拾い上げると、肩にかけて座敷を出る。廊下には、ずっと控えていたロマーリオが、いつでも出られるように仕度をして待っていた。
「いいのか、ボス」
雲雀を気遣って低めた声は、ここで少女を手放してしまっていいのかと、訊いていた。ディーノの過酷な生活を知っているロマーリオには、たとえそれが身辺調査が済んでいない少女であっても、ディーノの心を癒せるのならば、手放して欲しくない存在だった。
真剣に案じてくれる部下に、しかしディーノはうっすらと微笑さえ浮かべてうなずき、歩き出す。
「攫うのはいつでもできる。でも、オレに惚れてくれなきゃ、最後のとこで、意味がねーんだ。…だから、いい」
「ボス」
「今は…、な」
母屋へ向かう渡り廊下で足を止め、ディーノは雲雀がまだ眠っている座敷を振り返る。
つかの間、愛しげに目を細めたディーノは、次の瞬間にはいつものボスの顔に戻って、ふたたび玄関へと足を踏み出す。
「次は、本気でもらいに来る」
「了解、ボス」
薄明かりの座敷で、雲雀は目を覚ました。
腹は鈍い痛みに苛まれ、腰も膝も砕けて、起き上がることさえ一苦労だ。ようやくのことで腕を支えに上体を浮かすと、内股になにかがぬめる感触がした。
一体自身に何が起きたのか、はっきりしない頭に、心当たりは浮かばない。答えを求めるように辺りを見回すと、自分の肩に見慣れない上着がかかっていることに気付いた。
これは…?
手に取ると、あられもなく崩れた襦袢姿の自分が目に映る。もう一度部屋を見回せば、着ていたはずの、気に入っているあやめ色の着物がなくなっている。困惑しながら視線を上着に戻し、ぼうっとした頭を駆り立てて、記憶を辿った。
騒ぎが起きた離れの座敷で、とばっちりを食った外国人の客に強引に抱かれたのだと思い出し、慌てて下肢に目をやる。乱れた襦袢の袷から覗く腿は大量の白いものに塗れていた。ちらりと視界に入った色に驚いて胸元を見れば、一面に紅い痕が残されている。昨夜のあれは間違いようもなく現実だったのだと、認めないわけにはいかなかった。
「哲…?」
腹心の側近を呼んだ声は、すっかり嗄れていて、とても気付いてもらえそうにない。案の定しんとしたままの座敷に、ため息を吐くと、雲雀は笑う膝を叱咤して、壁に縋りながら立ち上がった。
途端に、脚にどろりとなにかが流れ出す感触が走る。不快感に眉を顰めたが、気にしても始まらないと思い切り、よろめきながら母屋へ向かって歩き出す。
朝の、それもまだ早い時間なのだろう。建物のそこかしこで人が忙しなく立ち動く気配はするものの、客を迎える時間帯特有の活気はまだない。上手くいけば、人に見られずに自室へ戻れそうだった。欲を言えば、草壁だけを捕まえて、他の人間には見られないことがベストだが……。
その草壁には、自室のある離れに続く渡り廊下に差し掛かったところで会った。
「恭さん! …なんてお姿ですか」
第一声では思わず叫んだ草壁だったが、はっと息を飲み声を抑えると、素早く雲雀に近寄って、その姿を隠すように自分の羽織を着せ掛けた。
「騒がないで。部屋に戻るよ」
足取りはふらつくものの、声音はしっかりしている雲雀の様子に、草壁はひとまず安堵すると、雲雀に腕を貸して支えながら、雲雀の私室に向かってゆっくりと歩き始める。
「すぐに湯殿の仕度をさせます」
歩きながら言う草壁に、雲雀は億劫そうに首を振った。
「疲れてるからいいよ」
「いけません。きちんと清めてください」
誰になにをされたのか、訊く必要もない雲雀の姿に、草壁は穏やかながらも有無を言わせない口調で言った。
気圧された雲雀は、渋々うなずくと、着いた部屋の障子を開く。部屋に入った途端に、例えようもなく大きな安堵に襲われて、意地を張る余裕もなく、草壁に促されるまま座り込んだ。
「娼妓でもない恭さんに、こんな無体を…。店は、今日は私が采配します。恭さんは湯を使ったら、ゆっくり休んでください」
痛ましそうに雲雀を見た草壁は、やおら立ち上がると、箪笥から小袖を出し、雲雀の肩を覆う自分の羽織と取り替えた。ふと、雲雀がその手になにか握っていることに気付いて、握り締めているものをそっと取り上げる。
「恭さん、これは?」
「あ……それは……」
目覚めた時に掛かっていた上着を、ずっと握っていたことに気付いて、雲雀はぼうっと草壁の手にあるものを見つめる。
「恭さん?」
「衣紋掛けに掛けておいて」
「取っておくのですか」
捨てたそうに聞き返す草壁に、雲雀はひとつ頷いて見せる。草壁はそれ以上は何も言わずに、箪笥から衣紋掛けを出すと、丁寧に上着を吊るした。
「なにか、召し上がるものでもご用意しましょうか?」
草壁の問いかけに、雲雀は素っ気なく首を振る。独りになりたいのだと察した草壁は、湯殿ができたらお呼びします、とだけ言い置くと、部屋を出て行った。
陽の匂いがしそうな彼の上着と、猛々しさを思い出させる無数の紅い痕。たった一晩過ごしただけのあの金髪の青年に心が占められたのを、雲雀はその二つを見つめながら自覚した。