舞姫 02

 草壁の強い反対に押し切られるまま、雲雀は3日経った今日も、店には出ずにいた。空いた時間を思う存分使い、このところ思うように時間をかけられずにいた舞の稽古を続けている。

 舞の型のひとつひとつを丁寧に浚っていくと、雑念がひとつひとつ消えていく。無心になって舞い続ければ、いつだって心の曇りは晴れた。

 だが、先日からずっと、どれだけ舞っても、完全な無心にはなれなかった。

 気になるのは、あの金髪の青年。そういえば、名前も聞いていなかった。なぜあんなことをしたのかもわからない。あやめ色の小袖は、彼が持って行ったのだろうか。小袖なんて、特別なものでもないだろうに…。

 いつの間にか意識は舞の型から離れ、開けた障子の向こうに見える夜の庭を眺めて、雲雀はただ彼のことだけを考えていた。

 静寂を破ったのは、渡り廊下をやってくる慌しい衣擦れだった。

「恭さん。おくつろぎのところ、失礼します」

「なんだい、騒がしいね」

 障子の陰に膝をついた草壁に、穏やかに応えを返すと、草壁は珍しく声に困惑を滲ませて言葉を続けた。

「実は、表に怪我をした外国人が転がり込んできまして…。それが、先日の離れの客なんです。幸い、お客様が途切れていたので、居合わせたのは沢田と数名の仲居だけですが…」

「わかった。いいよ、僕が行く」

「すみません」

 雲雀はさっと立ち上がると、早足に料亭の表玄関へと向かう。着物を着ているがために走れないことがもどかしい。雲雀は、時間が惜しいとばかりに、半歩遅れてついてくる草壁に、歩きながらいくつか確認を投げた。

「それで、彼はどうしたの?」

「沢田が、救急車が来るまで、帳場に寝かせておくと」

「怪我って、どの程度?」

「服でよくわかりませんでしたが、おそらく、腹をやられてます」

「この間は部下みたいのが一緒だったけど、今日は?」

「いません」

「そう」

 雲雀が帳場に到着すると、いったい何事かと集まっていた仲居たちが慌てて持ち場に戻っていった。

「哲。いま集まってたの、全部減給」

「承知しました」

 物見高い従業員たちにため息をつくと、雲雀は帳場に入っていった。

「ヒバリさん」

 副支配人の綱吉が、雲雀に気付いて顔を上げる。つられるように、補佐役の獄寺が雲雀を睨みあげた。

「てめー、また厄介事起こしやがって! 料亭なみもりの看板に傷ついたら、どーしてくれんだ!?」

「君がいてもびくともしないんだ、そんなにヤワな看板じゃないと思うけど? そもそも、彼が怪我したのは僕のせいじゃない。…どいて、邪魔だよ」

 声を荒げる獄寺を押し退け、雲雀は簡素なソファに寝かされている青年に近寄った。青年は目を瞑っていて、どうやら意識がないようだった。横に膝をつき、顔を寄せた雲雀は、だがそれは傷の重さによる意識不明ではないと判断する。おそらくは、安心して気が抜けたというところだろう。

 上着の袷を開くと、中のシャツが真っ赤に濡れている。背後に手を差し出すと、察した草壁が鋏を乗せた。雲雀は遠慮なく鋏で青年の服を裂き、傷口を直に確かめる。わき腹に、明らかに銃創とわかる傷があった。この程度で死にはしないだろうが、放って置いても治る傷ではないだろう。

 腹では、止血もできない。雲雀はそっと彼の服を直して、傷を仕舞う。

「哲」

「へい」

 呼べば、即座に返事が返る。雲雀は青年の上着を探りながら、矢継ぎ早に指示を出した。

「救急車キャンセル。適当に誤魔化して帰して。玄関の血の始末もわかってるよね? あと、離れに布団用意して。沢田綱吉、銃創診れる医者知ってるでしょ。今すぐ呼んで。それと、この件は他言無用」

 聞くなり、草壁は帳場を出て、直属の部下を動かしにかかる。綱吉は獄寺に医者への使いを頼むと、困惑したように口を開いた。

「離れって、お座敷のある離れですか? あそこは……」

「違うよ。僕の部屋がある離れの方。いくつか部屋は空いてる。彼は僕が面倒見る」

「それは構いませんが、いいんですか? あれ、銃で撃たれた怪我でしょう?」

 雲雀がこの料亭をなによりも大切にしていることを知っている綱吉は、信じられない表情で問いを重ねた。この日本で、銃で怪我をするなど、まっとうな世界に身を置いているとは考えられない。そんな男を置いていいのかと、問わずにはいられなかった。

 だが、綱吉の戸惑いもどこ吹く風で、雲雀は即答する。

「だから救急車を帰した。文句あるかい?」

「………いいえ」

 やや間を置いて答えた綱吉に、雲雀はそれでいいとばかりにうなずいた。




 目から上を冷たいものに覆われる感触で、ディーノは目を覚ました。

 ぼんやりと見知らぬ天井を眺めて、「ああ、オレ、生きてた」とのんきに思う。周囲の様子が知りたくて身体を起こそうとすると、腹に激痛が走って、結局また仰向けに転がった。倒れこむ瞬間のばふんという感触で、自分が布団に寝ていたことに気付く。

「急に起きようとするからだよ。傷を縫ったばかりなんだ」

 あきれた声が隣から聞こえて、ディーノはそちらを振り向いた。枕元に、着物姿の雲雀が座って、タオルを絞っていた。

「恭弥…」

「わき腹撃たれて、目覚めるなり起きようとするなんて、さすがにタフだね。でも、傷口はまだくっついてないし、熱も出てる。まだしばらくは寝てなよ」

 そう言いながら、冷たい濡れタオルを額に乗せてくれる。目を覚ましたときの感触はこれだったのかと、ディーノは納得した。

 ふと気付けば、穴が開いて血塗れのTシャツではなく、誰のものなのか、手触りのいい木綿の浴衣に着替えさせられていた。持ち物は枕元にきちんと並べられている。常に持ち歩いている鞭やベレッタまで、当たり前のように置いてあって、ディーノは安心していいのか慌てるべきなのか、一瞬迷った。

「悪ぃ。迷惑かけただろ」

「僕は僕がしたいようにしただけだよ」

 雲雀の返事は素っ気なかったが、洗面器の中でからからという音がして、雲雀がタオルを絞ったのはただの水ではなく、氷水だとわかった。ただの成り行きで拾ってくれたのなら、わざわざここまで手間をかけてはくれまい。

 首を廻らせると、先日ディーノが帰り際に雲雀に掛けていった上着が、鴨居に下がっている。きちんとブラシをかけて、形を整えて吊るしてある様子で、雲雀の心遣いが知れた。

 ディーノはそっと布団から手を出すと、雲雀の手に触れる。氷水でかじかんだ手は、けれど、熱を持った自分にはとても心地よかった。

「Grazie molto」

「へぇ」

 ディーノが口にした言葉に、雲雀は興味ありげに口の端を持ち上げる。

「あなた、イタリア人なの」

「ああ、そうだ…って、言ってなかったか?」

「聞いてないね。上着を探っても、身分証明書らしいものはなかったし」

「ああ…、IDは持ち歩かねーようにしてるからな……」

 納得したようにうなずいたディーノは、まっすぐに雲雀を見上げて口を開いた。

「オレはディーノ。イタリアン・マフィア、キャバッローネ・ファミリーの10代目だ。巻き込んで悪かった。部下が来るまで、置いてもらえたら有難い」

 横になったままってのも、格好つかねーな…とディーノは苦笑したが、雲雀はにこりともせずにうなずいた。

「どちらにしろ、医者からは1週間は安静にって言われてる。あなたの部下が迎えに来るのがいつなのか、どうやって来るのかはわからないけど、それまではここにいていいよ。必要なものは僕に言ってくれたら用意する」

「すまねー。世話になる」

 先ほどから触れたままだった手をきゅっと握ると、雲雀はふいと視線を逸らして立ち上がった。

「またあとで来る。それまで眠ってれば? まだ熱は引かないでしょ」

 部屋を出て行く後姿、かすかに頬が赤くなっているのが、布団の中からも見て取れた。





 ディーノの熱は、薬が効いたら直に引いた。無精ひげを生やした胡乱な医者は、男を見るのは主義に反するなどとぼやいていたものの、診立ては確かだった。

 外界からきっぱり隔絶されたかのように静かな離れの一室で、ディーノの怪我は順調に回復していた。

 雲雀は、指摘すれば否定するだろうけれど、雲雀なりにディーノを気にかけているのだとわかるくらいには、世話を焼いてくれていた。

 最近のディーノは、このまま足を洗い、雲雀の亭主として、この料亭を切り盛りするのも悪くない…などと思うことが増えていた。

 雲雀だって満更でもないだろう。そう思うのは、何度か床に引き込み、身体を交えたけれど、抵抗されたことはなかったからだ。

 ファミリーを見捨てるつもりはない。ボスの責任を放棄するつもりもない。けれど、雲雀の離れで送る穏やかで満たされた日々は、争いを好むわけではないディーノの心を、確実に捉えていた。





 日が沈み、料亭なみもりの夜の営業が始まる。庭の向こうからかすかに聞こえるお座敷遊びの歓声を聞きつけて、ディーノは窓際で本を読む雲雀に声をかけた。

「恭弥、店に出なくていいのか?」

 雲雀は本から目を上げると、ゆっくりと首を廻らせてディーノを見る。

「僕は芸者でも娼妓でもないからね。気が向いたときしか出ないよ」

「じゃあ、あの夜は気が向いてたのか」

「あなたのためじゃない」

 出逢った日のことを言われて、雲雀はつんとそっぽを向いた。その横顔を愛しげに見つめて、ディーノはつぶやく。

「踊ってる恭弥、すげー綺麗だったなぁ。あれが見れたのは、オレの運がよかったからなのか」

 雲雀は返事もせず、黙って本のページを指で辿る。ディーノは構わずに言葉を続けた。

「なぁ。オレの傷が治ったら……そうだな、抜糸が済んだら、また踊ってくれねーか?」

 軽く聞こえるディーノの頼みが、意外と真剣なことに、言っている本人さえ気付いているのかわからない。ただ、雲雀は視線をディーノに向けて口を開いた。

「舞」

「え?」

「あれは、踊りじゃなくて、舞。…僕は僕の好きな時にしか舞わない」

 ディーノの間違いを訂正した雲雀は、本を閉じると、さっと立ち上がって部屋を出た。

 濡れ縁を回り、雲雀は渡り廊下に向かう。急にもやもやと湧いてきた苛立ちを紛らわせるために、料亭内を回ろうと思った。

 部下が迎えに来たら出て行くようなことを言ったくせに、今度は抜糸までいる口ぶりで舞を見たいと言う。いったい、どちらが本心なのか。そして、この料亭なみもりにいることを、どう思っているのか。ディーノの心がわからない。

 ひとつだけわかっていることがあるとするならば、それは、ディーノのではなく雲雀の心。雲雀自身は怪我が癒えても癒えなくても、ディーノにいて欲しいと思っているらしい…ということだった。

「恭さん。ちょうどよかった、お話が」

 店である母屋に入ったところで、行き合わせた草壁に呼び止められた。促されるままに手近な空き座敷に入ると、草壁は周囲の耳を警戒するように距離を詰めた。

「先日ご依頼の件ですが、連絡がつきました。詳細はこちらに…」

 袂から折り畳んだメモを取り出し、草壁が雲雀に渡す。雲雀はそれを開いてざっと目を通すと、ひとつうなずいてメモを畳み直し、袷に差し込んだ。

「手間を掛けたね」

「それと、もうひとつ」

「何?」

「昨日から、人相の気になる男たちが、周辺をうろついています。それが、どうも日本人ではなさそうな様子で…」

「彼の迎え?」

「かとも思いましたが、それなら小細工せずに来るでしょう。…逆かと」

「殺そうとした側、ってことかい」

 草壁はうなずいて、雲雀の言葉を肯定した。

「いかがしますか。とりあえず、誰に何を訊かれても、何も知らないと答えるように、全員に言い含めましたが…」

「それでいいよ。もちろん、すぐ僕も呼んで」

「承知しました」

 うなずいた草壁は、隙のない動作で部屋を出て行く。一人残った雲雀は、しばらく半眼で何事かを思案していたが、やがて、おもむろに座敷を出ると、自室の離れに向かった。




 月明かりの障子の向こうから、ざわざわと木の枝が鳴る音が聞こえる。営業も終わり、深夜の張りつめた静寂を、しかしその音は破るどころか、なお引き立たせてざわめく。

「あ…っ」

 ディーノに跨らされ、揺すられている雲雀は、つい洩れてしまった声を、枝の音が隠してくれないだろうかと思った。

 もしも、庭を警備している草壁に聞かれたら。

 ディーノをよく思っていない草壁のことだ。そんなことになろうものなら、すぐに部屋に踏み込んできて、雲雀を連れ出してしまうだろう。

 翻弄される意識を振り絞って声を殺す雲雀に、ディーノは下からなおも容赦のない攻めを加える。

 日ごろ、並大抵のことでは悲鳴を上げることはおろか、意識を攫われることさえない雲雀だったが、この感覚にだけは抵抗しきれない。ディーノがこの部屋に臥すようになってから、幾度か経験はしたけれど、未だに慣れることができないままだ。

「ぁう…っ」

 ぐっとディーノの腕に引き寄せられて、奥深くまで貫かれる。雲雀は背を大きく仰け反らせ、喉の奥で啼いた。脳を焼くような快美の波に飲まれた瞬間、ディーノも小さく呻いて身体から力を抜く。

 荒い息の中、動くことさえ侭ならない雲雀は、しかし力の入らない下肢に鞭打って、ディーノから下りる。ずるりと抜け落ちる感覚と共に、注がれた白濁がとろとろと流れ出していくような錯覚がする。それはやけに寂しさを掻き立てるけれど、ほとんど治っているとはいえ、仮にも怪我人にいつまでも乗っているわけにはいかない。

 夜着の乱れを手早く整え、ディーノの汗をタオルでそっと拭って身仕舞いを正すと、ディーノがその腕を軽く引いた。

「味気ねーな……。もうちょっと、隣にいろよ」

「誰かに見つかったら、面倒なんだ。無理言わないで」

「恭弥」

 素っ気なく跳ねつける雲雀を、甘い声で呼んで、ディーノはなおも引き寄せようとする。

 こんな風に名を呼ぶのは、ずるいと思う。誰が口にしてもただの音でしかないその響きは、ディーノの声に乗った途端に、雲雀の気持ちを蜜よりも甘く蕩かしてしまうのだから。

 照れくささにほんのりと目元を染めた雲雀は、部屋の薄闇に安心しながら、まだ熱さの残るディーノの胸に頬を摺り寄せた。




 ぐっすりと眠ったディーノの腕の中で、雲雀はそろりと身体を起こす。

 ディーノの眠りを妨げないように気をつけながら床を抜け出すと、雲雀は足音を忍ばせて廊下に出た。

 夜の冷たい空気が、つい今しがたまで人肌で温められていた身に、きりりと染みる。

 廊下を回り、棟の反対側にある自室に入ると、一番奥の箪笥の、一番下の引き出しを開ける。そこには、白いカッターシャツと黒いウール地の上下、そして鈍い光を放つトンファーが仕舞われていた。

 もう2度と手にすることはないと思っていた愛器。けれど……

「なみもりの風紀は、乱させない」

 箪笥から取り出した、臙脂の腕章をつけた上着を、雲雀はばさりと肩に羽織った。


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