乾君の失敗 03

 手塚と不二の身体が女性化して、青学レギュラー陣は勉強合宿という名目で大石家に寝起きすることになった。乾が海堂に不埒な所業を働かないように監視するためと、勝手の解らぬ身体になってしまったことにひどく動揺していた手塚を(ただし大石と菊丸しか気付かなかったが)少しでも安心させるためだ。部屋の都合がつけられないわけではなし、一緒にいる方がなにかと便利だろうという話に落ち着いたのである。

 大石宅に着き、部屋着に着替えると、それぞれ、夕食を作るのを手伝う調理班と、手塚の指令メモを持った買出し班に分かれて、行動を開始する。その間に、大石と手塚は、部屋の片付けと部屋割りのやりくりだ。

 一般家屋の造りのこの家で、成長期の男子中学生9人が生活するのはやや窮屈だったが、部活の合宿では味わえない解放感のある共同生活は、とてもわくわくするものだった。




「それじゃ、手塚と不二、先に入っておいでよ。乾には覗かせないから」

 夕食も済み、就寝前のくつろいだ時間。菊丸や不二、海堂が台所の片づけをしている一方で、ダイニングで宿題を広げたり、リビングでテレビを観たりして、それぞれに時間をすごしている。

 浴槽に湯が張れたことを知らせるアラームが鳴り、桃城や越前に宿題を教えていた大石が顔を上げると、新聞を読む手塚と食器を拭く不二に声をかけた。同時に、乾を除く全員が二人に頷いて見せ、安心していいと視線で伝える。

「どっちが先に入るかは、二人で決めて。手塚、不二に浴室の使い方教えてやって」

「じゃ、手塚、一緒に入ろっか」

 身体がまったく変化してしまった二人に気を使った大石の言葉にかぶさるように、不二が手塚を見上げて言った。

「!?」

「ほら、君が一緒じゃないと、浴室がどこかも判らないよ。ねえ、どっち?」

 意表を突かれて絶句する手塚を強引に連れて、不二が居間を退場する。口をパクパクさせて見送った海堂と桃城の横で、河村が天に祈った。

「手塚が無事に出てこれますように……」

 しまった、危険なのは乾だけじゃなかったんだった!

 河村の祈りに大石がぎょっとしたそのとき、不二の声が家中に響いたのだった。

「大変だよ!! 大石、ちょっと来てよ!!」



 恥ずかしがる手塚をなだめすかして無理やり服を脱がせた不二は、逃げられないように先に手塚を浴室に押し込んだ。自分は悠々と服を脱ぎ、しっかりとバスタオルを巻くと、暖かい湯気で満たされている浴室に入る。

 ちなみに、先に放り込まれた手塚にはバスタオルなどと思いやりのあるものは、故意か過失か、持たされていない。

 自分で自分の身体を見ることさえ恥ずかしいというのに、他人に自分の身体を見られたり、それどころか自分のではない女性の身体(しかも、もともと男性として認識している同級生の、だ)を見ざるを得なくなったりと、まさに絶体絶命の状況に追い込まれた手塚は、身体を流すとそそくさと浴槽に身を沈めた。頼み込んで、入浴剤は登別カルルスにしてもらっておいて、本当に良かった。湯に浸かっている間だけでも、首から下を見ないですむ。

 全身に染み入るような熱い湯に、知らず快感のため息が漏れる。祖父の影響、とは思いたくないが、手塚は熱めの風呂が好きだった。

 かたんと音がして、不二が入ってきた。顔を向けた手塚は、不二がバスタオルを巻いているのを見て、ほっと安心した反面で、自分だけちゃっかりタオルを巻いていることに腹を立てる。

「不二っ…」

 ずるいぞ、と続けようとした声は、目をいっぱいに見開いた不二の叫び声で封じ込められた。

「大変だよ!! 大石、ちょっと来てよ!!」

 不二の視線は、まっすぐに、湯に浸かっている手塚に向いていた。



 不二の大声に、すわ何事かと、他7名が浴室に駆けつける。2人までならそれほど窮屈とも思わないくらいには広い浴室も、さすがに、そこらの成年男性にも負けない体格が7人殺到すれば、非常に狭苦しい。しかも、湯気で温まっている室内は暑いしで、むさ苦しいことこの上ない。

 が、そんなことは今はもうどうでもよかった。

 浴室の扉に背を向けた不二の肩越しに見える浴槽。手塚が湯に浸かっている。もちろん、手塚も、唐突に叫んだ不二とばたばたと駆け込んできたレギュラー陣にあっけに取られて、ぽかんとしている。

 手塚の裸が衆目(?)にさらされる…っ!

「で…っ」

 状況を把握してパニックを起こしかけた大石が「出て行け」と叫ぼうとするのを、乾が冷水シャワーで奇襲をかけて鎮める。

「で、不二。どうしたの?」

「うん。見てよ、そこ。僕、今まで、あれって作り話だと思ってたんだけど」

 不二が指差すのは、手塚の胸元。手塚は湯に沈んでいるので、肩だけが外気に触れている。

「お風呂で胸が浮くってやつ。まさか、実話で、自分がそれを見れるとは思わなかったよ」

 一同が浴槽の近くまで寄って覗き込むと、そこには、乳白色の湯に浮いている手塚の胸が少し見えていた。

「う…っ」

「ごっ、ごめん手塚!」

 覗き込んだ輪の中から、海堂と河村が真っ赤になって離脱する。余計な肉のついていないほっそりした肩に不釣合いなほどこんもりとした胸元は、純情少年に少々刺激が強かったらしい。

「でも、部長ってちょっと胸大きめだったし、もともとこんな感じだったんじゃないんすか?」

「てゆーか、よく判んないし。どこが浮いてんの? 普通じゃん?」

 桃城と菊丸が、ためつすがめつして、手塚の胸元を眺めるが、よく判らないらしい。近くまで顔を寄せられて、手塚が身を守るように自分を抱きしめて狭い浴槽内を後退る。

「それがね。…ほら、手塚。立って」

「なっ!」

「不二っ!!」

 事も無げに命じる不二に、手塚は絶句し、大石が怒鳴る。2人の抗議もどこ吹く風の不二は、構わずに乾がどこかから差し出したバスタオルを手塚に持たせると、手塚を引っ張りあげた。

「ね、立ってる時は直線の坂になってるでしょ?」

 と、不二は手塚の胸のぎりぎりまでを曝させて解説を始める。ふんふん、と頷くのは菊丸・桃城コンビ。越前は解説を聞く必要など端からないようで、脇で手塚を鑑賞している。

「手塚の胸の傾斜角が……ということは、胸囲と胴囲の高低差が……」

 乾がなにやらデータ採集に勤しむ横で、大石はずぶぬれで落ち込んでいた。こうなった不二を止められないことが悔やまれてならない。

「はい、手塚。もうお湯に浸かっていいよ」

 「いいよ」とか言っているが、別に手塚が解放されたわけではない。手塚が湯に浸かる瞬間を、じっと注視されている。

「ね、ほら」

 手塚の胸が湯に沈む瞬間、確かに胸が持ち上がって曲線を描く。もっと大きな胸の女性なら、とても判りやすかったかもしれないが、手塚の胸でもよく見ていれば確認できる。

「すっげぇ……」

「いいっすね、浮いてる乳」

「桃まん2個」

「いや、それわけ解んないっす」

 浴槽の縁にかじりつく菊丸と桃城に、手塚が意趣返しに両手で作った水鉄砲をお見舞いした。

「もういいだろう? さっさと出て行け。不二もだ」

「え~」

「え~じゃない、え~じゃ! こんな恥ずかしい目に合わせたりして、簡単に許したりなんてするものか。いいから、みんな出て行け!!」

 今度は手桶で湯が浴びせられる。手塚がとうとう怒ったことで、さすがの不二も「マズイ」と思ったらしい。これまでの強引さが嘘のように見事なまでの退き様で撤収していく。

「待て」

 ぞろぞろと浴室を出て行く一同を、手塚が呼び止めた。足を止めて振り向いた、その最後尾にいる者に手を伸べる。

「大石は、残ってくれるか」

「…え?」

 思いがけないことに一瞬戸惑った大石を残して、全員が浴室を出ると、その扉が丁寧に閉められる。

 大石が来るのを待って、まだ伸べられたままの腕。縋る表情を見て、それでも出て行ってしまえるような、そんな愛し方はしていない。

 浴槽のところまで戻り、水浸しの床に膝をつく。手塚を抱き寄せると、手塚は大石の背に手を回して抱きつき、その胸に顔を埋めた。




「英二、この近所って銭湯ない?」

 服を着た不二に訊かれて、濡れてしまった髪を拭いていた菊丸は首をかしげる。

「ほえ? あるよ。潰れかけだけど」

「潰れかけでも何でもいいよ。このままじゃ風邪引いちゃうだろ。大石たちが出てくるのなんて、待ってらんないよ」

「まったくだ。ついでに、新しいノートも買ってこないと、データを書き留められない」

「いや、ノートはいいんだけど」

 すかさず撥ねつけられて、乾はちょっと落ち込んだ。

「どうせ、しばらくは出てこないんだから、待ってるだけ時間の無駄だよ」

 そう言う不二の表情は、少しだけ、手塚を羨んでいた。


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