朝、乾がずいぶんとしょぼくれた様子でやってきた。「おはよう」の一言もなく、とぼとぼとロッカーに向かっていく。
「おはよう、乾。……どしたの?」
あんまりにも惨めったらしいその有様に、声をかけた菊丸だけでなく、部室に居合わせたレギュラー陣がわらわらと寄って行った。一人、海堂薫を除いて。
「昨夜……」
心配そうに取り囲んだレギュラー陣に、乾が心底悲しそうに、語ろうとして声を詰まらせる。
「うん、昨夜? なにがあったの?」
「何があったか知らないけど、話してみないか? 俺たちでよければ、聞くからさ」
「元気出してよ、乾。乾が元気ないと、俺たちまで調子狂っちゃうよ」
次の言葉を言えなくなってしまった乾に、菊丸や大石があれこれと声をかけ、なんとか話を聞きだそうと四苦八苦する。そんな心づくしに、乾はようやくしゃべる気力を取り戻し、だがそれでも思い出すだけで辛いのか、ぼそぼそとしゃべり始めた。
「昨夜、どうしても諦められなくて、海堂に電話したんだ。なんとか、ウナギと乾汁を一緒に食べてもらえないかと思って……」
はぁっ。
ここまで聞いた時点で、手塚と桃城、越前がため息をつくと、輪を離れた。「心配して損した」という言外の空気が、ひしひしと伝わってくる。
「ふ…ふぅん。それで?」
心持引きつりながら、それでも「聞くよ」と言ってしまった手前、いまさら輪を離れるわけにはいかなくなってしまった大石は、先を促す。
「案の定、猛烈に嫌がられたんだが」
『案の定』って自分で言うくらいなら、最初からやめとけばいいのに……。
その場の全員の心に、そう突っ込みたい衝動が去来する。
「粘っているうちに、理由を聞いてくれたんだ。そこまでこだわるのはなんでか、と…。それで、俺は、理由に納得してくれたら、望みも出てくるかと思って、正直に言うことにしたんだ」
「……へ…へぇ?」
「どんな理由?」
ろくでもない理由だったということは、今朝の海堂の様子から一目瞭然だが、それでも、付き合いでなんとなく訊いてしまう。目つきが遠くなってしまうのは不可抗力だ。
そんな周囲の様子に気付かず、乾は我慢していたものを吐き出すように叫んだ。
「俺は! せめて一度でいいから〝わかめ酒〟というのをやってみたいんだ!!」
わぁっと乾が泣き伏す。と、次の瞬間、海堂の容赦ないドロップキックが炸裂した。
「ぁうっ!」
「だからそういうことを恥ずかしげもなく叫ぶなっつってるんですよ!!!」
呻く乾に、ふしゅ――――――!!!! と荒い息をつきながら海堂が怒鳴る。
「そ……そんな………。せっかくいろいろやりたい気持ちを抑えて〝わかめ酒〟だけに抑えておいたのに……」
あまりのどうしようもなさにがっくりと肩を落とした周囲にかまわず、乾はシナを作って泣き崩れる。状況の割には、まだ余裕がありそうだ。
「あんたはどこまで破廉恥な真似する気ですか!!」
「ま…まあまあ、海堂。落ち着いて落ち着いて」
大石がそう声をかけ、河村が後ろから海堂を羽交い絞めにして引き離す。
「で、『せっかくいろいろ』って、どう『いろいろ』だったの、乾?」
「そうそう。どうぜだから全部言っちゃいなって。海堂も『怒らない』ってさ」
「で、海堂になにしてもらいたかったの、乾は?」
乾の左右に陣取った不二と菊丸が、乾をさらに煽り立てる。話を聞いてもらえそうな雰囲気に気をよくした乾は、一思いに願いを吐き出した。
「〝わかめ酒〟と〝女体盛り〟と〝ノーパンしゃぶしゃぶ〟」
「「わ――――――!!!! やめろ海堂!!」」
乾がさめざめと泣く合間に答えたのとほぼ同時に、海堂が河村を引きずりながら乾に踵落としを食らわそうと動き出した。海堂の気持ちは痛いほど解るが、それをやったら乾が死ぬ!! と、慌てた大石と桃城が河村に加勢する。
「怒らないって言ったじゃないか!!」
「俺ぁ言った覚えはねぇ!!」
踵落しにはならないまでも、顔面に蹴りを食らった乾が抗議する。3人に拘束されながら、海堂が怒鳴り返した。
「乾先輩、マニアっすね…。ってか、変態? 趣味がオヤジすぎ」
「越前…。もっと違うコメントはねぇのかよ…?」
遠巻きに見ていた越前がぼそっと感想を漏らすと、横にいた桃城が目線をあさってに向けてつぶやいた。
「……意外。僕、もっとヤバいことかと思ってた」
「えっ!?」
乾のマニアックな発言にもけろりとしている不二に、菊丸が一歩退く。
「ふ…不二?」
「なに、英二? 僕なら大丈夫だよ」
にっこりと微笑んだその顔に、菊丸は本能的な恐怖を感じて、ぴゃっと手塚の後ろに隠れに行く。
「菊丸?」
「手塚~~。俺怖いよぅ」
ずっと眉間に深いしわを寄せて事態の行方を見ていた手塚が、自分のところに来た菊丸に目を向ける。半分ネタのつもりで言うと、手塚は深刻そうに菊丸に訊き返した。
「……そこがよく解らないんだ…。乾の考えることだから、とんでもないことには違いないんだろうが………〝わかめ酒〟とはどういう酒だ?」
事と次第によっては、飲酒疑惑で生徒指導室に連行するつもりらしい。疑惑のかけどころが違う…と、菊丸はがっくり肩を落とした。
「それ、他の誰にも聞いちゃダメだからね。いろいろとヤバいことになりすぎちゃうから。特に、おチビと不二には絶対ダメ」
この二人には、実践で教えられかねない。そんなことになったら、手塚の貞操は誰にも守れなくなってしまう。
「……あ、ああ……?」
菊丸の心の底からの忠告だったが、よく解っていない手塚のうなずきは曖昧なものだった。そんな手塚に、菊丸は「あとで大石に洗い浚い報告して、手塚を守ってもらわなくちゃ…」と、強く思ったのだった。