それでもカイビガンの国

            2000年9月8相模台中学校PTA広報への原稿から

バハーラナ(何とかなるさ)・パキキサマ(つきあい)・ウータンナロオブ(日本語に訳しにくいが、恩とか時に借金)、そしてみんなカイビガン(友達)
フイリピン人の気質を代表する言葉である。
 子供の頃、亡くなった父親の関係で家にはいつも外国の人が泊まっていた。どちらかというとヨーロッパの人が多く、年間二百人ほど泊まっていった。
 教師になって社会を教えることになった時、我にかえった。「自分はアジア人なのにどうしてアジアのことを知らないのだろう」と。それからアジア遍歴が始まった。
 ちょうどその頃から日本に多くので稼ぎの人が目立つようになり家の近くにも日本人と結婚したフイリピン人の人が目立つようになった。 彼女たちは大学も出てる、なのに日本に来るのか?
 フィリピンに降り立ってショックの連続、禁煙ロビーで平気でうんこ座りしてたばこを吸う日本人の若者。パリの空港では絶対に見かけない光景、いくら私でもバターン死の行進くらい知っている。彼らはそれすら知らない、つまり教わっていないのだ。私には遠慮が最初からこの国にはあった。なのになぜ現代の若者はそのことを知らないのか、、。知らせねば。
 それから今まで十七回訪れ、ツアーでは行けない場所を旅した。
幸い仲良くなったフイィリピンの家族は、貧しくても子供の教育には熱心で、嘘をつかない人たちだった。以来お世話になっいる・トイレットペーパーもエアコンもない、田舎に行けばガスもない。電気もない。たき火でバーベキュー、「お前何で日本人なのに薪割りや火付けができるのだ」「子供のころこれが僕のお手伝いだったのさ」
 変なことで感心されてしまった。
旅を続けると、何か懐かしい日本の光景に出くわす。正月には餅米で作ったお菓子を出す。醤油は漁醤、烏賊の姿焼きもある、カリントもかき揚げもある。豆腐もある。 今回は視点を変えてマニラに住む日本人の生活を知りたかったのでマニラ日本人会を訪ねた。そこでしか手に入らないマニラ便利帳(イエローブック)も欲しかったのだ。訪ねていって正直言ってがっかり。
 「ここは親睦を目的とする組織ですから」みな大企業の駐在員の人たちだった。大きな家に住みメイドを雇い、現地の人ととの交流はまず無い。
 偶然居合わせた男性と話をした。「この国は革命でも起きなきゃ良くならないさ。袖の下は当たり前毎年七千組もの日本人とのカップルも生まれるのにあっという間に離婚さ。これじゃあ売春さ。」
 私もそれは知っている。ピナツボの援助金は日本が一番多く出している。現場も行った。しかし私が見ても、どこに金はいったのだろう。ブルドーザーが2台、空しく灰を積んでるだけ。毎年の豪雨(並ではない)でラハール(泥流)は今も拡大し周辺を埋め続けている。
 悲しい現実。同行してくれた家族には言えない言葉だった。
でも今もあの底抜けの明るさ、何で貧しく苦しいのに喜んでいられるのか。
 私にはそれでもカイビガンの国だった。


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