国際理解ーアジアと日本ーフィリピンを中心として」

1998年教育研究所への個人論文から

T 研究のねらい
現在、日本人とフイリピン人との結婚は約1万組ある。ただし最近ではこの数字の中には、日本での滞在を可能にするための偽装結婚の数も含まれているようである。
 正式な婚姻関係にあり、日本で子供を産み、通常の生活を送り、子供をもうけている数となるとかなり少なくなるようである。
 しかし、年を追うごとに確実に両者の間に産まれた子供たちも就学年齢をむかえ、新たな問題も起きつつある。
 小数とは言え、今後教育現場で彼らに多く対処する場面が起きうるであろう。そのための理解の一助としてフィリピンの国家、日比混血児児童・生徒の概要を把握したい。
U 主な研究内容
 日比混血児児童生徒の現状を考査し、文化的社会的背景を調査する。また学校現場での対応の考慮点や授業での試みをする。
1 フイリピン籍生徒の生活上の問題
 言語・生活・文化的背景からくる問題を探る。
(1)言語上の問題
 幼児期に現地で現地語で生活した者、日本にいながら母親が日本の保育園、幼稚園に入れず、家庭内で現地語で子どもに接した子どもは、明らかに言語の発達遅滞が見受けられる。
 フィリピンではベビーシッターを雇う習慣があり、かなり経済的に苦しい家庭でも、ヤヤと呼ばれる乳母やハウスメイドを置いている。
 そのような雇用人を雇うことがある種のステータスシンボルであるだけに、日本でも現地と同じような生活を続けようとして、金銭の出費を重ねてしまう。
 彼らは保育園の訳語をナーサリー・スクールということから、そこが公式の学校と誤解している場合もある。
 当然、ヤヤやメイドは在日フィリピン人やファミリー・ビザで呼び寄せた自分の家族であったり、託児所も無認可のフィリピン人経営の場合が多いので、適切な日本語教育や、日本人としてのマナー、生活習慣が十分でないまま就学年齢を迎えてしまう。
 従って授業において難しい言い回しが理解できず、抽象的思考が遅れる者がいる。
 たとえ現地にいても、母親や母親の家族自身もつとめて日本語を話そうとして育てられた子どもは、そのような言語の発達遅滞は見受けられない。むしろバイリンガルとして、複雑な思考回路が構成されていくようである。
 私の知っている家庭では、母親が市役所の無料日本語講座に通い、かなりの数の漢字まで学習している人もいる。まだ子どもは小学校低学年であり、当然母親の方が漢字も良く知っており、日本人の母親と同じように子どもに家庭内教育を施すことができている。
 こうした国際結婚の場合、家庭内での幼児教育の援助が必要であり、またフィリピン人母親への日本語のみならず、文化や習慣に対する教育が必要になってくる。
(2)民族性からくる問題
 フィリピン人は子どもを大事にする。たとえお金が無くても、誕生日にはお互い知人同士で高額のおもちゃを与え合う。
 本国では兄弟数が多い家庭が多く、10人兄弟も珍しくない。しかし日本に来ると、日本と同じく子どもは平均2人位である。
 しかしその少ない子どもに幼いときから、日本人から見ると相当甘やかすような態度で接するため子どもがどうしてもわがままになる傾向がある。
 現地語でマテガス・ナン・ウーロ(直訳では頭が固い:日本的に訳すとこの場合はわがままに近い)な子と呼ばれるようになる。現実的には単なるわがままとも言えないが、頑固でわがまま、自分が常に正しいと思うようになりがちで、自分の要求が聞き入れられないと、泣き出したり、わめいたりするケースが多い。
 就学年齢を迎えると、ともすると友達との間で仲良しであった子と急にケンカをしたりする場合がある。
 そうでないときは、人当たりが良く、誰とでもよく話し、優しい子になるようである。
 これには、フィリピン人の特性の一つ、パキキサマ(つきあい)を大切にする習慣があるのかもしれない。
 パキキサマは単に日本的なつきあいとは言い難く、かなり密接な人間関係を構築している。冠婚葬祭のみならず、お互いの誕生日、近所づきあい、さまざまな場面で負担と思えるくらいにつきあいが進む。貧しい国である故、金銭的な出費も馬鹿にならない場合もある。
 これらつきあいから生じるのがウータンナロオブ(負債)である。日本風に言うと恩義かもしれない。したがってパキキサマをしないとワラン・パキキサマ(つきあいが悪い)人とよばれたり、パキキサマを返さないとワラン・ウータンナロオブ(恩知らず)な人と呼ばれるようになる。
 こうした傾向は児童・生徒にも見られるが、日本では時には上述のような結果を生むことにもなる。
 フィリピンの子に「どうしておこるのかい」と聞いても「いいつきあいじゃない。」というような答えが返ってくることがある。
 反面、人との関係を断ち切られることへの不安感は強い。
 フィリピン人の性格を表す言葉にはいろいろありすでに述べているが、その一つにマランビン(甘え)がある。日本の甘えと構造は異なるが、目上の人、自分より権力や経済力のある人に徹底して頼ってくる。
 良い時には親しげであり、そうでない時は馴れ馴れしく思えることさえある。
 その関係が切れたとき、突然怒り出すこともある。
 親しかった友人に対しても、いきなり冷たくなってしまうこともあり、子どもにも同様な傾向があるようである。
(3)フィリピン人母親の日本の教育に対する誤解からくる問題
 フィリピン人の母親の中には教師に全面的信頼を置きすぎる傾向がある。
 学校に行かせていれば、日本人として今後生きる上で支障がないと考え、他の日本人の母親のように、子供を塾に行かせたり、習い事もさせたがらない。
@進学より就職 
 自分の子供が中学校を出て就職する事を希望する母親が多い。教育程度の高い母親ならば日本においても子供の教育に熱心であるが、貧しい国から来た人の多くはほとんど高等教育を受けておらずあまり勉強させたがらない。
 フィリピンでは母親のみならず親の権威は強く子供はどうしても母親の言葉に従う傾向がある。したがって学力が他の児童・生徒と比べると伸び悩んでしまう生徒が多いようである。
 親が尊敬されていることの象徴にあいさつがある。子は目上に対しては相手の手を取り、それを自分の額に押しつける。マノッポ(マノ:手、ポ:どうぞ)と言い、日本風に言えばで「お手を拝借します。」とでもいうのであろうか。
 また「はい」は通常オオと発音するが、目上に対してはオポ(かしこまりました、さようでございます:状況に応じて訳は異なるが、丁寧語である)と答える。
 在日の母親が現地フイリピンのハイスクールだけの卒業者の場合、日本の高等教育に対する理解が乏しい傾向が強い。
 これらの母親の内で、日本で夜の仕事をしていた経験を持つ者になると、あまり教育程度も高くなく、教育に対する関心も低い。
 もちろん大学を出た人々の中にはそうでない人もいるが、なかなか日本の教育制度や制度以外での教育事情(前述の習い事や、塾通い)が理解できないでいる。
 幸い私のクラスに在籍した生徒の母親は現地で夫と出会い結婚し、教育も高い人であったので自らも日本語を勉強し、学年委員もしてくれた程であった。
 そのような母親の子供は成績も優秀であり日本人でも入学が難しい県立高校にも進学できた。
 ただしこのようなケースは例外であろう。
Aハイスクールは中学だけではない。
 こうしたことが起きる背景にあるのが日本語と英語の訳の違いである。
 英語で中学校を翻訳するとハイスクールになる。しかし後述するがフィリピンではハイスクールは5年間でそのあとすぐに大学に進学するのである。
 したがって母親の中には、「なぜハイスクールを2回も行くのか」理解できない者もいるし、日本の高校が義務教育でないことを知ると、わざわざお金を払ってまで高校に行かせる必要がないと思う傾向が強い。お金があれば故郷の家族に仕送りをした方がよいと考えがちである。
 ほとんど全ての在日フィリピン人は故国に家族を背負って生活している。
 こうした背景を理解しないと、フィリピン籍の児童・生徒の心境を理解できないであろう。
母親には、日本の高校がほぼ義務教育化していることをまず理解させなければならない。また細かい学校行事や、学費のことも説明せねばならない。
(4)周囲の日本人の誤解からくる問題
 ともすると国際教育、国際化、というと英語を話し、欧米の文化にふれることになりがちである。しかし、気づかないところで、我々がとらえているのとは異なった国際化が進んでいる。
 我々はこうした人々、子供達に偏見はないだろうか。夜の仕事をしている、していた母親の子として特別な目を向けていないだろうか。
 英語が堪能な国の子供としてとらえすぎていないだろうか。欧米化したアジアの貧困国と思っていないだろうか。いつでも陽気で、楽天家と思っていないだろうか。キリスト教国で信仰心があついと思っていないだろうか。諸制度が遅れていると思っていないだろうか。
 フィリピンを理解する上で気をつけなければいけないのは、彼らは同じアジア人であるということである。彼らの習慣などにはかなり古いアジア的なものがあるということである。
 一見西洋化されて見えるが、首都圏マニラにすむ人でさえ、古い風俗・習慣に束縛されていることを理解すべきである。極端な言い方をすれば、江戸時代の日本の田舎の慣習をそのまま現代に持ってきているような感じを受ける。
 夜の仕事をしていたということも、彼らにとってはやむを得ず行ったことである。仕事のないフィリピンでは、たとえ大学を出ても肉体労働に従事するケースはあり得ることである。その辺を理解しておかないと、誤った偏見を持つことにもなりかねない。
 キリスト教であることも、フィリピンのキリスト教では、多分にアジア的色彩が強く、礼拝には出席していても聖書を読んだことのない人もかなり多い。そのためか、日本人と結婚すること、つまり異宗教の人と結婚することにあまりためらいはないようである。
 彼らはある意味では、素朴であり、人がよいのであり、生徒にもその傾向は見られる。
(5)日本人父親から起きる問題
 理解ある伴侶がいる場合は、夫である日本人が問題が生じると家庭で助けてくれるが、全てのケースでそのようにはならないこともある。
父親サイドに問題がある場合、家庭は顧みられず、教育に無関心のことがある。
 理由としては
@父親の教育に対する意識が薄い。
A父親の職業が夜の仕事の場合、子どもと接する時間が少ない。(クラブなどの経営者、プロモーター等の場合は当然ながらなおさらである)
B父親の経済状態が悪化し残業が多く家庭にいる時間が少ない
Cもともと酒好き女好きで結婚後も夜遊びを止めず、家庭を大事にしない。
 などがある。
 家庭内父親不在、したがって日本人としての資質を受けられず子どもは成長していってしまう。
 したがって、周囲から変わった子と見られてしまうこともある。
2 フィリピンの社会(政治・経済・文化)
(1)小史 
 長い間、フィリピンの社会の教科書では「我が国はマゼランによって発見された」となっていた。この言葉がフィリピン社会の特性を象徴している。
@スペイン統治時代 
 当然、マゼランが来る以前からフィリピンは存在していた。事実マゼランを倒し殺害したのもフィリピンの一小国のラプラプ王である。
 スペイン人がフィリピンに来た頃は、フィリピンは多数の小国に分かれており、国内がまだ統一されていなかった。ようやく強い国が現れはじめ、何ごともなかったならば統一されていただろう。
 16世紀、スペインにより征服され、国内統一が道中場に終わってしまい、アジアの国でありながら、多分に西洋色が強い国になってしまったのだ。文化的な独自性が育つ前に、スペイン化されてしまった。 
Aアメリカ統治時代 
 19世紀、米西戦争によりアメリカはスペインからフィリピンを獲得し、アメリカは根本的に諸制度をアメリカ風にしたため、さらにフィリピンはアジアでありながら欧米風文化の高い国になってしまった。
 フィリピンの欧米化荷役割りを果たしたのは教育制度である。統治当初、アメリカは1000人の教育使節団を派遣し、教育制度をアメリカ風に変えてしまった。この制度は今でも変わっていない。
 では欧米風のものの考え方や行動が通ずるかというと全くそうではない。やはりアジアなのである。そこがフィリピンとフィリピン人を理解する上での難しさを表している。
B独立後 
 独立後は独自のアイデンティティを模索している。新ピリピノ語の普及も図っているが、なかなか達成できない。
 新ピリピノ語は首都圏マニラを中心とするタガログ族の言葉を母胎として、スペイン語、英語が混在している言葉である。公共放送はこの言葉を使用しているが、全国民の50%しか話さない言葉を公用語にした事への反発もあり、なかなか普及しない。事実、前大統領ラモスも新ピリピノ語を話すよりは英語を使うことの方が多かった。
 地方に行くと大きな言語だけでもセブ語、イロカノ語、ビサヤ語、ビコール語等に分けられ、その中が更に細かい方言に分かれている。
 少数の言語をあわせるとおよそ150ほどの言語が存在している。
 従って同じフィリピン人同士で話をするとき英語を交えて話すことが多い。
 どうしても色々な諸物はアメリカ文化のコピーが多い。映画など見ていても。アメリカ映画の焼き直しであることは目に見えているのだが人々はかまわずに喜んでみている。
 こうした状況から悪口を言う人は「コピー社会」と呼ぶ人もいる。
(2)政治
 長い間マルコス政権が続き、その間にいわゆるアンダー・テーブル(袖の下)社会が横行しているのが現状である。
 その背景には、フリピン人の家族主義が根強く、近親者を厚く用いることが慣行化していることにもよる。
@家族主義とアンダーテーブル
 人々は競って有力者に自分の子どものニノン(ゴッド・フアーザー)やニナン(ゴッド・マザー)になってもらおうとする。
 マルコスは10000人ほどの人々のニノンであった。彼らニノン、ニナンは毎年誕生日には贈り物を必ずしたり、入学・卒業・結婚と費用の面倒を見なくてはいけない。貧しい社会が生んだ知恵とも言えよう。
 しかし、都市化、近代化してきているこの国ではそれが健全な政治の妨げとなりうることが多い。
 アンダー・テーブルのすさまじさは車の免許から医者、弁護士、操縦士とあらゆる資格にまで行き渡っている。
 アキノ政権、ラモス政権下で次第にこれら悪習も改善されつつあるがまだまだ不十分な状況である。
 人気テレビ番組に「ホイ・ジーセン」(おい、おきろよ)があるがこれは公務員などの怠慢を隠しカメラで撮影して紹介する番組である。政府による圧力はないが、人々が面白がって見るところにまだまだこの国の問題の根深さがあるようである。
(3)経済
 失業率50%を越える状況、これがすべての悪の根元である。
 ワラン・トラバホ(仕事がない)、会う人々のほとんどがそう答える。
 大卒の平均給料は日本円で10000円〜15000円位であろうか。一人あたりの生活費は切りつめて1人、10000円位である。従って大家族を養うことはできない。
 こうした現状を打破するために行われたのが海外出稼ぎ労働者の薦めであった。マルコス政権下、イメルダ婦人が中心となり進められ現在も状況は変わらない。
 国家収入の半数近くをこの海外からの送金に頼っているのが現状である。
 現在は解散してしまったが、長い間、海外雇用庁(POEA)の果たした役割は良きにつけ悪きにつけ大きい。
 たとえ、大学出でも日本にホステスとして来る者が後を絶たないのもこうした経済状態の悪さがある。
 これは男性でも同様で、大学を出ても仕事がなく、船員として海外に出稼ぎに行くとか世界の底辺労働力を支えているのである。
(4)フィリピン教育事情
@教育制度 
 地域あるいはその人によって多少の異なりはあるが以下のようなパターンが基本である。

  ELEMENTALY SCHOOL(小学校)
   6歳〜12歳
HIGH SCHOOL(高等学校)
   13歳〜16歳
 COLLEGE(大学)
17歳〜20歳

 これらの制度はアメリカによる占領政策の一環として、1000人のアメリカ人教師が当初フィリピンに送られ、徹底したアメリカ式教育方法が導入された名残である。
A言語の問題
 小学校においては最初の1年次はタガログ語による授業が行われているが、2年次からは英語で各教科が学習される。
 したがって英語ができないと学習についていけず、そのような生徒は補習授業やタガログ語による特別の学校に行くことにもなる。
 現在、フィリピンで公用語として認められている言葉は正式には、タガログ語にスペイン語の単語を多く交えて作られている、新フィリピン語=ピリピノ語である。
 こうしたコミュニケーションの不足を補う目的のため、植民地時代の言語である英語がピリピノ語と並んで公用語に指定されているのである。
 フイリピン人は皆英語ができると思いがちであるが、そうではない。教育をあまり受けていない人々はコミュニケーションの手段として英語が通用しないと思っていなければいけない。
 また英語が堪能な者でも、いわゆるフィリピン英語であり、日本的な発想ににている文体、造語が見受けられる。
(例)
 FINANCIAL→PINANCIAL
HAPPY  →HAPEE
AIRCONDITIONER→AIRCON
HERE →HIRE
 HIGH TECNOLOGY →HAIGHTEC

 彼らは自らの英語をイングリッシュとタガログ語をもじってタガリッシュと呼ぶこともあるくらいである。
 傾向として、HはPの音に、CはK、への誤用、上述のエアコンのような省略語が見られる。
B授業 
 フィリピンの小学校の授業参観をしたとき小学校3年の算数の授業であったが、すでに授業はすべて英語であり、最大公約数をやっていた。短期間に多くの学習内容を盛り込んでいる。
 したがって授業についていけない生徒も多い。後ろの方でまったく授業についていけない子供はただ座っているだけの子であった。
 彼の将来はすでに決まっていると言える。彼はいい仕事にすでに就けない事を知ってしまっている。
 カリキュラムは政府が定めた基準によりかなり学校により自由に設定変更できるようである。
 教科書は内容的には分厚く、密度が濃い印象を受けた。
 ただし教科書は日本のように無償配布ではなく、生徒が買わなくてはいけない。したがって兄、姉がいる生徒はお古を使うなどしている。授業中も計算練習などはノートの代わりに、小さな黒板を使用し、チョークは学校からその都度支給されていた。
 教科書が買えず、どうしても家で学習したいものは学校に図書室がありそこに教科書が置かれている。図書室で放課後学習するか、借りていくかで教科書を買えない分を補っている。
 ある意味で私は学習する子の光景を見て感動すら覚えた。有り余る物の中で日本の生徒はそれでも学習しない。フィリピンノ生徒は少ない教材を実に有効に利用し、学校に行けることに喜びを感じている。
 もちろん部活動(AFTER SCHOOL ACTIVITY)もあり、教科の単位になっている。休みの日にも練習があり、活動は厳しいようであるが生徒は楽しんでいるような印象を受けた。
 日本の生徒に比べると、学校での拘束時間はむしろ多いのではないだろうか。ちなみに地域によって異なるが、朝は学校は6:30分や7:00時に始まるところもある。
 昼食は持参するか、学校の前に来ている物売りから買うか、時には学校の先生から買うのである。ほとんどの場合、買うことの方が多いようである。そのことが各家庭の教育費を圧迫もしている。給食はない。
3 授業での試み
 1学年の地理東南アジアでフイリピンを扱う。アジア全体の中でのフイリピンの位置と現状、日本との関係を学習させた。
 単にフィリピンのみならず、アジアと日本との関係から、国際意識を養う。
(1)授業経過
 東南アジア・・・・・・・・6時間
 タイ・・・・・・・・・・1時間
    米作りを中心として。
  フイリピン・・・・・・・2時間(本時)
    バナナ栽培、戦争中の関係、出稼ぎの    人々を中心として。
  マレーシア・・・・・・・2時間
    先端工業、木材資源を中心として
    教室のゴミ調べから環境問題を考える。
  シンガポール・・・・・・1時間
中継貿易を中心として。
    アジアのまとめをデック・リーの歌を    中心として
(2)フィリピンの授業の経過1時間目
@クイズ
「バナナの種はどこにある。」
 生徒の答えは様々である。
「最初からない」「中にある小さなつぶつぶ。」
 「自然になる」など。
 OHPでフィリピン産の野生バナナの切り口を見せる。
生徒にはどうして今のバナナには種がないのかを考えさせる。やがて人間が手を加えたことに気がつく。
「バナナの輸入会社を知っていますか」
 現在4社あるが、「デルモンテ」「チキータ」などの会社名は生徒も知っていることが多い。
 OHPで会社のブランドを映し出す。
 それらの会社がみな日本やアメリカ資本であり現地資本でないことに生徒は気がつく。
「バナナは一房いくらでしょうか」
 100円から500円まで差は随分あった。近くのコンビニの値段を生徒に提示したあと、フイリピンでの原価を提示する。
 生徒の反応は「そんなに安いの」とかが多い。「バナナ作りで一番危険なことは何でしょうか」
 「暑い」「虫に刺される」などの反応。
 バナナ農園の写真と収穫までの作業過程のプリントを配布すると、洗浄の農薬が危険であることに気がつく。
 以上は「一本のバナナから」を参考にした授業展開であるが、次の授業への導入として効果があった。
Aフィリピンの産業・現状について
教科書から学習する
B戦時中のフィリピンと日本との関係
 第二次世界大戦中の「炎上するマニラ」の写真をOHPで見せる。
先生:「この写真は何だろう。」
生徒の反応
 「火事」「地震」「爆撃」
 爆撃という反応からいつ頃、誰が行ったかを考えさせ、日本だという答えが出てくる。
 次にやけどを負った、フィリピンの女性の写真を見せる。「かわいそう」「ひどい」などの反応。
C「バターン死の行進」の写真をOHPで見せる。
先生:「この写真はバターン半島で日本人が捕虜にした人たちの歩いている写真です。ところで戦争で捕虜にした場合、一番最初に困ることがあるのですが、それは何でしょう。」
生徒の反応
「脱走する」「反乱する」などなかなか期待する答えが出ない。そこで次のような言葉を付け加える。
先生:「この時、捕虜になった人は約一万人いたのですよ」
生徒の反応
「食料」「水」という答えがすぐに出てきた。
先生:「では日本軍には一万人の食料と水が用意できたでしょうか。」
生徒の反応
「できない」という答えが一斉に返ってくる。
 このとき日本軍がバターン半島を歩かせ一万人近くの人が死んだことを話す。
先生:「実は日本軍は他にも多くのフィリピンの人を殺しているのですよ。」
D「フィリピン人の証言」から「落ちかけた私の首」「家族の中でただ一人生き残って」の資料を読む。
 生徒の表情は一様に暗くなり、驚いた様子であった。
 生徒に感想を言わせると「ひどいことをした」「かわいそうだった」などの答えが多かった。
 戦争の悲惨さや平和の尊さも認識させ本時の授業を終了する。
(3)フィリピンの授業2時間目
 前時の復習をする。 
@OHPで写真を見せる
先生:「この写真に写っている看板には差別になる言葉が書いてありますがそれは何という言葉でしょう。」
生徒の反応
「山奥」「孤島」「田舎」などの反応がすぐにでる。
 生徒はこの看板が夜の酒を飲む場所であることをすぐに理解したようである。
 「この文字を読んだ人はきっとこの国の人々を私達より劣っている人々という認識を持ってしまうでしょうね。」
「でもこの間フィリピンの農園の労働者の賃金について学習しましたが、大学出の人々でも1ケ月15000円くらいなのです。」
「では日本ではいくらくらい賃金をもらっているのでしょうね」
生徒は「5万円」「10万円」から「25万円」「30万円」「40万円」までと想像がつかないだけに幅が広い。
先生:「ずいぶん値段にばらつきがありますね。実は一番低くて5万円、多くて20万円くらいです。」
「へーひどい」「かわいそう」という声が多い。
AOHPでフィリピンの子どもたちの写真を見せる。
先生:「この写真の子どもたちはどこの国の子ですか。」
生徒の反応「日本」「ベトナム」「韓国」とやはりさまざまであったがそのうちに「フィリピンの子ども」という答えが出てくる。
先生:「そうですフィリピンの子どもです。でも顔見ると何だか日本人みたいな子もいますね。それはどうしてでしょうか。」
生徒の反応「日本人の親がいる。」
先生:「ではおとうさん、お母さんどちらが日本の人でしょうねえ。」
生徒の反応「お母さん」という答えが最初圧倒的に多かった。
先生:「実はお父さんなのですよ。」「ではこの子達は今どこに住んでいるのだろうね。」
生徒の反応「日本」という答えが圧倒的に多かった。
先生:「この子たちは日本に住んでいないのですよ。じゃあどこだろう。」
生徒の反応:「フィリピン」と答えが返ってくる。
先生:「ではどうして日本に住めないのだろう。」
生徒の反応:「お金がない」「フィリピンが好きだから」ようやく「お父さんとお母さんが離婚した。」と答えが出てくる。
先生:「そうですね。かわいそうだけどお父さんとお母さんは別れてしまったのです。」「ところでフィリピンの宗教は何教だったかな。」
生徒の反応:「キリスト教」アジアの宗教の所で学習しているのでこの答えはすぐに返ってきた。
先生:「そうです、国民の95%はキリスト教です。そのうちの大半はカトリックという宗派なのですよ。」「でもカトリックでは離婚は禁止されているのです。」
生徒の反応:「じゃあこの子たちはどうなっているの。」
先生:「日本では離婚したことになっているのですが、フィリピンではまだ結婚していることになっているのです。」
生徒の反応:理解はかなり難しいようだった。
先生:「つまり日本では離婚しているのですが、フィリピンではまだ結婚状態が続いているのです。」
先生:「ところでこの子達の生活はどうなっていると思いますか。」
生徒の反応:「お母さんが働いている。」「お父さんからお金をもらっている。」等さまざまである。
先生:「実は最初このころは日本のお父さん達もお金を送って援助していたのですが、次第にお金を送らなくなってしまったのです。」
 すでに生徒らはフイリピンでは大量の失業者がおり、収入も低いということを知っている。
生徒の反応:「じゃあどうやって暮らしているの。」
先生:「さあどうやって暮らしているのでしょうね。少なくとも君たちと同じような生活はしていませんね。どうでしょうか、君たちと同じ日本人の血を引いていながら、まったく君たちと違った生活をしているのですよ。」
生徒の感想:「戦争中日本はフィリピンにひどいことをしたのに、またひどいことをしている。」「かわいそうだ。」中には「援助して上げたい。」と話す子もいた。
 授業の締めくくりとして、今後の国際関係は身近なところで考えていかなくてはいけないこと、今後外国の人にふれる機会も多くなるが、日本とどのような関係があった、又現在どのような関係にあるかを注目していく必要があると話して終わった。
V 明らかになったこと
(1) フィリピン人の精神構造
5つの言葉 
 パキキサマ(つきあい)
 ウータンナロオブ(負債)
 マテガスナンウーロ(頭が固い)
 マランビン(甘え)
 ヒア(恥)

 これらを十分に果たせない場合、ワラン、ヒア、カ(お前は恥知らずだ:ほとんど使われない、使う場合はよほど怒った場合)となり、フィリピン人にとって、とても辛い言葉になる。
 ちなみにフィリピンの人は「馬鹿野郎」と言う言葉はほとんど使わない。日本にいるフィリピン人から以前何回も「日本人はすぐ馬鹿といいますね。」と冷ややかに話されたことが何度もあった。 
 日本人同様、甘えと恥の文化が根本にある。
それがこの国の人々の良さであるとともに、近代的な進歩を妨げてもいる。
(2) 身近な国際化
 授業を通して、生徒の反応は好意的なものであった。
 私がこの授業を試みたのは、初めてフィリピンの空港を訪れたとき、沢山の日本の若者が、禁煙の場所で堂々と喫煙をし、しかもいわゆるつっぱりのする座り方で吸っている光景を見たことがきっかけだった。
 彼らは明らかに、この国を軽蔑している、アメリカやヨーロッパではこのようなことはしないだろう。こうした行動の背景には、2つの国間の歴史認識と現状認識の欠如があったのだろう。
 フィリピンを通して欧米中心の国際観からアジアから見た国際観を持たせることが出来たと思う。
W 今後に向けて
 環境教育、平和教育を加味したアジアの総合学習を目指す。
 たとえば今回も行ったが、フィリピンでは授業でノートではなく小さな黒板を使うこと、このことと、マレーシアの木材輸出の学習から一週間教室から出るゴミを調べ、木材をどれだけ使用したか計算する授業を行ったがこれをさらに深化させていく必要があるであろう。
 バターン死の行進や出稼ぎの人々への差別から現代の平和教育を模索する必要があるであろう。
 アジアのまとめとして、シンガポールの歌手ディック・リーの「ONE SONG」を聞いたが、この中のフレーズ
「This is Asia、This is where we're from、We'll sing in one voice、And we'll sing one song、Our separate lands Are one from now on、We are Asia、We'll sing one song」(ここはアジア、ここはぼくらのふるさと、ぼくらは一つの声で、一つの歌を歌おう、別れ離れの国も今は一つ、ぼくらはアジア、ぼくらは一つの歌を歌おう)
 が生徒に感銘を与えたが、今後、言語理解と民族音楽学習とも兼ね合いを持たせたい。  

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