お茶と人

●「お茶の百科事典」をまとめ上げた[陸羽(りくう)](〜804?)
およそ1200年前、唐の文人・陸羽は、世界で初めての茶の専門書、『茶経(ちゃきょう)』を著しました。
当時の茶の知識や情報を網羅し、体系的にまとめられたこの茶経は、
中国の様々な茶書の源泉となり、更に日本におけるお茶の知識として受け継がれていきました。
茶が一般に広まりつつあった唐の時代。
とりわけ、文人の間では飲茶(いんちゃ)が趣味の1つとして親しまれていたといいますから、
陸羽の著作はかなりの注目を集めた事でしょう。
詳しくは『茶経』の項にて。

●中国からチャの種子を持ち帰った[栄西(えいさい)](1141〜1215)
およそ800年前。
鎌倉時代の僧・栄西は、禅宗を学ぶため中国に渡り、飲茶の習慣にふれました。
お茶は禅宗とゆかりが深く、布教の目的もあったと思われます。
栄西は茶の種子を持ち帰り、栽培法と効用の普及に努めました。
帰国から約20年後、栄西は『喫茶養生記』の中で、「茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。」と記し、
薬としてのお茶の効用をたたえています。
当時からさかのぼること、約400年前に陸羽の著した古典・茶経にも強く影響を受けた、わが国最初のお茶の専門書の誕生です。
当時、中国は宋の時代。
先進の国に学び栄西が持ち帰ったお茶には、将軍や高僧たちのエピソードも多く、
社会的にも大きな関心事であった事がうかがえます。
禅宗の世界に限らず、広く飲茶を伝えた栄西。
生活文化を切り開いた人物の1人であったと言えます。

●茶の湯を学び、大成させた[利休](1522〜1591)
栄西の帰国後、禅寺を中心に茶は徐々に広がりはじめ、やがてお茶をめぐる1つの新しい動き、『茶の湯』が生まれます。
港として栄えた塊(大阪)の商家に生まれた利休は、10代で茶の湯を学ぶため弟子入りし、修行に励みました。
天性の「センス」と、生涯に渡る研鑚の日々により、新しい美意識や価値観を生み出した利休。
喉の渇きを潤し心の渇きを癒すお茶に、もう1つ全く異なった光を当てた茶の湯は、
およそ400年を渡り現代まで受け継がれています。

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