Nummer drei


入院してから一週間、そろそろ退院できるようだけど、俺の記憶が戻る気配は全くない。
最初は楽観視していたけど、やっぱり時間が経つと焦るものである。親子・兄弟がいつどこに行ったという話を聞くたびに、俺は取り残されたような気持ちになる。皆楽しい思い出があるのに、俺だけ何もない・・・


・・・それがここまで苦しいものだとは思わなかった・・・。



「瞬くん、相当思いつめているな」

後ろから声を掛けられた。白衣をなびかせ、タバコをふかしているのが、俺の主治医、鵜飼先生だ。
年齢的には俺の父さんくらい・・・五十代と言ったところだ。商売だとは分かっているけど、俺の話を親身に聞いてくれているので、信用している。

「俺、記憶、戻るのかな・・・?」

「それは分からんよ」

即答だった。こういうときは慰めを言っておくべきじゃないのかな。

「医者なんだから患者を不安にさせるべきじゃないと思うけど・・・」

「いや、正直に言っておこうかと思ってね。慰めを言っても不安に思うだけだろう?」

そういうことか。確かにそれは言えるかもしれない。もしすぐに戻るといわれたら、俺はそれを信じていても、いつ戻るのか?そう思い続けるのかもしれない。それよりは、本当のことを聞いて、もう少し気長に構えたほうがいいということか。

「そうかもしれない。でも、教えて欲しいんだ。どうして俺、記憶喪失になったの?」

「事故で記憶をつかさどる海馬がいかれたのかもしれないな。まぁ、脳に異常がないからあくまでも一時的なものだと思う。問題は・・・」

「問題は?」

「心因性のときだ。ストレスなどで君が忘れたい何かがあったとき、自分を護るために忘れるんだよ。大方事故の記憶だろうな。まぁ、この領域は専門外なんで、私が話すのも不適切だと思うが・・・それだったら思い出さないほうがいいということになる」

「俺はどうすればいいの?」

「とりあえずは安静に過ごすべきだ・・・としかいえないな」




「俺の記憶、戻るかどうか分からないらしい」

兄さんには正直に話すことにした。信頼していたというのもあるけど、本当は・・・俺に変な期待をしてほしくなかった・・・。

「そうか・・・それなら戻らないほうがいいのかもしれないな」

諦めたかのようにため息をついた。そうだよな、この人は俺に記憶を戻してほしかったみたいだから。

「ねぇ・・・事故ってどんなだったの?」

忘れたということは、俺が知りたくないという事実だということは想像がつく。でも、このまま何も思い出さないのは嫌なんだ。

「いや・・・思い出さないほうがいい。思い出してほしくない。俺はお前に記憶を戻してほしい・・・ずっと思っていたよ。でも、いいんだ。お前には辛い思いはしてほしくない」

今までの彼とは一転した言葉だった。

「でも・・・兄さんはそれでいいの?」

「俺のことを忘れてくれたのは悲しいが、それ以上にお前が生きていてくれたことに感謝しているよ。想い出なんて、今からでも作れるだろう?」

何の裏のない言葉。別に俺を思いやるわけでなく、純粋にそう思っている人の言葉。
事故のことを教えてくれる気配はなかった。煙に巻いた様子もある。
しかし、俺が逆の立場だったらそうするかもしれない。事故のことさえ思い出さなければ、幸せに暮らせるのだから・・・。

「兄さん・・・ぎゅっとしてくれる?」


とんでもないことを口走っているという自覚がある。
でも、無性に抱きしめてほしかった。
言葉じゃなくていいから、身体で『俺』が居ることを示してほしかった。


「わかったよ・・・」


俺も彼も男であるため、しばらくはためらっていたけれど、俺に見つめられて諦めたのか、優しく俺を抱きしめる。



「心配するな。俺が・・・俺が瞬を守ってやる・・・」

決意にあふれた言葉。
俺を抱きしめるその温かい腕。
それに身を任せている俺。
甘くも切ないその空気。


何から何まで違和感があるのはどうしてだろう。
まるで俺が俺でないみたいだ。
あぁ、そうだ。俺は俺でないのか。
兄さんは過去の俺を見ている。
兄さんにとって、鷺沼瞬という男はどんな存在だったのだろう?そして、俺のことをどう思っているのか?一瞬それを口に出しかけたけど、やめた。


今はこの人のぬくもりに溺れることにしよう・・・
俺は目をつぶり、力を抜いた。





それから数日後、花束を抱えて俺たちは病院を後にした。二度とお世話になりたくない場所ではあるけれど、出て行くとなると、不思議と名残惜しくなる気がする。
空っぽの俺に中身を注いでくれた人たち、医者、看護婦さん、待合室で知り合いになった人・・・別れの挨拶をすると、みんな二度と来るなと軽く笑いながら言う。そんな温かさが嬉しかった。

「お・・・いたいた。退院、おめでとう」

鵜飼先生が右手を差し出したので、俺は握り返す。

「本当に・・・お世話になりました」

頭を深く下げると、医者の仕事だから気にするな、笑いながらそう言ってくれた。

「あぁ、これ、知り合いのカウンセラーの連絡先だ。何かあれば相談するといい」

そう言って渡されたのは、一枚の名刺。俺のことをそこまで気にかけてくれたのが分かる。

「それと、兄のほうにはこれ。いらないみたいだが、一応渡しておこう」

兄さんのほうにも名刺を渡した。

「どうしてそこまで・・・」

兄さんが問いかけた。俺も同じ疑問だった。

「これも医者の仕事だからな。瞬くん、私は外科の人間だ。精神科については残念ながら素人に毛が生えたようなものだ。ただ、これだけは言っておく。

どんな人間でも、過去があるから現在がある・・・。

だが、こうやって忘れたことにも何か意味があると思うんだ。だから、君にその必要が出来たとき、思い出すかも知れん。今は焦らず、そこの彼氏とのロマンスを満喫するといい」

彼氏ですか。俺と兄さんが同時にツッコミを入れた。

「あぁ、寝言で兄さん・・・と言っていたから、それほど大事な人なんだろう?」

「そりゃ、兄さんなんだから兄さんって言うよ!」

つい真っ赤になって言い返してしまった。

「そこまで気持ちを出せるのなら安心だな。じゃ、がんばれよ」

お世話になった医者に見送られ、俺たちは病院を後にした・・・。



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