Nummer vier


「ここが・・・兄さんの家?」

俺たちが着いたのは、駅から徒歩10分という、それなりにいい立地のアパート。

「俺のじゃない。俺『たち』のだ。俺と瞬は一緒に暮らしてたんだ」

そういえば前にそんなことを言っていた。だけど、考えてみたら不思議なのである。
兄さんが一人暮らしをするのは分かる。大学生の諸事情というやつだ。しかし、どうして俺は兄さんと一緒に暮らしていたんだろう。
考えてみたら、どんなにブラコンであっても、普通はプライベートを尊重するはずだ。

「俺は結構寂しがりやでね。休みの日には来てもらってたんだよ。それから、いつの間にか住み着いちまった」

「住み着いたって・・・動物じゃないんだから」

「でも、似たようなものだ。
どんどんお前の荷物が増えていく。
そのコップも、お前のだし、あっちはお前の部屋だよ。
最初もっと狭い部屋だったんだけどな。さすがに一つの部屋で二人というのは不健全だから、引っ越したって訳だ」

そっか。俺、勝手に住み込んだのか。その俺の部屋であろうところを見ると、不在だったせいか、ちょっと汚い。もうちょっときれいにしないとな。
俺がせっせと片付け始めたら兄さんはちょっと寂しそうな目つきになる。

「何か・・・変?」

「いや、片付けようとすると、いつも『これは俺のベストな状態なの』って怒ってさ。いつもこうなら嬉しいんだけどな」

笑いをこらえているのがよく分かる。俺はふてくされて片付けに熱中した。


あの時の兄さんの瞳を忘れて・・・また何かを隠したことに気づかずに。





「終わったか?茶にしよう」

悪戦苦闘した俺を見かねて、兄さんは俺に休憩を勧めた。

「はぁ・・・俺ってば、整理整頓が苦手なのね」

やっとお片付けがキリのいいところまで進んだので、俺もへとへとだった。
苦痛になりながらやっていたということは、本質はあまり変わっていないらしい。うん、俺、これからは努力しよう。

「まぁ、今回は例外じゃないのか?普段はもっときれいだったよ。時々汚くなるんだわ。
そうだな・・・何か思いつめたことがあると汚くなるみたいだな

・・・あの時もそうだった・・・」

あの時?俺が・・・思いつめていた?何を?

「大方成績のことだったんじゃないか?」

またはぐらかした。
兄さんは俺のことで何か隠している。
恐らく俺が思い出してはいけないことなのだろう。
気がつけば視線が注がれている。
しかしそれは俺宛のときもあれば『俺を素通り』しているときも多い。
なぜか俺を見て寂しげな瞳をすることが多い。

兄さんは俺を好きだったとか?それで俺がどうやって断ろうかと思いつめていたとか。

俺の記憶喪失が心因性によるものならば、それが原因ということも大いにありうるし、過去の俺ばかり見ている説明もつく。
でも、やっぱり自意識過剰だな。俺は兄さんの話に合わせた。

「あぁ・・・テストはどうしても嫌だよね・・・」

乾いた笑いを浮かべながら窓際を見やると、そこには花が一鉢あった。偶然というべきなのか、皮肉といえばいいのか、そこには・・・

「ワスレナグサ・・・?」

小さい鉢にちょこんと植わっている、青くて可憐な花。男だけの空間に彩と、ほんの少し無常観を漂わせてくれる。
記憶喪失の俺と、ワスレナグサ、どうしてか無関係に思えない。



「あぁ、俺の大事な人からもらったんだ。俺を好きだと言ってくれた奴だったよ」


「その人と・・・付き合っているの?」


彼からその言葉を聞いた途端、胸が締め付けられた。俺は、あなたの一番ではなかったの?
ショックを受けている自分に気づく。しかしそれは表に出さずに済んだ。俺は弟なのだ。

「いや。俺が・・・振っちまったんだよ。告白されて、びっくりして、ひどいことを言ったんだ。そのときもらったよ・・・




『この気持ちがあなたの負担になるのなら、自分が言ったこと、忘れてください。自分も、この花のようにきれいに忘れるから・・・』




あの時のあいつの表情と言葉・・・今でも頭に焼き付いて・・・忘れられないよ」



そのときの彼の顔、俺は一生忘れないだろう。

「その人、自分の気持ちを忘れてもいいから側にいてほしかったんだろうね。
その人が好きなら・・・仕方ないのかな。
でも、好きな人にそんな気持ちを忘れられるのってどういう気持ちなんだろう。
それを選んだその人の気持ちは・・・?」

「ははは・・・『お前も』勘違いするか・・・やっぱりそういうものなのか。違うよ。勿忘草の意味は、『私を忘れて』じゃない・・・





『私を忘れないで』





だ。あいつは確かに自分の言葉は忘れろと言った。
その言葉は嘘じゃないんだろう。その位俺だって解る。
でも、俺はあの時の言葉よりも、その花に託された想いのほうが真実なのかもしれないと思っている。
あいつはどんな気持ちでそうすることを選んだのか・・・選ばなければならなかったのか。
考えてみてやっと俺の愚かさが解った。だから俺は忘れることが出来なくなった。


・・・いや、忘れてはいけないことに気づいたんだ・・・」

「兄さんはその人のことを・・・」

「・・・・・」

哀しそうに笑っただけで答えなかった。でも、それが答えだった。





それから彼はこの花の由来を説明した。
悲しい話だった。ドナウ川で語り合っていた男女。
青年が花を手折ろうとして川に落ち、激流に飲まれた。
彼は摘んだ花を女性に投げ『僕を忘れないで』と叫び、消えていった。
女性はその彼のことを忘れないよう、『勿忘草』と名づけた・・・。





また胸が痛む。
その人は言葉どおり忘れたのかもしれないけれど、兄さんはその人のことを想っているから。
その相手は、分からない。
少なくとも俺ではない。考えてみたら、兄さんが弟である俺を好くはずがない。
ここである女の人の顔が思い浮かんだ。兄さんが好きなのは・・・それでこの胸の痛みに説明がつく。俺は気づいてしまった。実の兄に恋してしまったことを・・・。



ソシテ、ソレガトコシエニ封ジ込メ、ワスレサラナケレバナラナイ想イデアルコトモ。



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