「そうか・・・気づいてたのか・・・悪かったな。お前に辛い思いをさせちまったな」
亨のこんな苦しげな顔を見たのは、初めてだった。自分の知る兄は落ち込むときもあるけど、いつも笑っていて、そんな兄が大好きで。こんな顔をさせているのが自分であることを知り、胸がつぶれそうなほどに痛む。
「本当にごめんなさい。俺、兄さんのこと好きだし、兄さんが望むなら、セックスだってしてもいいと思う・・・でも・・・でも・・・」
「あいつを、好きになったんだな」

自身を責め続け、泣きじゃくる弟を見ると、優しい気持ちになれる。こんなところも好きなんだよな・・・春樹に見られないように、自嘲的に笑う。
「最初は・・・兄さんから離れるためだった。俺に恋人ができたら、兄さんは安心すると思った、思いたかったんだ。でも、それとは関係なく魅かれていって・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい!何でもする。だから、許して!俺を嫌いにならないで!」

春樹が恐れているのは、亨が自分を嫌うことだった。押し倒されて、浮かれてはいたものの、よく考えたら嫌いになった男を抱きたいと思うはずがないのだ。どうして自分を抱くのか?その疑問が渦巻いてくる。喧嘩する前なら大人しく身を任せていただろう。しかし、今はそんな状況にはない。ずっと相手にしてくれなかった兄がこうやって押し倒している。その意味するところは、復讐?自分が恋人を作ったから?それだったら悲しい。
「嫌うわけ・・・ないだろ。どんなにお前が俺を嫌いでも、俺は春樹を嫌うことなんてできない・・・」
嫌うわけがないという言葉を聞いても、心は晴れなかった。亨が見せたのは、疲れたような笑みだったから。
「嘘・・・だ!だったらどうして無視したんだよ!どうして家出したんだよ!」
数日独りで過ごしているうちに溜まってしまった想いが一気に爆発した。嫌いだったらそんな素振りを見せないで欲しかった。あからさまに避けてくれたから、春樹の心はぼろぼろだった。好きである気持ちと自分を捨てた亨に対する憎しみが、亨を目の前にしたところで抑えることが出来なかった。
「大好きな弟から『大嫌い』と言われるのは・・・結構堪えるんだよ・・・」
力なく出てきたその言葉に、自分が何を言ったかを思い出す。そうだ、捨てたのは亨ではなく、春樹のほうだった。
「嫌いじゃ・・・ない。好きだから・・・だからショックで・・・。俺が弘平を選んだのが間違いだと言われてるみたいで・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい!」

何度も謝る弟に、苦しい気持ちが浮かび上がってくる。別に謝ってほしいわけではない。春樹には幸せになってほしかったから諦めたのに。しかし、今それを言ったところで彼はそれでまた自分を追い詰めることになるだろう。春樹はそういう子だ。そういう子に育ててしまったんだ・・・。
「仕方ない・・・な。悪いと思ってるんだな?だったら・・・一回だけ、しよう。勿論、断らないよな?」
我ながら卑怯だ、そんな自分に嫌気がさす。春樹は絶対拒まない。優しい少年が拒めるはずがない。もともと彼だったら抵抗しないのかもしれないが、特に罪悪感で崩壊しそうな今は、亨を全て受け入れるだろう。そのくらい計算済みだった。
「兄さん・・・?」
そうであっても春樹は戸惑っていた。自分がどういう立場にあるか、分かったのだろう。考えてみたら、それが普通である。
「何でもするって、言ったよな?」
止めの魔法を放った。平気で言える自分に吐き気もする。偽悪的に言うと、春樹は案の定「わざと」であることに気づいて首を縦に振る。
「兄さん・・・それで俺を許してくれる・・・?」
兄に許しを乞おうと必死になろうとしていることが、よく分かる。本当はこんな搦め手は使いたくはなかった。彼の意思で「抱いてほしい」と言ってほしかった。本当はこんな形でのセックスは亨も望んではいない。後味が悪くなるだけだ。しかし、こうでもしないと春樹は自分自身に押しつぶされるだろう。許せ、弟よ、そう思ったところで電話がなる。無視しようと思ったが、切れる気配はなく、仕方なしに出てやると、相手は倉科だった。
「あ?もしもし?今いいところなんだから邪魔すんな!」
『仕方ないだろう?沙耶くんが家で独りだから来てほしいんだよ』
「家族は?それに、お前が」
『父親は学会、母親はこんなときに旅行。二人でいればどういう噂が立つかは分かるな』
「そんなのは知らん。勝手に噂を立てればいいだろう」
『てか、今玄関』

春樹ではなく、亨のほうが押しつぶされるところだった。
「くそっ、いいタイミングで邪魔しやがって」
春樹のためでなく、本気でその気になっていたため、容赦なく壁を叩きつける。
「そんなに怒らないの。俺はずっと待ってるから」
本当に抱いてしまおうかと思ったが、その言葉で気持ちも落ち着いた。春樹は春樹の人生を送るべきだ。自分が余計な手出しをしてはいけない。
「春樹?もしお前が本当に俺に申し訳ないと思うのなら・・・幸せになれよな。俺に幸せだってこと、見せてくれよな・・・。ま、本当に欲しくなったら言ってくれれば俺も優しくするから。本当にお前が欲しがるなら、だけどな」
大好きな兄の心からの愛を受け取って、癒えるはずがなかった春樹の傷がふさがっていく。この人が兄であってくれて、本当によかった。そして、この人が兄でなければよかったのに・・・矛盾したことを同時に思う。兄を困らせたくないから言えないけれど、やっぱり世界一大好きな男だった。今更気づくなんて自分も馬鹿な男だ。
「うん・・・ありがと」
そんな気持ちを隠して見せたのは、それこそ数日振りに見せた、亨を虜にしてしまった笑顔だった・・・。そして亨はちゃんと付け加えておく。
「涙は拭いておくこと。じゃないと俺が殺される」

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