そんな出会いもあってか、亨も暇があれば無償で家庭教師をするようになった。倉科が言語全般を得意とするのに対し、亨は経済社会全般を得意とするため、もしよければ、という沙耶のお願いを二つ返事で引き受けたのだ。
「亨さんって経済得意なの?」
「んー、得意だけど、実は好きじゃない。俺は学問よりも、実際の企業の動向とか、そっちのほうが好きなのよね。だから、社会の教科書よりも新聞読んでるほうが多いよ。学問ってさぁ、堅苦しいんだよ。教科書ってどうしても学者さんが書いてるから、参考にならない部分ってあるのよね。あ、でも新聞も鵜呑みにしちゃだめよ?記者の勇み足も多いからね」
好きであることと得意であることは別物である、亨がそう付け足すと、沙耶は納得した様子を見せた。思い当たる節があるのだろう。
「ってことは、亨さんは社長を目指してるの?」
「そうねぇ。それなりに野心はあるかな。でも、俺としては平凡に暮らしたいわけ。そのためには経済問題にも精通しておく必要があるわけよ。あいつは教師になるみたいだからそれでいいけど、俺みたいな奴はそういう世の中の仕組みを知っておきたいのよ」
「亨さんの野望は?」
せめて将来の夢といってくれればいいのに。しかし、沙耶に映るのは、野心に燃える亨なのだろう。沙耶の顔に正直にそう書いてあり、亨が苦笑しながら白状する。
「俺様の野望は春樹とラブラブな人生を送ることだったの。べつに贅沢じゃなくてもいい。のんびりと茶をすすってほのぼのとしたかったの。そんで、あの子を俺なしじゃ生きていかれないように・・・でもなぁ、恋人さんが出来ちゃったから、その野望は叶わぬ夢に」
「んー・・・春樹、亨さんなしじゃ生きていけないと思う」
「ありゃ?春樹のこと、知ってるの?」
「宗像って珍しい苗字だから、ひょっとしてと思ったけど、やっぱり兄弟だったんだ。もともと僕らは友達だけど、ブラコンで有名だよ。結構顔はいいんだけど、振られると分かってるから、みんな告白しないの」
「でも、柊クンは告白しやがったけどな」
憮然として言う亨に一瞬だけ沙耶は悲しそうな顔をした。同情でもしたのだろうか。
「うん。彼らが付き合っているのは有名だから。あの柊くんでも無理というのが一般の見方だったから、どうやって口説き落としたのかって、みんな言ってる。でも、春樹、亨さんのことしか頭にないよ」
「あぁ、そーなの?でも、彼の場合、俺に対する罪悪感が半分以上なのよ。俺のこと、傷つけたって自分を責めて・・・俺に許されるためだけに身体をささげようとして・・・馬鹿みたいに優しい子なんだよ」
淡々と話す亨の瞳には、愛しさと、ほんの一握り哀しさを宿していた。
「それで・・・?」
「ほんとは俺も春樹も望んでいる形でしたかった。他の子ならまだしも、俺だって軽い気持ちで弟とする気はない。でもな、もしあそこで俺が制していたら、もしあそこで俺のために自分を傷つけるのはやめろって言ったら・・・」
ここから先は言いたくなかった。思うのは勝手だが、口に出すとなると自分の思い上がりでしかなくなる。それでも・・・わかっていても、口に出すのは止められなかった。
「多分、それで自分を責めるんだよ。鈍感に見えて、あの子は人の気持ちに敏感だ。俺があの子のためにすればするほど、春樹は自分を傷つける。だったら・・・抱いてしまえばいい。もし望んだ結果にならなくても、恨みの矛先は俺だけになる・・・」
俺が恨まれるには何も問題はない、今のその気持ちは本当だった。亨にとって辛いのは、春樹が自身を追い詰めることだった。そこまで思ってから沙耶の反応を待った。沙耶はしばらく考えてから口を開いた。しっかり考えてから言うべきことだと察したのだろう。
「その、これは春樹の友達としての考えだけどね、春樹は絶対拒まないよ。そんなネガティブな理由じゃなくて、求めているのが亨さんだから。亨さんが求めるなら、春樹は喜んでそれに応えるよ!」
どうしてか必死になる沙耶を、不思議に思う。
「どうして・・・沙耶ちゃんは、そこまで俺と春樹の応援を?」
彼は即答しなかった。悩んでいるわけでもなかった。ただ苦しそうで、彼自身何か理由があるのだろうが、亨はそれを聞き出すことが出来ず、ただ答えるのを待つことしか出来なかった。
「友達だから・・・友達には幸せになって欲しいから」
吹っ切ったように笑顔を見せる沙耶に、どうしてか寂しい気分を感じたが、気分を転換することにした。
「でも・・・これでいいのかもな。俺も新しい野望を考えないと・・・」
弟を想うその瞳は一気に失せ、悪戯を考える少年のようなそれに変わる。しばらく考えていたが、浮かび上がるのは春樹のことばかり。いくらなんでもそれはまずいだろう。急いで妄想を頭から振り払い、優しい家庭教師の先生風の空気を身にまとった。
「でも、そういう野望って考えようとすると思いつかないんだよな」
「あ、分かるような気がする。いいアイデアって突然思いつくんだけど、家に帰ると忘れていることって多いよね。だけど、後から同じことを考えようとしても、なかなか思いつかないの」
「それそれ、そういう感じ。分かってくれる?みんな笑って『お前、痴呆か?』って言うんだよな」
「そうそう、僕も言われる」と沙耶が言うと、亨が爆笑し、それに釣られて沙耶も吹き出す。本来の目的だった社会科の勉強も忘れ、二人は日の暮れるまで語らいを楽しんだ・・・。

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