「それはそれは・・・災難だったな」
「そう言いながらも笑顔全開な倉科くんであった、ちゃんちゃん。あれから春樹にこってり絞られたよ・・・『兄さんの馬鹿馬鹿』って。もう三日も口聞いてくれない」
「そりゃ、大好きな亨兄さんが危ない目にあったときに泣きじゃくってしまったのが悔しいからだろう。あと数日は覚悟することだな」
「あーん・・・倉科ぁ・・・」
「いい子いい子・・・」

「何拗ねてるんだ?」
ここ何日か、春樹の機嫌は悪い。弘平も沙耶もいるのに、彼らの目の前で抱きついて泣いてしまったからに他ならない。しかし、本当に恐かったのだ。観覧車が動くまでの間、生きた心地がしなかった。そんなことはあるはずないのに、亨を失ってしまいそうで恐かった。それなのに、中から出てきた当人たちはけろっとしていた。それが腹立たしかった。少し拗ねるだけで、そのうち許してやろうと思っていたが、そんな気も失せてしまった。
「え?ちょっとは恐がっていたっていいじゃない。なのに、俺のほうが心臓つぶれそうで馬鹿みたいじゃないか!榎木も榎木だよ」
怒りの矛先を沙耶に向けたかったのだが、困ったことにそれが出来ず、沙耶に向くべき分まで亨に向いてしまったのが真相でもある。
「いや・・・こういうのって万が一がないように二重にも三重にも安全対策が施されてるはずだから・・・。それに、亨さんがいてくれたし」
ちゃっかりと付け足すのを聞いて、春樹の心が重くなる。最近亨と沙耶が親密だ。どこをどうして知り合ったのかは不明だが、彼の親友が関っていることは事実。引きこもりではないとはいえ、いつも家にいることが多かった亨がここ最近は出払っていることが多い。無償で家庭教師をしているみたいで、家にいても沙耶の名を耳にすることが多かった。相当彼のことを気に入っているんだな。沙耶も亨のことを気に入っているみたいだし、二人が恋人同士になるのも時間の問題だろう。そうなったとき、自分は笑って二人を祝福していられるのだろうか。
(ってどうしてそんなこと思うんだよ。俺には関係ないじゃないか)
沙耶がはにかんで亨の話をすると、もやもやとした気持ちになる。亨が楽しそうに沙耶のことを話していると、胸が締め付けられる。
(俺には関係ない。俺には・・・関係ない!)
そんな気持ちを無理して振り払い、春樹は二人の親友との会話に戻った・・・。

「兄貴・・・何ふて腐れてるんだ?」
ご機嫌斜めの亨に、仕方なく秋良が声をかけた。亨は明るいか暗いかのどちらかであることが多いので、こんなときの彼は相手にしたくないというのが本音である。
「あぁ、ここ一週間春樹が相手にしてくれない」
そのうち何もなかったかのように声を掛けてくれると思っていたが、その考えは大いに甘かった。一週間かかっても春樹の怒りがとけることはなかった。彼の怒りの本質がどこにあるかは知っているつもりだ。弟の忠告を聞かなかったことではなく、心配させたことに対して怒っているのだろう。
「ま、そりゃ、当然だな。春樹ばかり心配して、肝心の兄貴がけろっとしてるんだから。心配していた自分が馬鹿らしくなったんじゃないか?」
「いや、それは解るんだけど。どんなに謝っても許してくれないのよ?」
「今度こそ春樹に嫌われたな」
ぐさーっ。刃渡り20cmの包丁一突き、そんな気分だった。あぁ、俺、今度こそ嫌われたのね?そんな気分を隠すことが出来なかった。
「いや・・・冗談だから。本気にとるなよ?春樹が兄貴を嫌うはずが・・・」
身体中から冷や汗を流し、秋良が言葉を継ぐ。嫌な予感がしたのだ。
「そうなんだな。こうなったら家出してやる・・・家出だ家出!」

「で、勢い余って家出してしまった、と」
突然転がり込んできた親友にどういう対応をすればいいのかと倉科は思う。煙たく扱うべきか、歓迎するべきか。
「あはは、俺ってば大馬鹿だ。どうも味を占めたみたいだな」
一度家出をしてしまったせいで家出癖がついてしまったらしい。そんな亨に苦笑する。
「食費は払えよ」
「心配には及ばない。機密費から・・・」
それなら安心だ。倉科は亨が財を溜め込んでいることを知っていた。それを切り崩すのだから、相当の覚悟があるらしい。しかし、やっぱり忠告しておくべきか。
「これは親友としての忠告だが、逃げていたら何も解決はしないと思うぞ?」
「あぁ、そんなのは解っている。でも、今回はとても怒っているのだよ。いくらなんでも無視することはないだろう。嫌いなら面と向かって嫌いだと言えばいいんだ」
「ったく・・・そりゃ、泣きついて来いとは言ったけどな・・・」
深く深く彼はため息をついた・・・。

「兄さんが・・・家出・・・?」
秋良から告げられた一言に、春樹はかばんを落として固まる。
「どうやら、お前に嫌われたと思い込んだらしい」
「兄さん・・・それで俺が謝るのを待っているんだね?許さないから・・・」
ふつふつと怒りが込みあがる。いつもだったら申し訳なく思う彼でも、今日ばかりは怒りが収まらなかった。
「行ってくる。どうせ・・・倉科先輩のところだよね・・・」

二人してのんびりと茶をすすっていると、チャイムが鳴らずに勢いよくドアが開く。
「兄さん!ここにいるんでしょ!」
何だ何だ?突然の来訪で状況がつかめない亨がのんびりと外に向かう。
「あぁ、春樹か。どうした?」
「知らなかったよ。兄さんってそんなに汚い人だったんだね。家出して俺が泣いて謝るのを待ってるんだろ?でも、謝らないよ。兄さんなんて嫌いだから・・・」
そうか、やっぱり嫌いだったんだな。秋良の言っていることだけでは信憑性がなかったので、こうやって反応するのを待っていたけれども、そこまで嫌われているのなら、もう兄としていい顔をする必要もない。
「あぁ、それならそれで結構だな。そんなに嫌いなら、嫌えばいい。俺もお前を嫌いになればいいだけの話だから。だから、帰ってくれないか?お前の顔なんか見たくないんだよ!」
一瞬泣きそうになったものの、春樹は兄の顔を見ようともせずに帰ってしまった。
「今の、何点?」
「残念ながら、満点だ」
「そうか・・・よかった」
春樹に嫌われたのは悲しいが、これでいいのだ。好きな気持ちを見せて負担に思わせるより、相手を嫌うほうがはるかに楽だろう。
「サービス旺盛だな・・・」
気がつけば倉科に抱きしめられていた。
「特別サービスだ。こうすればお前の顔を見なくて済む」
サンキュー、小声でそれだけ言って、静かに涙を流した・・・。

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