その3

黒沢先生の人気は衰えることを知らない。慣れもあってか・・・入学後すぐに比べれば多少落ち着いたのかもしれないが、休み時間になると、所々で彼の噂話が立つときもある。しかもたいていはほめ言葉である。

「黒沢先生ってカッコいいよね」

「はぁ?お前、目、腐ってんのか?あんなヘタレのどこが・・・」

「優しいじゃない!あんたとは大違い・・・」

「あんなおっさんの・・・」

前の席で、中学以来の友達の広川と、女子が言い争っている。二十代の男を「ヘタレ」もしくは「おっさん」呼ばわりするのもおかしいとは思うのだが、対抗意識のあらわれということが解ってしまい、臼井は心の中で苦笑する。
他人の会話に耳を傾けることはあまりなかったが、『黒沢』の名前に反応してつい聞き耳を立ててしまった。


「臼井くん、黒沢先生ってカッコいいよね」

「臼井、黒沢はおっさんだよな」

論争はとまることはなく、エスカレートしていきそうだ。このまま聞いていれば・・・いやな予感がする。
その話が飛び火しないように寝ようとしたものの、同じタイミングで振り向かれ、それは叶わなかった。人に話題を振るな・・・そう言いたかったが、二つの殺気を前に苦笑いをするしかなかった。
しょうもない話のような気もするが双方とも一人でも多く味方をつけたかったようで、間違った選択をすると、冗談抜きで殺されそうだ。
ちなみに、ここでベターなのは、女子に同意しておくことである、賢明な臼井はそれくらい解っていた。レディファースト以前に、世の中女子を敵に回しては生きていけないものである。


それに、広川のはあくまでも私怨(?)であって、クラス全ての男子が黒沢に嫉妬、いや、敵意を抱いているわけではない。いい男だからこそ・・・という心理も働いているのだろう。
本当に「ヘタレ」とか「おっさん」とか思っているのなら、意識しなければいいのである。

とはいえ、女子についても広川がかわいそうな気もする・・・残酷にはなれない臼井は、二人に巻き込まれ、ため息をつく。



「おっさんだなんて・・・失礼な話だなぁ」



突然声がかかり、広川が凍りついた。いつ来た?そう思ったが、周りを見ると笑いを殺しているのが一目瞭然だったため、相当前から来ていた事になる。
ふと時計を見ると、すでにチャイムも鳴っていたようだ。だったらもう少し早く声をかけてくれればいいのに・・・臼井は、人の悪い担任を恨んだ。


「まぁ、否定はしないけどな」

あっさりとそう言ってしまい、広川が吹き出した。

「お前ら高校生からみれば、二十代後半は年寄りだろう」

本人が認めたため、二人の論争は一気に決着がつく。一触即発の空気も、だいぶやわらかくなったのでほっとしたが、黒沢に『臼井はどう思う?』と聞かれ、答えに詰まったことは、言うまでもないことだった。





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今日の放課後はいつもとは気分が違った。気分が悪いわけではないのだが、むずがゆいものがある。原因は他でもない。



(そこまで俺はおっさんかなぁ・・・)



どうでもよさそうなことを黒沢は真剣に悩む。臼井が答えてくれれば納得できたのかもしれないが、彼が教師を気遣ったのか、友人を気遣ったのか、答えることはしなかった。
感情を表すのが苦手そうな少年のことだから、それについて文句を言うつもりはなかった。ただ広川のより、臼井の評価が知りたかっただけだった。

周りからは大人びているとか、枯れているとか、「オッサンくさい」とかは言われているが、直接「おっさん」扱いされたのは、初めてだった・・・気がする。
この場合の「おっさん」は広川にとっては大した意味はないのだろう。おそらくただの対抗意識であることはわかるのだが、黒沢にとっては胸の奥底にあるものをつつくものだった。




『先輩は、オッサンくさいです』



かつて後輩に言われたことがある。文芸部時代、店頭に並んでいる帯つきのハードカバーよりも、図書室の奥底に眠っていそうな、手垢のついた文庫本を好んで読んでいたのをからかわれたのだ。

『まだ俺だって若いんだけど。お前には及ばないけど、まだ肌にだって張りがあるだろう?って、そういう問題じゃないか。とにかく、誰も振り向きそうもないものから、一つの本を見つけた喜びは・・・別に年は関係ないだろう』

『それがオッサンくさいんです』

即突っ込まれ、黒沢は苦笑した。

『そうかもしれないな。でも、俺自身はそういう考えは好きだよ。人との出会いも似たようなものじゃないかな』

『先輩・・・いくらなんでも本と人を一緒にするのは・・・』

突発的な思想に、その後輩がため息をつく。しかし、その瞳はきらきらと輝いていて、続きを催促しているようだった。

『何万冊の中から一冊を見つける確率ってかなり低いんだ・・・つまり、偶然には見えても、ひょっとしたら必然なのかもしれない』

そこで黒沢は一冊の本をとる。

『今俺は例えるために、無作為にこの本を取った。でも、こうやって取ったことにも、何か意味がある・・・俺はそう思いたいんだよ。
不思議だと思うんだけど、物言わぬ本でも、読んでくれって言っているような気がする時があるんだ・・・それと人との関係は・・・まぁ・・・』


しばらく頭をかき、照れくさそうにこう言った。

『自分にとって最高の存在に出会ったときの嬉しさが半端でない・・・というところかな』

『先輩・・・そんないい出会いをしたんですか・・・』

羨ましそうに年下の少年が言う。しかし、対照的に黒沢の表情が苦しそうなものとなったことを、少年は気づいていたのだろうか・・・。



(そんなことを思い出すなんて・・・懐かしいな)



忙しさで忘れてしまった過去が鮮明に脳裏によみがえった。どうやら黒沢の『おっさん』としての人生は、高校時代が発端らしい。
あのころはよかった・・・などと思うようになるのは、自分が年寄りになりつつあるということなのだろうか。そう考えると、大して変わっていないという事実に気づき、独り苦笑する。


(あいつは今頃・・・どうしてるかな)

ふと、黒沢が一番可愛がっていた後輩に会いたくなった。その彼が高校を卒業してからずっと会っていない。今何をしているかは解らない。しかも、その別れ方が苦いものだったため、会うこともできなかった。

(それ以前に・・・俺には会いたくないか・・・)

泣かせてしまうまでに傷つけてしまった後輩を思い出し、嘲笑した・・・。




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