その4

さすがにクラス担任、しかも、ひとつの大きな階段を上がりたての高校一年を担当するのは疲れる。
まず何よりも、新しく生徒の顔を覚えなければならない。分別のつく年頃ではあるが、担任である以上はある程度のことは教えてやらないといけない。
それに、いろいろとやることがある。そんなこんなで残業が続く。まぁ、これは可愛い教え子のためだと言い聞かせ、しばらくは頑張っていた。
しかし、ある程度時間が経つとそれは限界に達するもので、金曜日の夜、彼は久々にビールを買って帰宅する事になる。
弱くないとは言え、黒沢は付き合い程度にしか酒は嗜まないが、今日は無性に飲みたい気分だった。
教師も辛い・・・と、珍しく愚痴をこぼしながら帰宅すると、ドアの前に一人男が立っていた。
黒沢よりも少し背が低く、ほんの少し童顔のように見える彼は、スーツ姿で立っている。




「啓先輩、お久しぶりです」



数年ぶりに聞くその声。多少は大人にはなったけれどすぐわかるそれに、甘くも切なかった想い出がよみがえる。
自分が根っこから枯れてしまう原因を作った、そして、自分が教師になるきっかけになった、一人の後輩・・・久しぶりに会いたいと思っていたが、実際に会ってしまうと、嬉しさと一緒に戸惑いも生まれる。




「千草、久しぶりだな」



それでも懐かしそうに彼はその青年、周防千草の頭をぽんぽんと叩いた。
別に何か意識したわけではない。昔の習慣で行ったそのしぐさに周防が小さく震えたような気がしたが、黙殺してやった。
それよりも、今になって現れたことのほうがはるかに重要だった。二度と会いたくないだろう、彼はそう思っていたから・・・。






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どちらも男ではあるが、かつて黒沢と周防は恋人同士だったことがある。周防は文芸部時代の後輩で、かなり親密だった。テスト前には勉強を教えていたこともある。
彼の『先輩は先生に向いています』という一言によって、黒沢は教師を目指したくらいだ。きっかけはそんなものではあるが、現在は自分の職業に誇りを持っている。

告白したのは、黒沢のほうだった。常に安全な選択をするようにしている彼にしては、珍しいことだった・・・というよりも、黒沢にとって周防はそれだけ大切な存在だったというべきなのかもしれない。
自分にない純粋さを持った彼に極々自然に惹かる。周防を好きになったことに対する後ろめたさはあまり持っていなかったが、それを開き直ることができるほど図太かったわけでもなく・・・悩まなかったわけではない。

それでもある日限界に達してしまった。自分の気持ちを知らずに懐く周防の笑顔が苦しかった。
だから振られることを覚悟で告白した。しかし、不思議と周防は拒まなかったので、付き合う事になった。
その関係は周防に告白した後、黒沢が卒業しても続き、周防が高校を卒業するまでの二年間近く続いたが、ある日突然破局した。



それは周防が卒業式を迎えた日だった。二人とも違う大学への進学だったため、だんだん会う機会がなくなる。
本来は年下の恋人の門出を祝ってやらなければいけないのに、素直におめでとうといえない・・・そんな感傷を胸に抱えて外で待っていた黒沢に、泣きながら『別れてください』と言ったのだ。


もちろん、黒沢に別れる気などなかった。自分でも滑稽だとわかるくらい引き留めた。
彼がそばにいてくれるのなら、どんなに情けなくともよかった。それでも周防は首を縦に振らなかったので、表では笑って別れてやったが、心の中では後悔していた。
自分のせいでここまで傷つけてしまった・・・別れたことそのものよりも、そちらのほうが痛かった。笑顔が好きだったのに、その笑顔を曇らせた自分が嫌だった・・・。



もともと黒沢は面白みのない人間ではなかったが、つまらない人間に思われるようになったのは、それがきっかけだった。何をやっても面白さを感じなくなってしまったのだ。
だが、時間は平等に過ぎていく。大切な想い出も、身を斬るような想い出も、残念ながら多忙な生活の中に埋没していき、彼にとってそれはいつの間にか過去になってしまっていた。
周防を見ても、胸が痛まない・・・が、浸っている場合ではなかった事に気づく。わざわざ嫌いな男のところで待っていたのだから、理由が存在するはず。
ただ懐かしいから・・・なんてことは、ないはずだ。彼は部屋の中に周防をあげる・・・。






彼が夕飯を食べに来たわけでないことは明白だったが、黒沢はキッチンで夕食をこしらえていた。
こうやって会いたくない男に会いに来たのだ。落ち着いて食事をしてからのほうがよい。
外では暗闇で解らなかったが、よくよく見ると彼は思いつめたような、それこそ、別れを告げるときみたいな顔をしていた。




「先・・・輩・・・」



弱弱しい声が聞こえたので、振り返る。

「どうした?何かあったか?」





「抱いて・・・ください・・・」




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