その6

世の中とは上手くいかないようにできているものである。
機会がないから・・・と自分の中で完結させると、すぐ後に機会は訪れてくれるものである。臼井はため息をついた。
たまたま、何も意図せず、授業中余所見をしたせいで、件の教師に見つかってしまった。
余所見を否定したところ、質問に答えられず、話を聞いていなかったのが分かってしまった。そこは穴埋めではなかった・・・真面目に受けるという誓いを破った自分を咎める。
せめてもの幸いが、黒沢が常に目を光らせていたわけではないことだった。放課後教材室に来るように言っただけで、あっさりとその話題は終わってしまい、そのまま授業が進んでしまった・・・。




(しかし・・・どうしたものか)



これで黒沢と二人きりになる機会が出来てしまった。聞く機会がないから他人事にしていたし、本人もそれには問題なかったが、聞く機会があると、やはり気になってしまうものである。
無理やり封じ込めていたから、なおさら。
しかし、これはプライベートだ。聞いてもいいのか・・・悶々していると・・・またもや黒沢に注意された。






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「おい、お前どうしたんだ?」

休み時間、広川に聞かれ、答えるのに困った。先ほど黒沢に注意されていることを言っているのだろう。
もっとも、彼が不思議がるのも無理はない。臼井は授業中に先生に注意されるようなタイプではない。


「いや・・・別に・・・」

もともとそれをはっきりいえる性格ではない上、理由が理由であるため、茶を濁した。下手に答えたら、詮索される事になる。

「黒沢が・・・苦手なのか?」

広川のほうは、黒沢のことをどうも思わなくなったらしい。

「いや、そーゆーわけでは」

何も思っていないと言えば全くの嘘になるが・・・広川が聞いている意味で黒沢が苦手だというわけではない。ただ、担任であるため、彼には目をつけられないように、人一倍努力していただけである。
それを広川は勘違いしてしまったようだ。


「そうか。呼び出しかぁ・・・頑張れよ〜」

個別で呼び出されて注意されるのに、どう頑張れというのだろうか。楽しそうに絡み、だが、興味を失ったのか、別の話題に移る。それには感謝しつつも、放課後の憂鬱に、独りため息をついた・・・。





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「失礼します」

まるで絞首刑を待つ人のようだ・・・戦々恐々でドアをノックし、声に従い入ると、中で黒沢が待っていた。

「まぁ、座ってくれ」

イスを差し出されたが、担任が座っていないのに、自分が座っていいものかと首をかしげる。しかし、再び促され、渋々と座った。
下手に反抗したら、ブラックリストに入る。そんなことがあれば、平穏な学校生活は送れない。


「呼び出した理由は・・・わかるよな。何か最近注意が散漫になってるような気がするんだが、調子でも悪いのか?」

「いえ、別に」

自分でもそっけないと思うが、その答えしか出なかった。

「そうか・・・健康面は問題ないんだな?それなら・・・先生の授業、面白くないか?」

しかし、怒るわけでもなく、困ったように聞かれたため、返答に窮する。決して彼の授業がつまらないわけではない。むしろ、高校の中では面白いほうだ。
苦手だった世界史だが、彼の丁寧な授業によって、克服されるかもしれない、本気でそう思っている。ただ、今日は運が悪かった、ただそれだけなのだ。


「面白くないならそう言ってくれたほうが、先生としても・・・」

本気で困っている黒沢を見て、申し訳ない気持ちになる。この生真面目な教師を心配させるようなことがあってはならない。
かなりプライベートな話題ではあるが、仕方がないので、無理やりこじつけて原因を話した。




「えっと・・・金曜日、先生が男と出歩いているのを見て・・・」



「深夜の・・・密会ですか・・・」



途端、空気が一気に凍りつく。驚いて固まっている黒沢を見て、彼らしくない言葉に気づいて・・・言い方が悪かったと後悔する。まるでこれではホモの逢引と言っているようなものだ。
これは黒沢と周防に対して失礼だ、慌てて付け足す。昔から臼井は表現の仕方が上手ではなかった。国語の勉強をしていれば・・・と思っているが、そういう問題でもない。


「で、それが従兄で、でも・・・今ちーちゃん・・・あ、これは俺がいつもそう呼んでるんですけど・・・は実家にいるからこっちに来ているのも変で、それ以前に、どうして先生と・・・ちょっとそれが気になっちゃって」

まどろっこしい説明で、頭を抱える。どうしてこんなに自分は口下手なのだろうか?
ちゃんと言いたいことは伝わったのだろうか?
どうせならあの時目の前に現れていればよかったかも知れない、だけどそんなことをする勇気なんかない・・・と思い悩んでいたが、黒沢は解ってくれたようだ。納得した様子を見せる。


「あぁ、見ていたのか。参ったな、千草は俺の後輩なんだよ。ちょうどこっちに来ていて、飲みに行っていたとこだったんだ。俺を慕っていてくれて、彼が『先輩は教師が似合う』と言ったから、教師になったんだよな」

このしっかりしていそうな教師からは想像できなかった。もっとしっかりした目的がありそうだった。
それでも、この難関を突破して教師になったのだから、それだけの努力をしてきたのだろう。自分で聞いておきながら気まずい思いをしていたので、これは話を逸らすにはいいきっかけとなりそうだ。


「どうして先生は・・・世界史を・・・?」

これは黒沢にとってもいいきっかけだったらしい。あからさまではないが、ほっと一息つく。それには多少の不自然さもあったが、臼井は気づかなかった。

「世界史の教師になって何を教えたいか?それでいいか?」

世界史の教師になったのだから、世界史を教える。歴史を教える。しかし、学年や学校によっては世界史専攻でも、日本史や、まれに他の社会科を教えることもあるらしい・・・それが臼井の知識だが、彼が言いたいのはそういうことではないのだろう。もっと、根本的なもの・・・何となく臼井は普通の授業よりも興味を持った。

「最初は不純な動機だったけれど、よく考えてみたら、俺には向いてるんだろうな。こればかりは後付に聞こえるかもしれないけど、それぞれが単独で存在しているわけではないのが面白い・・・先生はそう思っているよ。
特に世界史は色々な国、地域が出てくるからな。

普通は年号と事件だけを覚えるだろう?しかし、その出来事がもしなかったら・・・」

「なかったら?」

「違う歴史になったということ。つまり、その一件だけを取り上げても仕方がないということさ。
ある年にある事件が起きたとする。しかし、その前には何かきっかけがあるはずで、そのあとに何か影響を及ぼしているはずなんだ。
決してそれは単独ではない。流れというものが存在する。音楽だって、映画だってちゃんとつながりがあるから成り立っているんだろう?

それがどんなに血に塗れたものであっても、些細な出来事であっても、それが存在しなかったら、先生はこうしてここに存在しなかったというわけだ」

広川なら極論だ・・・そう言いそうだが、臼井は素直にそれを聞き入れていた。教師としてくどくど・・・というわけではなく、本当に世界史が好きだということがわかったから。だから、自然とそれは少年の心に響いていく。

「もちろんそれは極論だと分かっているよ。そんなこと、考え始めたらキリがないさ。延々と考えても終わらないよ。
過ぎてしまった事に『もしも』という仮定をしたところで、それは仮定でしかないんだ。
でも、関係ないように見えて、それでもどこかでつながっているかもしれない・・・そう考えると、不思議だろう?
こうやって先生と臼井は話していることすら、臼井たちが知っているような何か、偶然だけで片付けられないような何かが作用しているかもしれない。先生はそれをお前たち生徒に教えたいんだよ」


照れくさそうに話した。もはや二人の関係など、どうでもよかった。それよりも、黒沢自身に興味が移った。

尊敬・・・なんだと思う。

醒めた男のように見ていたが、決してそれだけではなかった。しっかりと心から好きで教えてくれていた。
よそ見して話を聞かなかった男のために、自分の想いを聞かせてくれた。そう考えると、臼井の心が温かくなった。そして・・・この場でそれを聞けたことを、どうしてか嬉しく思えた。


「だから、よそ見しないでくれると嬉しいな」

忘れたと思っていたけれど、しっかりと釘を刺してくれた。慌てて頷くと、頭に何かふれたような気がした。確認するまでもなかった。黒沢の大きな手だった・・・。



(え・・・何・・・?)



何の深い意味もないその動作に、一瞬彼は混乱した。ただ子供に注意する親のような意味合いでしたはずなのに・・・それはすごく優しげなまなざしで・・・臼井は小さく心臓が震え、そして、納得する。

(みんな・・・これが見たいんだ・・・)

普段勉強とは無縁な女子が、世界史に限っては真面目に勉強するわけが、余所見をせずにずっと正面を向いているわけが・・・この嘘偽りのない笑顔にあるのだ。勝手に納得していると、黒沢の声が現実に戻した。

「よそ見しないためにも、当面は臼井にプリントを運んでもらうとするか」

茶目っ気たっぷり、しかし、拒否する暇も与えず、完結した。何故か少年は拒否しようなどとは思わなかった・・・。




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