その15

久々の逢瀬―というと聞こえが悪いので、雑用―ということで、臼井の気分は浮かれていた。
口がにやけていたらしく、広川に気味悪がられたが、このあとに黒沢に会えることを考えれば、そんなことはどうでもよかったのだ。

まだこの気持ちを何と言えばいいのか解らない。恐らく、尊敬なのだと思う。少なくとも、臼井の口数を考えて会話をしてくれる教師と一緒にいることは、苦痛ではない・・・いや、違う。
広川には『まだこき使われてるのか』と苦笑いされるけれど、もともと暇だった臼井がその手の仕事を引き受けるのに不自然さはない・・・そんな事実を利用している自分も存在する。
つまり、黒沢のそばにいて心地いいのだ。それなりに口数が多い周防とは違ったタイプで、話はしなくとも、一緒にいて飽きることはなかった。


「失礼します」

いつものように教材室に入り、いつものように腰掛ける。ここは教師のための場所であるはずなのに、気がつけばここが臼井にとって一番落ち着く場所となってしまった。
黒沢はとうの昔に煙草は絶ったらしく、嫌な臭いもしない。二十歳になって禁煙した・・・などと笑い話をしていたのを思い出す。


(かっこ・・・いいよな・・・)

今更のようにその事実に気づく。それは決して派手ではない。身も蓋もない言い方をすると、モデルをさせたところで、埋没してしまうだろう。
しかし、だからこそ存在感があるという、不思議な矛盾が存在する。要は、整っているといえばいいのか。

人は見かけではないとは言うものの、結局のところ見かけは大きいんだ・・・それを思い知らされ、ため息をつく。
もし、どんなに素敵な人でも中年でビール腹の男だったら、ここまで心は動かされまい。


「夏休み、どうするんだ?」

物思いにふけっていたところ、いきなり聞かれ、ドキッとする。それを訝しがられ、『どうした?』と聞かれたが、あなたの顔を見ていましたと言うわけにもいかない。そちらのほうは軽く首を振って誤魔化す。
今の反応で黒沢は自分のことを不審に思っただろう・・・愛想笑いが出来ない自分を恨んだ。


「別に・・・することもないから図書館に行こうかと」

こちらは紛れもなく本心だった。これが夏休み末になると、課題を終わらせようとする連中でいっぱいになるが、ある一定の時期は、かなり空いている。
受験生や、子供達もそれなりにいるだろうが、必ずどこかに開いている一角があるものである。本に埋もれてまどろむのも、悪くはない。そこでいい一冊を見つけるのも、なおさら悪くはない。
そういえば見た目によらず周防も本が好きだった・・・それを思い出す。先輩でもある黒沢も同様だろう。それならどんな本がお勧めだろうか・・・個人的に知りたくもあった。


「それはいいな。本は人を誘うものだ。内容は知らなくても、無性に読みたくなるものもある。
人や学校が勧める一冊を読んでみるのも悪くはないけれど、自分にとってこれだと思える一冊を読んでみるのも価値がある・・・先生はそう思うな」


少し期待していたものの、返ってきたのはやはり先生の口調だ。臼井にはこの絶対的な距離がもどかしくてならない。当たり前のようにその態度をとる彼にも、そして、それを当たり前だと理解している自分自身にも・・・。

「先生は・・・学校ですか?」

「あぁ。教師は結構急がしいんだよな。補習もしてやらないといけないし、時々会議もある。まぁ、お盆くらいには実家に帰れると思うけど・・・」



(当分・・・会えなくなるんですね・・・)



その言葉は心の中だけで言っておくことにしておいた。だが、そこで思いもかけない言葉が黒沢から出てくる。

「寂しくなるな・・・」

え?何ですか?そう聞いてしまおうかと思った。それだけ、耳慣れない言葉だった。最初聞き間違いかと思った。
自分にとってそんな都合のいい言葉が出てくるとは思っていなかった。しかし、すぐに勘違いでないと解った。


「寂しくなるよ・・・可愛い生徒に会えなくなるんだから・・・」

切なそうに見つめられ、心拍数が一気に上がる。勘違いするな!別に黒沢は臼井のことを言っているわけではない。あくまでも生徒全員に対して寂しいと言っているのだ。彼は必死につくろい、やっと返す。

「いえ・・・夏が・・・終われば・・・」

自分の気持ちを納得させるために言ったものであったが、それに返ってきたのは、残酷ともいえる一言だった。

「忘れるところだった。今日はそのことで臼井を呼んだんだ。先生な、今日で臼井に頼むのをやめようと思うんだ」

決して聞きたくない言葉だった。臼井の足元が崩れ落ちていく・・・冗談なんかではなく、本気でそんな気さえもした。
今まで頑張ろうと思ったのは、夏休みが終わればまた黒沢の手伝いが出来ると信じていたからだ。それを否定されれば、臼井の原動力がなくなる・・・そう言っても決して言い過ぎではない。
彼は想像以上に黒沢という男を大切に思っていたのだ・・・それこそ、本人が気づかないくらいに。


「で、でも・・・プリント・・・多くて・・・」

だから、必死で縋ろうとする。教師の命令だからそれに従うべきだ・・・そんなことを思う余裕などなかった。今、その時間を失えば、臼井の中で温めておいたものが、なくなってしまうような気がした。

「だからと言って生徒に頼むことはないだろう?」

「じゃ、じゃぁ何で俺に頼んだんですか・・・!」

「都合がよかったから臼井に頼んだだけだ。それがずるずる続いただけ。本当に人手が欲しいのなら、学級委員にでも頼むさ」

涼しい顔で返され、信じられないほど自分の心が冷えていくのを感じる。黒沢にとって自分はそれだけの存在?ただそこにいたから?そんな言葉を反芻するうちに、自然と怒りが沸騰してくる。




「はは・・・ははは・・・最・・・低・・・です。俺のこと、どうでもいいのなら、最初っから相手になんかしないでください!」




我ながら最低な言い草だと思った。これではまるで、恋人に別れを告げられ、逆切れする奴のようだった。
こういうときは笑って『仕方ないですね』と返事してやらなければならないのに、どうしてもそれが出来なかった。
そんな見っともないところを見せてしまって、黒沢も呆れたことだろう。それを思うと、信じられないくらいに、彼と離れる決意が出来た。


「失礼・・・します」

勢いよくドアを閉め、そして、学校をあとにする。本当は期待をしていた。たとえ教師だからでもいい。自分のことを心配してほしかった。
それなのに・・・黒沢は・・・追ってこなかった。声さえもかけなかった。ただただ落ち着いていて・・・。


(馬鹿だ・・・好きになっても仕方ないのに・・・)

心身ともに力尽き、一気にへたり込み、自分を哂った。今になってやっと、黒沢が好きだと気づいた・・・いや、認めたのだ・・・。

今まで大切すぎて気づかなかった・・・そうしておくことで自分の身を守りたかったのかもしれない。
当たり前のように入り込んできて、そして自分でも自然に感じていて、本来あるはずの境界
がわからなかった。でも・・・その恋は気づいた・・・そして、認めたのと同時に終わったのだ。

傷ついた少年は、ひたすら泣いた・・・。




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