その17
もし、臼井の成績が悪ければ、補習という名目で会うこともできたのに、残念ながら―本来なら教え子の好成績を喜ぶべきなのだが―臼井は世界史の成績はよかったようで、補習のお世話をするわけにはいかなかった。
(いや・・・向こうは拒むか)
教師命令を使えば臼井も従わざるを得ないだろうが、そうもいかない。自分で選んで手放したのだ。これ以上は何を言っても仕方があるまい。
彼のことは頭から追い出し、補習プリントおよび、二学期のプリントの作成に没頭する。独りしかいない教材室に、カタカタとテンポよくキーボードを打つ音が響くが、ふと止まる。
(寂しい・・・な)
夏休みが始まる前までは、この狭い部屋にもう一人少年がいたことを思い出す。
決して口数の多い少年ではなかったが、そばにいるだけで満たされていく自分を感じたものだった。
彼専用にとこっそり調達しておいたティーカップに目をやり、一人苦笑する。
(でも・・・仕方ないな)
過ぎ去ってしまったことだ。臼井のことを頭から追い出し、再び仕事に没頭する。
(ここは・・・)
どう表現したらよいものか。インターネットで検索しかけて、やめた。
インターネットの情報はタイムリーではあるが、その分流動的だ。そして、その情報が必ずしも真実であるとは限らない。検索したらページがなかったということはよくあるものだ。
不安定な情報を提供するよりも、多少古くても確固たる情報を提供したほうがいいだろう。確固としていない最新の情報も必要とする人がいるかもしれないが、それは参考として口頭で述べればよいのだ。
プリントに記す情報を調べる場所として図書室が思い浮かんだが、夏休みのため、開いていないだろう。己の事情で開けてもらうわけにもいかない。
これが私立なら、開いているかもしれないのに・・・苦笑するが、気分転換にはいい機会だ。これ以上は何をやったところで進まないだろう。
幸いこの日は会議もなく、ただ惰性で学校にいるだけだったので、お昼を済ませてのんびりと何を調べようか考えていた・・・。
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街の図書館に行くのは、何年ぶりだろう?それこそ、十年以上も行っていない、それに気づく。
高校まではそれなりに行っていたが、大学になると、大抵は大学の図書館で事足りる。子供から大人まで、という自治体の図書館よりも、大学の図書館のほうが学部に関連した専門書がそろっている場合が多く、講義に必要なものを借りたりコピーできたりと、どうしても大学生にとっての利便性は大学の図書館のほうが上であってしまう。
しかし、たまには自治体の図書館に行くのもいいものだ。少なくとも、高校の図書室よりは、蔵書数が多い。それに、本に埋まってみるのもよい。
本来の目的も忘れ、当てもなく歩いていると、見覚えのある姿を見つける。この偶然を喜んでよいものか・・・苦笑しながらも、彼は少年に引き寄せられる。
「臼井・・・元気か?」
以前いくようなことを言っていたが、示し合わせたわけではない。ただ偶然会っただけだ。しかし、その偶然さが嬉しく感じる。
「はい。先生は・・・?」
「残念ながら先生は元気とは言えないな。成績の悪い奴らの補習をしないといけない。二学期の予定も立てないといけないし・・・少し癒しがほしいな」
本当は臼井の顔を見ただけで癒されたのだが、それは心の中にしまっておいて、ちょこっとだけ付け足しておいた。
「まぁ、久々に図書館にもきたし、いい気分転換になったよ」
「俺は、課題をやってました」
皆遊びまくっているだろうに・・・夏休み早々に課題をやるなんて、実に真面目な少年だ。そんな教え子を嬉しく思う。
「それにしても早いな。先生なんか、いつも夏休みが終わる前に急いでやっていたよ」
「意外です。先生はちゃんとやってそうなのに・・・」
臼井の黒沢に対するイメージは、そういうものらしい。美化されて嬉しくもあるが、むずがゆくもあってちょっと困る。
「もちろん、最初はその努力はするよ。毎年最後まで溜まって後悔することはわかっているんだ。
だけどな、最初のうちはどうしても手が進まないんだ。で、明日、明日、そうやって先送りにしていると・・・」
苦笑いしながら話すと、臼井は軽く笑った。決しておかしかったからではない。
「その気持ち、解る気がします。俺もそんな感じです。家じゃどうしてもやる気にならないから、どうしてもだらだらしちゃって。
それじゃいけないからこうやって図書館で・・・中々はかどらないからちょっと憂鬱だったけど、癒された気がします」
口には出さなかったけれど、『先生に会ったから』と言われたような気がして、嬉しくなった。
「そうか、課題頑張って終わらせてくれよ。ところで・・・今忙しいのか?」
ふと、別れるのが惜しくなった。ちょっと話したら、自分の調べ物に移ろうかと思ったけれど、元気そうな臼井を見て、それが出来なくなった。
「いえ・・・別に今日やらなくてもいいし」
「そうか・・・ちょっと暑いし、先生はのどが渇いたと思うんだけどな」
それは賭けだった。自分が突き放した以上、臼井がそれに乗るとは思わなかった。
「俺は別にのどは渇いてないけど・・・朝からいるから、ちょっとおなかがすいて」
しかし、彼は乗ることを選んだ。お互い顔を見合わせて、くすりと笑う。つまり、合意の印だった。
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「しかし・・・本当に暑いな」
大して汗は流していないようだが、相当暑いらしい。珍しく黒沢はうなり声みたいのをあげていた。
夏だから暑いのは仕方ないでしょう?臼井は突っ込まないでおいた。全くの同感だったからだ。確かに暑い。めちゃくちゃ暑い。夏だからと片付けてしまうのには暑すぎた。
地球温暖化の影響か・・・そう思ったところで苦笑する。隣に教師はいるが、今は夏休みなのだ。学術的な話をする必要はない。
「たしかに・・・そうですね」
としか言う気力もなかった。
「まぁ、暑くなっていることは確かだ。環境白書の話では、20世紀中平均気温では0.6℃前後は上がっている話だし。産業革命以降上がり続けているから、実際にはもう少し上がっているだろうな・・・って、暑い中こんな暑くて堅苦しい話はしなくてもいいだろう」
本人は止めてほしかったらしいが、臼井は説明に聞き入っていた。
環境問題と歴史は密接に関係があるのかな・・・そう思っていたことも確かだったが、実際のところは、黒沢が話すことなら、何でも聞きたかった、こちらのほうが大きかった。
とはいえ、せっかく二人でいるのだから、少しだけ教師と生徒を逸脱しても構わないだろう、そう思ったことも事実だった。
特に、学期末では気まずくなっていたから、声をかけてくれないだろうと思っていたので、多少浮かれていた。話すチャンスが見つからなかったから、偶然でも会えて、本当によかった。
「考えてみたら・・・こうやって歩いていて大丈夫なんだろうか・・・」
夏休みではあっても、彼らの間には教師と生徒という関係がある。二人でいるところを他の生徒に見つかったら・・・黒沢はそんなことを考えたことがあるのだろうか。
残念ながら、臼井はただ会っただけだと開き直れるような性格ではなかった。そして黒沢はそんな臼井の性格を知っていて、優しく返す。
「大丈夫だろう。ただ偶然図書館で会って、食事をするという、一致した目的で動いているだけだ。それとも・・・先生と一緒にいるのは嫌かい?」
もちろん、嫌なわけはなかった。それに、強引に言い訳をしている黒沢を見て、自分と似たような気がして、嬉しかった。
堂々と開き直るような性格の持ち主だったら、惹かれなかったかもしれない。実は臼井はこの常識人なところも好き・・・いや、気に入っていた。
「嫌だなんてそんな・・・」
「そう言ってくれてよかった。勢いで誘ってみたものの・・・先生はちょっといけなかったかな・・・と思ってたんだよ」
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