その19
今日はいつもよりたくさん会話をしたような気がする。
もともと口数の多いわけではない臼井であるうえに、黒沢もよく話しそうに見えてあまり授業以外の内容を口にすることはなかった。
だから二人でいると沈黙の時間のほうが多いのだ。
決してそんな時間が嫌いなわけではないのだが、こうやって話すのも・・・たまには・・・いい。知っているようで知らなかった黒沢を、ほんの少しだけ知ることができた。
「今日は・・・せっかくの勉強を邪魔して、済まなかったな」
清算を済ませ、外に出たところ、気まずさ半分、照れくささ半分の顔をして黒沢が謝ってきた。
これは額面のほかに、『自分が突き放しておいて・・・』という意味もあるのだろう。
もちろん、謝られることではないと思ってはいるが、だからと言って『先生に会えたからいいです』と言うのも、臼井には合わないような気がした。
「先生こそ・・・調べものがあったのに・・・」
と返すのが、一番妥当である気がした。
「何、先生の調べ物はいつでもできる」
と返してくれ、完結するのだ。臼井は不思議な事に、黒沢は自分の気持ちをわかってくれているのではないか、そう思えている。
そこまで会話を交わしているわけではないのに、自分が黒沢だったらそう言うだろうことがわかっていた。
「その、今日はご馳走様でした。俺の分まで払わせてしまって・・・」
歩きながら話は進んでいく。
「それも気にするな。こういうときは、金を持っているほうが出すべきだ。うちは一応バイト禁止だろう?」
バイトはいけなくても、教師が生徒におごるのはいいのだろうか・・・生真面目な臼井は少し考え込む。
ただ、バイト禁止もあくまでも建前の話で、実際には隠れてアルバイトをやっている学生は、多々存在する。それは何処の高校でも共通する話だろう。
違いは見つかったときの処分が重いか軽いかくらいの差である。浅葱高校は大抵の教師は黙認しているので、異常な深夜労働、道徳的に黙認できない場での労働などの場合を除き、処分された生徒の話は聞かない。
なお、臼井はあまり物を買わないので、小遣いが溜まっていてバイトする必要性がないからと、今のところはバイトをやっていない。
「でも、どうして禁止にする必要が・・・」
黒沢の速度が遅くなったので、それに合わせる。まるで別れを惜しむかのようだった。
「生徒には学業に専念してほしいからな。それに、教育機関が堂々と勧めるわけにはいかないだろう。アルバイトをしたから成績は落ちました、なんか言われたら、学校だって困る。
それに、高校の勉強は結構人生を左右するからなぁ、分からないと後が辛いぞ・・・というのが、教育者の意見だな。
俺自身は経験を積んでおくのはいいことだと思うよ。学校では教え切れないことだってあるからな。まぁ、誰もがってわけにはいかない。ちゃんと両立できる人間でなければな。
それが出来ないのなら、先生は勉強一本にしたほうがいいと思う・・・」
気がつけば、日も暮れかかっていた。話しながら相当回り道をしたせいか、いつの間にか河原近くまで来ていた。もちろん、臼井も気づいていたが、あえて指摘はしなかった。出来る限り側を離れたくなかったから・・・。
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「また・・・時間をとらせてしまったな」
今度こそ本当に申し訳なさそうに謝ってきた。もちろん、謝ってもらおうなどとは思わない。出来るだけ一緒に過ごしたかったため、好都合だった。
「そんな・・・俺は・・・」
先生と一緒にいたいから・・・そう言おうとしたが、軽く首を振って、止められた。『そんなことは言うな』という意味かと思ったが、嬉しそうだったので『言わなくてもわかった』という意味であることを知る。
自分と同じに思ってくれたんだ・・・そんな幸せに浸っていたところ、突然黒沢の腕が背中に回り、気づけば抱きしめられていた。
(え?え?)
突然の出来事に戸惑う臼井。黒沢がそんなことをするとは思えなかったため、動くことすら出来なかった。
自分の心臓の鼓動が聞かれたら・・・だが、その心配はなかったようだ。抱きしめている黒沢自身も、かなり早く脈打っている。
(緊張・・・してる・・・)
あの黒沢が緊張しているのだ・・・できるだけそれを近くで聞きたかった。目をつぶり、耳を胸に当てる。それを彼はどう思ったのか、抱きしめる力が強くなる。
「あー・・・先生の知り合いには、若い子がいないからな、たまにはこうやって若い子の感触を味わってみたいんだよ。高校生は一番輝いてるからな・・・決して臼井にそういう気持ちを抱いているわけでは・・・その・・・ないからな」
「俺も・・・周りは皆同い年だから、大人ってどういうのかを知りたく・・・別にそれが先生でなくたって・・・」
その言葉が本音でないことはお互い知っている。あたふたと言い訳をし、爆笑し、そっと離れる。
気まずいけれど、決して不愉快ではない空気が流れていた。お互い意識しているくせに、決して近づかない、だけど、満たされている・・・そんな不思議な空気だった。
「教え子に手を出すわけには・・・いかないよな・・・」
抱きしめた時点で手を出しかけたことには変わらないのに・・・そう思ったが、それを口に出しても黒沢を困らせるだけなので、黙っておいた。
教師としてそれを気にしてしまうのは仕方ないのかもしれない。もし臼井が黒沢の立場なら、同じことを考えるだろう。
「確かに・・・先生って大変ですね」
これが会社員だったらおそらくは問題ないのだ。かなり高いものであるとはいえ、男同士というハードルを除けば、普通に好きだと言って、付き合うことが出来る。
しかし、教師と生徒だからそれが出来ない。もしそれが知れると、黒沢は確実に職を失う事になるから。そんなことがあれば、二度と会うことができなくなるから・・・。
だから自分は我慢しなければならない。これは想いを出せばいいという問題ではないのだ・・・。
「まぁ、今日くらいは・・・いいかな」
結局開き直ったのか、今日くらいは自分の職業を忘れるようだ。臼井の髪を、ゆっくりとなでる。とはいえ、肝心の臼井のほうが開き直れなかったようだ。都合のいい言い訳を考える。
「えーっと・・・まぁ、俺はたまたま図書館で会って、ナンパされて・・・先生だと知らずに・・・」
「ナンパとは人聞きの悪い。それでは俺が誰にでも・・・あぁ、そうか。誰にでも声をかければいいのか」
納得した様子を見せる。確かに特定の一人と親しくしようとするから問題が生じるのであって、クラス全員をナンパ、いや、声を掛ければ、少しは問題はなくなるだろう。
無節操には見えるが、これだけに声をかければ、下心があるようには思われないし、思う人もそうはいないだろう。いないだろうが、それはそれで嫌だと思う。
まぁ、教師だから、他の子に笑いかけるのはまだよいが、そのつど食事に誘われても困る。そんなことをされるくらいなら、それがたかだか十数分、数十分であっても放課後に・・・
(あ、その役目、クビになったんだ・・・)
夏休み前に助手を解雇されたことを思い出し、落胆する。今ならその理由が臼井のことを考えたからということは想像が出来るが、それでも、彼にとってささやかではあるが、かけがえのない時間がなくなったことは痛かった。
「まったく・・・俺にどうしろと言うんだ・・・」
しばらく考え込む。あれやこれやと一通り独り言を言ったあと、妙案をひらめいたのかどうかは知らないが、顔を上げた。
「そういう困った子には、先生の助手をやってもらわないと困るな。先生が困ったんだから、臼井にもちょっと困ってもらうとするか」
そのあとは何も言わなかったけれど、目で『これでいいか?』と聞かれたような気がしたので、それには軽く頷いて返す事にした。
すると、黒沢は『いい子だ』というかのように髪をくしゃっとかきまわす。本当は飛び上がるほどうれしかったが、それをやるのは、さすがに恥ずかしかった・・・。
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