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「ところで、どこに寄るのか?」
と、柚月に聞かれたが、残念ながら岬に当てはなかった。
もともとその場から逃げ出したくて提案したのだ。すぐに思いつけば、今頃は苦労していない。
だから、冗談交じりに答えた。そうするしかなかった。
「え?ラブホ?」
笑って返すかと思ったが、柚月は想像に反し、沈痛な面持ちになった。
「それもいいかもな。岬を抱けば、それが最大の弱みになるだろう?」
「え??」
「いっそのこと、俺が抱かれるのも・・・冗談だ。やっぱり俺は岬を抱きたいもの。それより、どこに行くのか?」
沈痛な空気が漂いかけたが、すぐに柚月はいつもの彼に戻った。自分の言ったことに気づいたのかもしれない。
「あ、本屋に行きたいな・・・と。参考書ほしいから」
「参考書?そんなの必要なのか?」
ふと思いついた場所を口にしてみた。買おうと思ってはいたものの、なかなか機会がなくて買うことが出来なかったことも事実だった。
これ自体は全く不自然はないはずなのだが、柚月は純粋に不思議そうな顔をした。
「先輩と違って俺はそんなに頭がいいわけじゃないんです」
考えてみたら、柚月が参考書を必要とするはずがない。
自分の視点でものを言っているから、そうなるのだ、苦笑しながら岬は弁解する。
「別にそれくらい俺が教えてやる」
・・・と思ったのだが、実のところは生きている参考書がいるかららしい。暗に、本に頼らず柚月に頼れといっているのだ。
これ自体は純粋な彼の厚意であろうが、それをすんなりと受け入れるわけにはいかなかった。
手元に参考書がある安心感・・・というのも確かにあるのだが、そうしてしまう、と、一つ岬の弱みを作り出すことになり、そうなると岬の逃げ道がまた一つ減ってしまうことにしかならないだろう・・・ことが大きかった。
「別にいいです。そんな必要はないし」
「そうか・・・」
冷たい言い方ではあったが、別に柚月に気を害した様子は見られなかった。
もとからそう返ってくるのを予想していたのだろう。
「で、何の参考書が?」
「あー・・・数学が・・・」
「そうかそうか。岬は純文系か」
「どーもダメなんですよね。公式分かっても・・・」
岬は『練習問題は解けるが本番で点数が低いタイプ』だということを説明すると、柚月は納得した様子を見せる。
「なるほど。結構そういう人は多いな。俺の周りもそういう人が多いよ。
いいこと教えてやろう。数学も必要なのは読解力さ。練習問題が出来るのなら、多分岬は基本は出来ていると思う。
大切なのは問題の趣旨を理解し、どの公式を当てはめるか・・・それだな。あとは・・・時間配分を上手くすることだな。
時間は限られてるが、慌てると悪循環だ。とりあえず確実に出来るものからやっていこう」
べらべらと柚月は説明するが、岬には呪文にしか聞こえなかった。
結局のところ、出来る人は当たり前のようにそれをやってのけてくれるのである。そして、出来ない人は努力しようとできないものである。
「それが出来れば・・・苦労しないです・・・」
「まさか・・・一問も出来ないのか・・・?」
「いや、中間は赤じゃないけど、高校の数学って難しいから・・・」
「だから参考書なのか」
独力で頑張るのをやめた結果、参考書にしたという岬の気持ちを理解してくれたようだ。
「なるほど・・・。それならこの出版社のがいいだろう。あの問題集なら要点が書かれているから苦手な人でも解りやすいし、有名だから店でも手に入りやすい。必要なら教科書ガイドも買っておくべきだろう。
でも、復習は忘れるなよ。その時解けて解ったと思い込んでも、実は解っていないことだって多い。
特に岬は塾入って勉強したという気になるタイプだからな。参考書を買って、安心したいんだろう?」
柚月は軽くお勧めの品をメモして渡す。最後は軽く笑って付け足してはいるものの、本質を見抜くような目で柚月が指摘してきたので、岬は内心感心する。
柚月が岬を好きであることは知っていたけれど、そこまで自分を見ていたとは、思っていなかった。
「先輩は教えるのが上手そうですね」
「いやいや。テストができることと、教えるのが上手い事は別問題さ。真雪を教えるのはさすがに苦労したな。飲み込みはいいんだけど・・・」
深くため息をついているので、その苦労は、岬が想像している以上のものなのだろう。
とくに、兄弟仲がよろしくなかったときは、血を吐くほどの努力をしていたのだろう。
「真雪くんって家でもあぁなんですか?」
「あぁというと?」
「いつも一人で本読んでるから」
小説を読んでいることもあるが、教科書や参考書を読んでいることも多い。ひたすら勉強をしているのだろうか。
「まぁ、かなりの努力家であることは確かだな。九条の家にいるのにふさわしい人間になろうと、背伸びしすぎている部分もある」
九条の家という言葉を聞いて、岬は彼ら兄弟が表に見えていない努力をしていることを知る。
普通の家に生まれればしなくて済む苦労も、名のある家に住んでいるからこそ必要となってしまうことがあるようだ。
まして真雪は後から入ってきた存在であるため、それだけプレッシャーがかかるのだろう。
もともと柚月はそういう空間に似合うタイプだが、真雪はそうは見えない。どちらかというと、ひっそりと生活するほうが向いているだろう。
「俺は勉強も大事だと思うけど・・・それが全てじゃないとも思う。世の中には大切なことはたくさんあるんだ。九条という名に縛られて、大切なものを見失わないでほしいと思うんだ」
「先輩には大切なものが・・・」
あるということなのだろう。ただありきたりの、理想でしかない論理を展開するには、瞳が優しすぎた。
そんな彼を見ると、岬の胸が小さく針で突き刺されたような感じになる。
柚月にとってそれだけの出会いがあったのだ。岬が決して知ることのない出会いが・・・。
「あぁ、あるよ。俺は小さいころからあまりモノに執着しなかったんだ。親の敷いたレールをそのまま歩いていて、別にそれは不満には思わなかった・・・まぁ、もともとそういうのに向いているんだろうな、俺は。
兄さんはそんな俺に呆れていたけれど、俺から見れば家を捨てて好きな人のとこに行くのを平気でしてしまいそうな兄のほうがおかしかったんだ。
あの人は一応建前では家を継ぐことになっているけど、それは冗談なんかでなく、本当に建前なんだ。本人は実権を持つ気なんかさらさらない。そこまで地位にこだわってはいないようだから・・・いや、違うな。兄さんは『家』から出たいんだ。九条の家のことを『鳥篭』と言っていたことがあるし。だから・・・あんな・・・いや、半分以上は趣味なんだろうけど。
だけど俺は望むものは手に入るこの家でずっと勉強してきて、帝王学も学んだ」
そんな無味乾燥な生活をしたんだ・・・柚月は自嘲気味に言ったが、そこまで家のことは嫌っていないように感じられた。
「当たり前のようにそれが続くと思っていたんだけどな、あの日・・・そう、あの日だ。真雪が来たときからかな」
「その時の様子は?」
「おどおどしていたよ。自分の境遇がわかっていたんだな」
寂しそうに柚月は全ての経緯を話した。実の母が亡くなったため、身内がいなくなった真雪を柚月の父が引き取ることを決めたこと、しんしんと雪が降る夜に父親に連れられてきたこと、柚月の母が旦那を罵倒したこと、最初のころは部屋の隅で背を丸くしていたこと・・・。
「兄さんはああ見えて結構策士だから、利用できるものは何でも利用する人間だ。後から入ったからって毛嫌いはしない。それに、可愛いものに結構弱いから、すぐ気に入ったよ。だけど、俺はやっぱり・・・」
「真雪くんを恨んだことがあるんですか?」
「なんと言えばいいんだろうな。急に腹違いの弟がいると言われたところで、普通はそれを受け入れることは出来ないだろう」
「やっぱり・・・嫌いなんですか?」
恐る恐る聞くと、柚月ははっきりこう言った。
「あぁ、嫌いだったよ」
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