三学期が始まってから、倉科は必要でないと使わない教材室に入り浸るようになった。
歩に会いたくないのだ。
職員室にいると、歩に会いそうで嫌なのである。
今は辛うじて―倉科の理性を総動員して、自分の心を凍らせて―教師と生徒でいられるが、これ以上歩と話すと、どんな言葉で歩を傷つけてしまうか分からない。
どんな言葉で傷つけられるか分からない。
だから極力生徒との接触を避けようとしたのだが、珍しくノックがある。誰かを確認すると、歩ではないようなので入れることにした。
「あ、せんせ、やっぱりここにいたんだ」
「あおいちゃん・・・一応言っておくが、ここは生徒立ち入り禁止だ」
「別にいいじゃない。僕はせんせのことがずっと心配で夜も眠ることが出来なかったんだ・・・」
あおいちゃんこと、佐野葵は、二年生で歩より一つ上である。
もし存在すれば、清風高校三大美形にランクインされたことであろう。後の二人が誰かは知らないが・・・。
ともかく、美しいと「されている」のである。ただ、箱入り息子と言うか、世間知らずと言うか、ちょっとずれたところがあって、美形であることを感じさせない。
その彼と倉科のつながりは、不明である。気がつけば葵が勝手に懐いてきた。
「いや、お前の場合、俺が振られようが傷つこうが眠るだろう、違うか?」
「違うよ。僕、先生が振られたことを知った時、すごく苦しかった。
先生の傷ついた顔を思い浮かべただけで涙が出ちゃった」
目が泳いでいる。それだけで答えになってしまった。佐野葵は嘘がちょっと苦手。
「今のでよーく分かった。あおいちゃんも冷たいんだな・・・」
「そんなに落ち込まないの。先生なら食べ放題じゃない。夏樹君がいなくても、目の前にいるでしょ。
僕なら先生の右手代わりでもいいよ?愛情なんかいらない・・・抱きたい時にさくっとしてくれればいいから」
「悪いな。俺はそういうのは好きじゃないんだ。俺は好きな人とそういうことをしたいから・・・」
例え葵を相手したところで、倉科の何かが変わるとは思えなかった。倉科にとって葵は他人でしかないのだ。
「先生って・・・意外に純情。もっと割り切っているのかと思った。夏樹君にぞっこんの裏で、来るものを拒まないのかと思ってたよ。それなら、僕を好きになれば何も問題ないじゃない」
「問題大有りだよ・・・」
倉科は脱力し、頭を抱える。この少年に付き合っていると、どうも疲れる。歩の問題もあるのに、葵までも抱え込みたくない。だから、懐こうとする葵を追い払ってしまったのだった・・・。
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「僕ってそんなに不細工かな?」
はい?目の前にいる青年のメガネがずり落ちた。その顔は間抜けそのものである。
「だから、僕の顔はそんなに変なの?美鶴、教えて」
紀藤美鶴は返答に詰まった。彼は葵の親友で、清風高校の生徒会長というものをやっている。
頭脳明晰でいつも沈着冷静。メガネの奥の鋭い眼光は見るものを射竦ますことも出来る、そんなイメージを持たれる彼でさえ、目をまん丸にし、メガネはずり落ち、口はぽかんと大きく開いているという、間抜け面にならざるをえなかった。
「・・・お前の場合、顔よりも性格が変だと思うが」
「美鶴ぅ・・・冷たいよ〜。こういうときは『お前ならもてないはずがない。先生くらいなら簡単に口説き落とせるはずだ』というのがセオリーなんだよ」
「俺は甘くはないということは、お前が一番知ってると思ったけどな」
さすがに「セオリー」なんて難しい言葉を知ってるんだなとは言わなかった。
「嘘つき。美鶴は僕に甘いくせに。済ました顔してるくせに、裏では僕のことを抱いてめちゃくちゃにして監禁して愛の奴隷にしたいって思ってるんでしょ。
分かってるんだよ。僕ね、もしこの想いが叶うなら、美鶴のものになってもいい。奴隷だっていいんだ。美鶴とならいやじゃない・・・」
ぷちーん。ここで美鶴の何かが切れた。
「言ったな?それならお望みどおりにお前を壊してやる。お前を俺無しじゃいられなくしてやるよ。幸い俺も男同士の知識は皆無じゃない」
誤解の無いように言っておくが、美鶴はヘテロである。これは売り言葉に買い言葉のようなもの。
更に付け足しておくと。葵も美鶴にそういう感情を持っているわけではない。
「きゃー、美鶴、目が笑ってないよぉ・・・」
「・・・俺は一体ナニを言ってるんだ」
一気に脱力する。どうも葵には話す相手を脱力させる何かがあるようだ。
「とにかく。これだけは言っておく。あの先生は他の男と関係を持ったお前を好きにならないと思う」
「分かってる。先生は初物じゃなきゃ嫌ということはないだろうけど、他の人と身体の関係を持ちながら口説き落としていると知ったら、絶対相手にしてくれない・・・。でも、実験台が欲しいんだ」
「俺の話を聞いてないな?」
生徒会長は勉強のことはお任せあれ、なのであるが、葵については数年親友やっていても、未だに理解できない部分がある。だが、残念ながら世の中に葵の全てを理解できる人間はいないだろう。
「美鶴、諦めろ。お前の負けだ。あおいちゃん、お前の気持ちはよく分かるけど、実験台なんか作ると、先生にも美鶴にも見捨てられるぜ?それでもいーなら、俺が実験台になってやる」
突然現れた二人の友達、外山翼が美鶴のフォローをする。
しかし、フォローの仕方がそうであるため、心なしか美鶴の機嫌が悪い。
「そうかそうか、そんなに実験体になりたいなら、俺の実験台にさせてやる」
ここまで来ると、ヤケになるしかなかった。
「やった。美鶴、どーする?俺、今からでもオッケーだぜ?
だけど、ローターとかの玩具は使わないでくれよな。同じ喘ぐなら、お前のモノを咥えて鳴きたいし・・・やべ、お前に欲情しちまった。美鶴ちゃん、お前のそれで熱を冷ましてくれよ」
この高校には誘い受けが多いのか?密かに美鶴は思う。
ま、それはいいとして、これではかえって熱を上げる効果しかない気がする。
「うん。分かった。先生にも美鶴にも嫌われたくないから、先生に絞るよ・・・」
何とかこっちの問題は解決した。しかし、もう一つの問題は解決していない。
「外山・・・」
「そんな他人行儀な呼び方はいや。つばさって呼んで」
「それじゃ、翼・・・」
「なーに?今からでも大丈夫だって?」
「いや、露骨にそういうことを言うな。気色悪い」
ぷちーん、今度は外山のナニかが切れた。
「ひどい、ひどすぎる。おれはこーんなにも美鶴のことを愛してるのに、美鶴ちゃんってば、いつもあおいちゃんしか目に入ってない。あぁ、胸が引き裂けるように苦しい」
そんなことを口走ってから、あらぬ方向に走っていった。
「まぁ、あの馬鹿はほっとくとして、葵、先生を口説き落とすのははっきり言って至難の業だ。
あの人、夏樹君に対する想い入れは尋常でない。
というか・・・はっきり言って異常だ。
周りの連中は先生が少年趣味だと思っている。
まぁ、確かに素質はあるんだろう。だけど・・・」
流石にそこからは言い辛かった。あくまでも想像に過ぎないということもある。しかし、それが葵を傷つけるんじゃないかという思いのほうが強かった。突然口をつぐんだ美鶴に、葵が言うよう迫る。
「何?何なの、美鶴?教えてよ!」
「俺からは言えない。分かってくれ、俺はお前を傷つけたくないんだよ・・・」
「美鶴、どうして教えてくれないの?親友が真剣に恋してるんだよ?応援してくれてもいいじゃない。それとも、美鶴は僕のことを友達とも思ってなかったんだ・・・」
縋りつくような目で言う。この目に弱い美鶴に選択肢はなかった。
「分かったよ。これはあくまで俺の想像だ。あの二人は特殊な結びつきがあるんじゃないだろうか。
おそらく俺達が知っているより、はるかに長い時間が存在するような気がしてならないんだ。
俺はこれでも現実主義の人間だ。非科学的なことは信じたくない。
だけど、何て言えばいいんだろう。夏樹君の恋人である夏目君でさえも入り込めない、理論が通用しない領域があるような気がするんだ。
普通、自分の恋人が他の男と一緒にいたらいい気はしないだろ?だけど、夏目君はそれを許している節がある。
それに、何故教師と生徒の交際が許される?そんなことをしたら、普通はクビになるだろう?でも、それは起こらない。何故か?それが解ったらみんな苦労はしないよ。
つまり、恋人や、一般論ですら入り込めないほどの関係に、お前が入り込める可能性は限りなくゼロだ。
だから応援しない」
反対もしないけどな、そう付け加えると、沈み込んでいた葵の顔が明るく輝く。
「ありがと。だから美鶴は好きなんだ。僕があの人を恋人として紹介する日を待っててね」
その光景を想像してみた。しかし、その第一歩でつまずいた。
世の中いらないことはしないほうがいい。聡明な美鶴はそう結論を出したのだった。
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