第九頁


今度こそ地獄に着いたかと、目をあけた光だが、幸運なことに―といっても当の光にとっては不運なことなのだろうが―光は生きていた。
深く切ったつもりだったが、あまり深くは切っていなかったようだ。
何か未練でもあったのだろうか。だから今は包帯を手首に巻いているだけである。
そして目の前には目を真っ赤にしている博がいる。また・・・泣いているようだ。

「どうしてお前は死ぬなんてそんな馬鹿なことをするんだ。生きていたからよかったものの・・・。



また残される俺の気持ちを考えたことはあるのか!





どうして、自分など身代わりに過ぎないのにここまで心配してくれるのか。
理解はできなかったが、一応は謝っておいた。どちらにしろ心配させたのは事実だから。




「ごめんなさい。
貴方にかかる迷惑のことを考えていなかったね。
俺は貴方とは他人だから、色々大変だよね。
何か急にこの世から・・・」


そこで言葉が途切れた。博がきつく抱きしめてきたからだ。呆然とした光に、

「なぁ、俺じゃ頼りにならないのか?お前の苦しみをもらうことはできないのか?」

切ない声で言う博。だが、今の光にはこの人は何を言っているのかとしか思えない。すると・・・



「好きだ・・・お前のことが」



まさか博がそんな事を言うとは思わなかった。
光は動揺した。だが、永久凍土に閉ざされは光の心はその言葉を拒み、信じることを拒んだ。


「嘘だ・・・」

「嘘じゃない・・・」

そこで光はそれを言われた理由を思いついた。


「ははは・・・博は勘違いしてるんだよ。
俺が好きなように思えるのは、
俺が歩に似てるから。
俺を通して彼を見てるんだよ。

つまり身代わりって奴?」


ここまで来るともう自棄だった。
だが、不思議と苦しくはない。
博はしばらく口を閉ざしていたが・・・





「確かに知り合ったきっかけはそうであったとはいえ、歩は歩、光は光だ。



身代わりになんかならない。



それに、もし身代わり程度にしか思っていなかったらここまで苦しくはならないし、それ以前にお前の前で泣くもんか」


光の前で泣いてしまったのを根に持っていて、博の口調は不機嫌である。
だが、その顔は真っ赤にも見えるし、泣きそうにも見える。
愛の告白とは程遠いが、その不機嫌そうな口調が、逆に氷の牢獄に閉じ込められ、解けることのない鎖に縛られた光の心を解き放った!




いつもの博だ。




もう光は遠慮することをしなかった。
目からは次々に涙があふれ、それを拭こうとせずに博に抱きつく。


「俺も好き・・・。でも、嫌われるのがいや・・・だから言えなかった。
恋してるなんて」


涙で声が出なくなる。だが、必死に声を絞る。

「身代わりでいい・・・なんていったけど・・・そんなのいやだ・・・。そう思う自分も浅ましくていやで・・・苦しかった・・・。だから・・・・俺を好きだといって!」

博はその情熱的な告白に感極まって涙が一筋滴り落ちた。それだけ自分のことを想っていてくれたのか。
それがとてもうれしかった。だから、自分もその想いに答えよう。


「光・・・好きだ。愛してる。
俺が好きになったのは身代わりなんかじゃない、佐伯光・・・お前だ。
ここで言うのもなんだが、歩の事をなかったことにすることにはできない。
だが、今俺はお前とともに生きていきたい。ひょっとしたらお前は苦しい思いをすることになるかもしれない。
それでも俺と付き合ってくれるか」


光は泣きじゃくりながら首を縦に振る。

「うれしい・・・俺も・・・博じゃなきゃいやだ!お願いだからもっと好きだといって」

「好きだよ・・・」

「もっと・・・」

「好きだ・・・」

そして次に出るであろう言葉を封じるため、光に口づけた。
最初はついばむようなキスだったが、段々と深いものに変わっていき、とうとう博の舌が光の口をこじ開けた。


「ん・・・・」

好きな人とするキスがここまで気持ちよいものだとは思わなかった。
きっと自分の顔はとろんとしていることだろう。
そして歯列を割った舌が光の舌に絡む。


「ん・・・んぅ・・・」


光は腰が砕けそうだった。
それから二人はしばらくの間口づけをつづける。
恋人との最初のキスは、涙の味でしょっぱいものだったが、甘いものでもあった。




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