人里離れた山中、白亜の建造物。侵入者を拒み、そこから逃れようとするものを許さない。外界からの干渉を遮断して、逃げるものを逃がさない。孤立したそれそこのみの世界。
 それを振り返り、青年は大きく長く息を吐き出した。
 森の中、地面はそう歩きやすいものではない。ただ全く手の入っていない山と言うわけでもない。
 黒い髪に褐色の肌、長身の若い男だ。唇を噛み締め眉を寄せ、手に力を篭めて。
「――陽太ようた
 小さな声がそれを咎めた。
 青年に手を引かれた、線の細い少年。青年とは対照的な病的な程青白い肌をした、黒髪の子供。ひそめられた眉が、青年が握る手の痛みを訴えている。
 陽太と呼ばれた青年は、慌てて力を緩めた。
「ああ、ごめんな」
「……陽太、本当にいいのか?」
 問われて、陽太は微笑む。
「別にいいよ。お前らを護って死ぬんならそれは本望だし」
「死ぬなんて!」
 ぞっとしたように少年は小さく叫ぶ。肩まで伸ばした黒い髪が揺れた。
「――分かってる。死なないよ。瞳も悲しむし、お前も大変だ」
「……」
 少年は答えず、泣きそうな顔で俯いただけだった。その頭を軽く叩いて笑い、――突然、ぎくっと顔を上げる。
 夜の森が明るく照らし出された。
「こっちだ!」
 叫び声。
 陽太は踵を返し、少年の手を引いて走り出した。手を引っ張られて小さく悲鳴を上げ、しかし少年もそれに続く。
「くそっ! もう気づかれたのかよ!」
「逃がすな! 二人とも殺せ!」
 悪態と命令に銃声が重なった。森の中を疾走する二人を数人の足跡が追う。
「四人……いや、五人か……」
 ぽつりとそう呟いて、陽太は足を速める。少年もまた耳を澄ませる。――恐らく全員が銃を携帯しているのだろう。最悪の場合、二人とも逃げ切れない。そうなったら。
 そこで陽太は足を止めた。
 少年が何か問う前に、その手を強く引いて前に突き飛ばす。
「なん……」
 少年が受身を取って起き上がり顔を上げるその前に立て続けに銃声が響く。陽太の褐色の肌に、次々と血花が咲いた。
「陽太!」
 叫ぶ少年に、陽太はそれでも微笑みかけた。唇から血塊が落ち、青年の唇が小さく動く。逃げろ。
 当然と言えば当然の言葉にしかしそこで少年の思考は止まる。続く銃声と共に陽太の身体が大きく震え、赤い血が散って、陽太の口が何度も同じ言葉を紡ぐ。逃げろ。逃げろ逃げろ。悪夢のように。死んでいてもおかしくない怪我を負って、それでも男は譫言のように呟き続ける。
「……逃げろ……楡月にれつき!」

 記憶はここで途切れている。
 ――もう半世紀も前の話だ。




4.炎獣サラマンダ




 そして、俺は腕を水平に振るった。
 気絶の衝撃で人のそれに戻っていた左腕が、炎の鱗に包まれる。
 ……頭はひどく冴えていた。
○○ダブル・オー……!?」
 掠れた巨獣ベヘモスの声。俺は青年を振り返り、首を横に振った。立ち上がる。一瞬立ちくらみを起こすが、構わない。
 胸に風穴を開けられ地面に膝をついた〇一はただ荒く息をついていた。恐らく活動に支障はないはずだが。血を失いすぎたのか、動く様子はない。……だが、そちらの方が俺には都合がいい。
「どうしたの? 炎獣サラマンダ……」
 手を血に染めて平然と聞いてくる少年に向かって、俺は手を突き出した。少年を炎が包み、頬に熱気が飛ぶ。
「お、おい!」
 青年の咎めるような声を後ろに聞きながら俺は踏み込んだ。少年の細腕が炎を上下に二分して振り払う。少年の肌にも服にも髪にも焦げ目は一つとしてなかった。赤い瞳が炎に煌き、作り物のような黄緑の髪が風になびく。手が硬質化し、黒く染まっていく。見た目は――黒手ブラック・ハンド、だが。
 身を屈めた瞬間、頭の上を黒い腕が通り過ぎて行った。背後に炎を放ち、さらに足を踏み込んで少年の横をすり抜け、後ろに回る。
 少年が振り向きざまに黒手を振るうのを後ろに退いて避け、さらに炎を放った。が、これも黒手が払う。
「……何で、解ったの?」
 聞いてくる声は高い。少女のそれだった。俺は炎を放ちながら後ろに飛び退いた。先程まで俺の頭があった場所を手が貫き、黒い靄が空間に残る。巨石すら紙のように引きちぎる剛力の黒手。〇〇オセロが右腕に持っていたものとは違う。しかも少年は、それを両腕で発動させていた。これで完全に確認できた。彼は、いや、彼女は――
「解りますよ」
 答えて姿勢を正す。少年は目を細めてこちらを窺うが、仕掛けては来ない。
「俺は五年間、あの人の傍にいたんです」
「……知ってるわ」
 短く答えて、少年は――少女は、黒く染まった腕を下ろした。
 瞬間、少年の髪が短く黒くなり、赤い瞳が闇色へ染まる。顔立ちが骨格が変わり、衣服にすら変化が生じていた。黒いタンクトップが白く染まりゆったりとした白衣に、デニムのショートパンツが黒いスラックスになる。
 一秒としないうちに少年は全くの別人……黒髪に猫の黒目をした、十くらいの少女に変わっていた。
「楡月?」
 離れたところで立ちすくんでいた青年が、眉を寄せてこの場にはいない人の名前を呟いた。少女の細い顔立ちは、確かに楡月によく似ている。もっとも、面影がある、と言う程度なのだけれども。
ダブルの」
 驚いたような声を上げたのは〇一だった。全身を血染めにしているが、傷は既にない。身体の損失でなければ、すぐに印喰マーク・イーターの身体は修復されてしまうのだ。
 だが、失われた血は戻らない。色のない顔のまま、〇一は立ち上がる。
「何だって?」
 眉を寄せ、怪訝な顔で青年が呟いた。俺は嘆息し、少女から視線を逸らさずに、
「一度見たものの姿を、正確に己の身体で再現する能力――身体に印を持たない印持ちです」
「印を持たない?」
 呟く青年に、俺は頷いた。少女に動く様子はないが、小さな身体からは圧迫感がある。見えない圧力。殺気と似て非なるプレッシャーを気にしないように努めながら、俺は続けた。
「そして影は、今はこの人たった一人しか存在しません」
「……」
 〇一が眉をしかめ、少女を睨む。
 少女は無表情のまま、自分の腕を見つめていた。
「かつては二人だった。ですが、彼らの能力は研究者にとって興味深いものだったんですよ。どこまでがその能力のうちなのか? 印持ちを写した時に、その能力をも写し取れるのか。
 言いましたよね? 初めの印喰は、印持ちを素に作られたと」
 頷く青年は、しかし怪訝な表情を崩さない。
「だが、それは失敗したとか」
「彼女だけが唯一つの成功例でした。
 彼女の先に犠牲になった彼女のお兄さんも、彼女の後に実験台にされた印持ちたちも、でき損ないにしかならなかった……」
「兄、って」
 青年は眉を寄せ、疑問を発しかけて。
 そこで、少女が唐突に右腕を横に突き出した。
 ……気配が沸く。
 少女の手のひらから数センチ離れた位置で高所からの蹴りが停止し、彼は舌打ちして飛び退いた。
 長い黒髪が前に流れた。少女と良く似た黒い眼が場を見渡す。
 楡月だった。
「何、……で、ここに!」
 楡月が地面に着地する前に、叫んだ少女の腕が赤い鱗に包まれる。俺と同じ、炎獣の能力。いや、たった今少女が写し取ったものか。
 炎が放たれ、うねりながら楡月を襲った。身を捻って躱し、だがバランスを崩して楡月は地面に倒れ込む。少女が距離を詰めながら腕を振るう前に楡月は姿勢を整えていた。炎を避け、少女の首を捕まえる。楡月がいくら華奢な男だとは言え、少女は十にも満たない子供だ。抵抗もできず、少女が苦しげに呻いて動きを止めた。そのまま少女を地面へ押し倒し、楡月の目が少女を射抜く。
 追い詰めているのは彼の方なのに、その額には汗が浮かび、苦しげな表情を浮かべていた。
「――お久しぶり、ですね」
「そうね、ず、い分、久し、ぶり……さっきも、話した、ばかり、だ、けれど……」
 色を失くした顔で少女は微笑む。楡月も微笑を返すが、手の力を緩める様子はない。
「おい、子供に――」
「――貴方よりずっと年上ですよ。これは」
 荒く息をつきながら、咎める青年に楡月は返す。彼らが実験台になったのは、もう半世紀も前の話だ。〇一やオセロが作られたのもそう最近のことではない。
 青年は釈然としない顔で口を閉じ、楡月を見つめる。
「……あんたも印持ちだったのか」
「ええ。元、ですが」
 視線も返さず答える楡月に、青年は皮肉っぽく口元を歪めた。
「僕に随分と嘘ばかりつくんだな? お前らは」
「――今の私は人間と変わりませんから」
 楡月は呟いて、少女を見下ろす。少女の前に研究され、実験を繰り返された挙句に能力を失った楡月は、確かに今はもう人間のようなものだ。
 その後を継ぐ形で実験台になった少女が、本来の意味で唯一の印喰。身体の自由変化と能力の複製、多少の傷を受けても変化能力の応用で瞬時に修復する。後に犠牲になった印持ちも、作られた印喰たちも、少女を目指して作られたものだった。だがその印喰たちも、見ただけで能力をコピーするなどと言う芸当はできなかったのだが。
「……妹が死んだって言うのは」
「そのはずだったんですよ。
 私たちがもともといたのは別の研究所でしたが、これがその後に第一研究所に移ったのは知っていましたから。死体の確認まではやらせませんでしたから、意外と言うわけでもありませんでしたがね」
 第一研究所。まさに俺とオセロ、印喰たちがいた場所だ。
「どうやって抜け出したのかは今さら聞きません。けれど、こちらの方ははっきりさせておくべきでしょう」
 首を締め付ける手に力を篭めて楡月は少女を見下ろした。
「――瞳、貴方の目的は何ですか?」
 楡月が言ったのは少女の名だろう――印持ちだと言うのにナンバーでも分類名でもない名前を持つ少女は、その問いに笑ってみせた。
「……貴方とそう変わらない、と言ったわ……それに、貴方への復讐も」
「復讐――」
 少女のその言葉を聞いて、わずかに楡月の鋭い眼光が揺らぐ。動揺していると言うよりは、わけが分からない、と言う表情。
「――貴方、やっぱり覚えていないのね……」
 言葉はため息交じりだった。その仕草は見た目よりもひどく大人びていて、少女が本当は半世紀を生きてきた女性であることを認識する。
「あの人が私の代わりに撃たれたのは覚えている」
 言う楡月の言葉に、俺は眉をひそめる。あの人――と言うのは。
「ですが、そこまでです。その後どうなったのか、私は覚えていない」
 首を振る楡月を、少女は嘲笑した。
「……そこまで覚えてるなら……その先を予想するのは簡単でしょ……?」
「私は……」
 楡月は、感情の籠もらない声でそう呟き。
 少女は首にかけられた手が緩む瞬間を狙って楡月の手から逃れ、腕を黒く染めていく。先程も見せた黒手の能力。
 万力の細腕が身体に到達する前に、楡月は飛び退いていた。少女はさらに手を伸ばすが、楡月には届かない。少女は唇を噛み締め、楡月の拳を避けて後ろに下がった。少女を打つために伸ばしきられた楡月の腕を折ることもできたはずだが、その前に楡月が少女の腹か胸を捉えると判断したのだろう。
 楡月は少女を見つめ、しかし心ここに在らずと言う呆然とした表情でいる。
「私は、そんな事実は認められない……」
 先程の攻防を行った人物と同じだとは思えない、抜け殻のような声。
「事実は事実よ」
 冷たく言い放つ少女の目に、くらい炎が灯った。
「陽太が貴方を連れて逃げるって言った時、私は止めるべきだった」
 声は震えている。「陽太」……恐らく楡月が言うあの人と同じ人物を指しているのだろう。実験体だった楡月を知り、連れて逃げられる役目と言うと、俺と同じ飼育係か、それとも研究者か。
「そうすれば、私は陽太が死体置き場に積み上げられているのを見なくて済んだのに……死んでいたのは、貴方だったのに!」
 絶叫する少女の左腕が黒鱗の蛇に変わる。これは〇一が有している龍王レヴィアタンの――
「お月さん! 退いて下さい!」
 思わず叫ぶ俺を振り向きもせずに、楡月は少女へ向かって走り出した。
 少女は楡月しか見ていない。射線上には俺も青年も入っていないが、〇一が舌打ちして地面を這いずるように避けるのが視界の隅に見えた。
 だが、少女が火球を放つより、楡月が少女に到達する方が明らかに早い。
 龍王は、本来ならば直径数メートルのファイアーボールを放つ能力だが、先程〇一が発動せず囮に使ったように、発動に時間がかかりすぎるのだ。実際攻撃に使うには、中、遠距離から使わなければならない。能力の強力さに驚いて、騙されたのはさっきの俺の失策だったのだが。
 とにかく、楡月の素早い接近に、少女は龍王の発動を中止せざるを得なかった。
 楡月は容赦ない。少女の腹を蹴り飛ばし、さらに拳を振るう。少女は仰け反って拳を避け、地面に両手を突いて宙返りする。その背に楡月が腕を伸ばすが、少女は身を捻って避けた。背に目がついているかのような動きだが、彼女の能力を考えてみれば、実際背に目があるのかも知れない。
 着地してすぐに地を蹴り、少女は楡月に腕を伸ばす。届く前に後ろに飛び下がるが、瞬間少女の腕が伸びた。実際に背ではなくとも、衣服にだ。
 目を見開き、しかし俊敏な動きで楡月は身を屈める。黒く染まった少女の腕が、楡月の髪をぶちぶちと音を立てて千切っていった。
 いや、少女ではない。今の一瞬で、少女は楡月と同じ年齢ほどの女性に変わっている。こちらが本来の彼女に近いのか――実際は還暦が近いはずだから、本来の姿などはそもそもないのか。
 しかし、先程よりも歳を重ねた彼女は楡月に驚くほどよく似ている。似せているのか、それとも元の顔立ちか。
 不意打ちを見極められて、女性は悔しげな顔で後退した。楡月が髪を手で梳き、千切れた髪が落ちる。
「……私が、彼を見捨てて逃げたと?」
「そうよ」
 息を切らして問う楡月に、無表情に女性――影が返す。
「貴方はあの人を見捨てて逃げたのよ」
「……」
 楡月は沈黙した。宣言に呆然としていると言うよりは、釈然としない顔で。
「――だから私は貴方を許せない」
 振った腕は青白い毛並みに包まれた。
 巨獣の腕。広範囲の攻撃を予想して、俺と青年は慌てて下がる。
 だが、楡月は退かず、あろうことか相手に向かって突っ込んだ!
 さすがに予想外だったのか、影は驚いた顔をする。しかし巨獣の能力は発動にほとんどタイムラグがない。構わずに腕を振るう。
 だが、楡月がそこで地を蹴って、――飛んだ!
 地面を抉りながら不可視の衝撃波が空間を破壊し尽くす。見えない破壊が無音で広がり、世界をずたずたに引き裂いて行く。
 だがその範囲内に楡月はいない。影は一瞬楡月を見失い、辺りを見回して。
 楡月が影の背後に着地。影が気づいて振り返るその一瞬前、側頭部を楡月の後ろ回し蹴りが襲う。まともに蹴りが極まり、影は受身も取れずに地面に叩き付けられた。
「がッ……」
 地面に倒れる影の腕を捻り上げ、楡月は投げ出された影の脚を踏みつけると、そのまま体重をかけた。
 ごきり、と嫌な音と同時、影は低く呻いて楡月を睨む。額に玉の汗が浮かび、歯が食い縛られた。
「……楡、月……!」
「いくら貴方でも、これを治すには時間がかかるでしょう?」
 怨嗟の声を上げる影に微笑みで返し、さらに腕を折ってから、ようやく楡月は影を解放した。身を折ったまま震え、睨みつけてくる影の視線を受けながら、楡月はこちらに戻ってくる。
「お、お月さん」
「正当防衛ですよ」
 顎から滴る汗を拭いながらそう嘯く楡月に、俺は影へ視線を戻す。過剰防衛とも思えるが、彼女は楡月のことを完全に殺すつもりだったし、彼女は他にどんな能力を持っているかも解らないのだから、もしかしたらこれでも優しい方かも知れない。
 本当に印持ちを無力化したいのなら、印のある手足を落とさなければならないのだから。
「……さて」
 楡月は荒く息をつきながらその場に座り込むと、〇一の方へ目を向ける。〇一は楡月の声に一瞬身を震わせたが、何も言わずに楡月を見返した。
「――貴方はどうします?」
「俺は……」
 言いながら少年は影を一瞥し、傷が消え外に露出した胸に手を当てる。指についた血の滓が、白い肌と浮かび上がる黒い印に、赤い筋を残した。
「俺は、そこの女が言ったことが嘘だった以上、炎獣を殺すつもりはない」
「――嘘、ですか」
 呟きながら、楡月の視線が俺と青年を動く。青年が目を逸らしたところを見ると、俺が気絶している間に何かやり取りでもあったのだろうか。
「だが、お前らの目的によっては、俺は身を守るために戦うことも厭わない」
「困りましたね」
 そう困ってもいないような顔で、息を整えながら楡月は立ち上がる。
「私は、できれば貴方とことを構えるのは避けたいのですが……」
「お前の目的如何だ」
「――ふむ」
 楡月は考えるように顎に手をやり、ふとよろけて、こちらに倒れ込んでくる。俺はそれを受け止めて、体温の高さに顔をしかめた。この寒さにも関わらず発汗も凄まじい。
「大丈夫ですか、楡月」
 〇一に聞こえるように楡月に声をかける。〇一は怪訝な顔をしたが、黙ったままこちらの様子を伺っている。
「――貴方、彼を捕獲できますか?」
 これは小声である。ほとんど口を動かさずに問うてきた楡月に、俺は〇一に視線を向け、
「……殺すつもりなら、恐らくは。
 しかし、彼が龍王まで有しているとなると、他にも攻撃用の印を持っていると見ていいでしょう。それが解らない限り――」
「貴方が行っても無力化は難しいですか」
 俺は黙って頷いた。その動きと同調して、楡月は俺に背を預けるのを止め、〇一の方を見る。――影と違って印喰には痛覚がない。たとえ骨を折っても力を殺ぐ以上の意味はない。昏倒させるのが一番いいのだが、その隙を与えてくれるとは思えなかった。
「困りましたね」
 先ほどと同じ台詞を繰り返して、楡月は影を一瞥する。楡月とよく似た黒髪に黒瞳、動くのは諦めたのか素振りはないが、鋭い目だけは真っ直ぐに楡月を睨んでいた。
「……説得できれば、一番いいのですけれど」
「自信がないのか、楡月」
 意外にも、〇一ははっきりと楡月の名を呼んだ。楡月は肩をすくめ、
「――私の目的は、貴方を人間に突き出すことですからね」
「何だと?」
 訝しげな顔をする〇一に、楡月は嘆息した。
「貴方と瞳が軍関連施設を盛大に吹っ飛ばしてくれたお陰で、印持ちの立場はあまりよくないんですよ。今研究所外にいる印持ちを研究所に戻すべきだと言う声まで上がっている」
 言葉に影が小声で呻く。そちらに目を向けて、楡月は眉を寄せた。
「――どうして〇一にあんなことをさせたんです?」
「追い詰められれば、ホルダーだって抵抗するでしょう。そうすれば、人間に管理をされなくたって済む……」
「……無駄ですよ。貴方や炎獣のように、殺傷能力に優れた印持ちばかりがいるわけじゃない」
 影は何事か小さく呟いて、俯いた。聞き取れなかったが。
「――それで、どうするんです? 〇一」
 〇一に向き直り、冷めた声で楡月が問う。〇一は舌打ちし、数歩後退った。その分だけ、楡月は〇一に歩み寄る。
「……俺が主犯だと、どう証明する?」
「証拠は揃っているんですよ。あとは貴方が足りないだけでね。
 貴方が印持ちではないと言うのはすぐに分かるし、――まあ、人間どころか印持ちですらない貴方に、まともな判決が下りるかどうかは分かりませんけれどね」
「――フン」
 鼻を鳴らして、〇一は引きつった笑みを浮かべた。楡月は突っ立っているだけだが、視線は〇一から逸らさない。
「……俺は、死にたくないんだ」
「貴方に食われた人々も、そう思っていたでしょうね」
 楡月は、特に責める口調でもなく言った。〇一は唇を引き結び、俯いて、
「――だから、今お前に捕まるわけにはいかないな」
「そうですか」
 予想していた答えだ。楡月が歩き出し、俺は影の方に歩み寄る。女性の黒い目がこちらを睨みつけてきた。
「……炎獣」
「はい」
 俺が頷くと、影は笑ったようだった。骨折の激痛が今もあるはずだが、表情はそれを感じさせない。
「――私への当てつけかしら。そんなものまで用意して」
「?」
 言葉の真意が分からず、俺は眉を寄せて楡月の方を見た。〇一が踵を返し、楡月がそれを捕らえようと駆ける。だが、その手が届く前に、〇一が加速する。
「……やり合う気はない。逃げさせてもらう」
 そんな呟きが流れてきた。楡月が舌打ちし、肩に手を伸ばすが、〇一はそれを振り払うようにくるりと楡月の方へ向き直った。
「……三五九二サンゴーキュウニイ、また会おう」
「あ?」
 声をかけられた青年が胡乱な顔をするのと同時、少年の背から黒翼が広がった。楡月が目を見開き、俺もまた息を呑む。
 〇一の体がふわりと浮き上がり、楡月の手が空を切った。青年があっけにとられたように空を見上げる。
 楡月が数歩たたらを踏んで立ち止まった。ほとんど一瞬で、〇一の姿は夜空に舞い上がり見えなくなる。
「また会おう、ですって」
「……逃がしていいのかよ」
 振り向き、声をかけてきた楡月に、青年は顔をしかめて問うた。が、楡月は肩をすくめて、笑うでもなく口の端を歪める。
「ああ、貴方がいますから大丈夫ですよ」
「――は?」
「あっちの方は、できれば捕らえておきたかったぐらいですし、炎獣が狙われなくなったのであれば、用はもうありません」
「……そうなのか?」
 青年がこちらを向いて問うてくるのに、俺は黙って頷いた。楡月の身内のような俺では証言にならないが、部外者の青年なら証言者として申し分ない。楡月の言う通りに証拠は揃っているのだ。
「……私は〇一のようにはいかないわよ」
 と。
 倒れたままの影が、楡月を睨んでぼそりと呟いた。振り返って腰に手を当て、楡月は嘆息する。
「説得ができると思っていませんよ。肝心の私の記憶がない状態ですからね」
「……私の見込みが外れていたのは謝るけど」
「ふむ」
 楡月は呟き、腕を組んだ。影が謝ったのが意外だったようで、訝しげな顔をしている。影が舌打ちして視線を逸らすと、楡月は困ったような表情で自分の顎を撫で、
「――とりあえず、病院に連れて行きましょうか。
 炎獣、彼女を負ぶっていただけますか」
「俺がですか?」
 ぎょっとする俺に、楡月は面倒くさそうに、
「私が負ぶったら殺されてしまうかも知れないじゃないですか」
「……いや、それなら俺だって」
「大丈夫ですよ」
 言い切って、楡月は影を見て笑った。
「瞳は少なくとも、直接貴方を殺すことはありませんから」
「はい?」
 声を上げ、影を見下ろすが、彼女はただ視線を逸らすだけだった。――どうも、俺も知らされていないことがあるらしい。
 俺は嘆息して、影の傍らに跪いた。


※ ※ ※


 結局のところ、〇一は依然逃亡中、影はお咎めなしのそのまま入院、自分――巨獣もまた、その足で病院に戻ることになった。
 疲れていたのでそのまま寝た。
 巡回に見つかりもバレもしなかったのは何となく奇跡を感じたが、よく考えれば楡月が何か手を回したかしたのだろう。そもそも病人が病院を抜け出せば、すぐに騒ぎになるはずだ。
 その後数日間全く音沙汰がなかったので、もしかしたら夢だったのかとも思ったのだが、よく考えたらそんな珍奇な夢を見るはずもなく、かと言って楡月から連絡が来るわけでもなくはじめの数日は悶々と過ぎた。
 次に何があったかと言えば、同じ病院に担ぎ込まれた影が病院からあっという間に脱走した。
 よく考えれば(恐らく)楡月の管理下にある病院なんぞに彼女がおとなしくいるはずもなく、当然と言えば当然だった。
 ――さて。
「で、一週間経ってようやくか」
『こちらも色々忙しかったもので――すみませんね』
 取り次がれた電話に出てみれば、いつもながらに苛苛する気弱そうな声が向こうから聞こえた。
「――まあいいけどな。お前らの放置と隠匿癖には慣れたしな」
『厭味ですね』
 と、これは楡月の声だ。巨獣は突然話の相手が替わったことに顔をしかめながらも話を続ける。
「逃げたぞ、お前の妹」
『知ってます』
 それはそうか。
「〇一はどうなんだよ。あいつを野放しにしといたら、色々まずいんじゃないのか?」
『研究所外にいる印持ちは把握してますから、見張りもつけてますし』
「見張りって」
『貴方にもついてますよ』
「……え?」
『探しても無駄ですけどね。
 〇一は貴方にもう一度会いに来ると言っていましたから、一応ね』
「一応ねえ……」
 嘘寒さを感じて辺りを見回すが、こちらを見ているものはいなかった。
「で、お前はこれからどうするのさ」
『と言われましても、貴方が退院するまで貴方を召喚もできませんからね。情報や証言は他にもあるんですけれど、はっきりとした証言は貴方しかできませんから』
「何?」
『貴方が退院した頃にお呼びすることになりますので、そのつもりでよろしくお願いします』
 ……よろしくお願いしますじゃないだろう。そう言うことはもっと早くに言っておくべきではないか。
「けど、退院には数ヶ月はかかるぞ?」
『それも知っています。――大丈夫ですよ。〇一の方と違って、こちらは急に解決できることじゃなし、ゆっくりやっていくつもりです。
 ――他にも、色々と準備がありますからね』
 色々と、のところだけ強調して、電話の向こうで楡月が押し殺した笑声を漏らした。何がおかしいのか知らないが、妙な感じだ。
「お前の妹の方は大丈夫なのか?」
『まあ、そうなんですけれどね。炎獣が護衛についてくれてますし、余程油断しない限りは大丈夫ですよ』
「……炎獣を直接殺すことはない、って奴か」
『そう言うことです』
「――この前も思ったんだが、何でそんなことが言える?」
『炎獣だからですよ。彼がね』
 意味が分からない。
『まあ、別にいいでしょう? 兎に角養生して下さいね。
 ――切りますよ』
「あ、おい」
 止める間もなく唐突に電話は切れた。
 舌打ちして、巨獣は受話器を乱暴に置く。何だかこっちは消化不良だ。分からないことが多すぎる。
「……くそっ、あいつら」
 頭をかき回し、巨獣は毒づいた。利用されるだけされて放り出されたようなものだ。〇一と瞳とやらは行方不明だし、どうにも、すっきりしない。
 だが、――とりあえずは、これで終わった、と言うことなのだろうか。少なくとも、楡月にそう宣言されたような気がする。もっとも、自分の仕事はこれからのようだが。
 巨獣は嘆息し、腕を組んで俯いた。
 ……さて、これからどうなるものか。




 受話器を置いて、楡月は炎獣を見上げ、軽く肩をすくめてみせた。炎獣は訝しげな顔をしながら、胸の前で拳を握る、いつものポーズをとる。
 事務所の応接間である。楡月はデスクに座り、炎獣は楡月に向かい合うように立っている。
「……で、本当のところはどうなんですか?」
「何がです?」
「妹さんが、炎獣を殺さない理由です」
 首を傾げてみせる楡月に、炎獣はそう言った。……そう言えばこの一週間、炎獣は全くそのことに触れてこなかった。忘れていたのか遠慮していたのかは解らないが。
「――簡単ですよ。
 私と妹の飼育係が炎獣だったんです」
「え?」
 答えると、炎獣はきょとんとした顔をする。
「けど、確か陽太と言うお名前が」
「半世紀前ですから。制度もしっかりしていませんでしたし、私や瞳のように名前のある印持ちもちらほらいたんですよ」
 投げやりに言って、楡月は俯いた。
「まあ、実際瞳は〇一に貴方を殺させてもいいと考えていたようですし、別に炎獣だからどうってわけでもないんですけどね」
 炎獣に瞳を運ばせた時の楡月の台詞は、炎獣への説明と言うよりは、瞳に釘を刺す意味合いが強かった。まさか陽太と同じ炎獣を殺すつもりはないだろう、と。
「――でも、私自身今の今まですっかり忘れていましたよ。年を取ると物忘れが激しくて嫌になる」
 言いながら、楡月はデスクの上に両肘を立て、手を組んで苦笑する。
「結局、肝心な部分は未だ思い出せませんしね」
「――『見捨てて逃げた』ですか」
 炎獣の言葉に楡月は俯いたまま嘆息した。失敗作である楡月の処分が決まった時、手を引いて逃げてくれたあの男。最期の瞬間までこちらの身を案じてくれた彼を、果たして自分は見捨てたのか。
「さっぱり思い出せないんですよね。推理しようにも、考えれば考えるほど私が生きているはずはないと思えてしまう」
 その場に留まっていたのなら、彼を抱えて逃げたなら、彼を見捨てて逃げたなら、全て無駄だ。逃げ切れたとは思えない。子供の足で、――それも銃を持ったものたちがすぐそこにいたのだ。
 あの女には、自分が生きていて、彼が死んだ。その事実だけで十分なのかも知れないが。
「まあ、考えていても仕方ないことでしょうね。彼女は私を狙ってくるでしょうが、私の方は半世紀も前の恨みで殺されてはたまらない。
 ――私にはまだ、やることが山積みなんですからね」
「はい」
「貴方にも協力してもらいますよ」
 言葉に、炎獣は黙って頷く。楡月はもう一度大きく嘆息して、顔にかかる髪を乱暴に払い、
「――本当に大変なのは、これからです」
 そう言った。




End?




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