さて、次はどうしようか。
銃を片手にぶら下げ、ゆったりとした歩調で歩きながら男は首を傾げた。あの女、死んだろうか。
死んでいないだろうな、と男は絶望と共に可能性を否定する。死ぬはずはない。死ぬようにできていない身体だ。どうして死ぬはずがあろうか。それに――
あの女が死んだら自分には分かるはずだ。それよりも。
――あれは誰だったのだろう、と男は首を傾げる。
見ない顔立ちだった。倒れる女を、顔を歪めて見下ろしていたあの。驚くでもなく突っ立って、顔を上げこっちに視線を合わせてきた。
変な奴だった。
狼狽するでもなく、怖がるでもなく、女の死を怒るでもなく、また悲しむでもなく。
しかしあいつは、何だって神父服を着て、ロザリオなんか引っ掛けていたのだろう?
――と。
「そこの人!」
怒鳴り声に、男は思わず立ち止まった。向こうから――制服の男が走ってくる。紺色のあの服は、警官だ。まだ若い、背が高い青年である。息を切らせて、顔を紅潮させてこちらに走り寄り、警官は足を止めて俯いた。
「――何でしょう?」
笑顔を作り、男は問いかけた。……銃を見咎められたか。だがそれにしては、警官の態度がおかしい。
「こっちに、神父服を着た日本人が逃げてこなかったか?」
吐き出された言葉に男は眉を寄せた。どうやら別件らしい。
「……いいえ、見ていませんが。その日本人がどうかしたので?」
聞いてから、あの女と一緒にいた奴のことだったか、と気づく。だが警官は男の内心も知らず、息を整えて、額の汗を拭った。
「凶悪な殺人犯でね、女連れのはずなんだが……」
言葉を警官は途中で止めた。視線がまっすぐに男の持つ銃に向けられ、しばらく硬直する。
「……その銃は?」
やっとのことで搾り出した、と言う風に警官は聞いてきた。男は笑みを崩さないまま大仰に肩をすくめて見せる。
「説明が必要で?」
「ああ、できれば頼むよ」
硬い声のまま威圧の色を滲ませる警官に、彼は苦笑した。銃を持っている相手に居丈高に構えても仕方がないだろうに。
「模型銃ですよ。お疑いなら、確かめてみますか?」
「――模型?」
一瞬きょとんとした後、さっと若い警官は俯いた。しまった、やっちまった、と言うところだろうか。男は微笑み、軽く模型銃を掲げてみせる。
「何だったら、引き金を引いてみましょうか?」
「いや! ――そこまでしてもらわなくっても」
「そうですか? でも」
言いながら男は警官の肩に銃口を捻じ込んだ。はっと警官が顔を上げ、頬を引きつらせるのが滑稽で。
「――本当によろしいので?」
そう問いかけるのと同時。
若く真面目でお人よし過ぎる警官が、悲鳴を上げて身を引く前に、男は軽く引き金を引いた。
胸を張れるような人生を送ってきたわけではない。
最初に人を殺したのがいつだったのかも、殺したのが誰だったのかも覚えていないようだから、そもそもろくなものではない。その後も人に頼まれて殺したり、頼まれなくても殺したりした。命の危険にさらされたことは――そう言えば何故か一度もなかった。よっぽど自分は上手くやってきたのか、運がいいのか、それとも運が悪いのか。行き当たりばったりに生きてきて、その突き当たりだか何だかに――これだ。
不死。
――不死、である。切っても突いても煮ても焼いても死ぬことがない身体、と言う奴だ。文字通りの。
聞いたことはもちろんある。ありふれた単語だ。不老不死、と言うフレーズから、吸血鬼だのゾンビーだの、映画や本の中に登場する化物だって不死者だ。だがそれはもちろんファンタジーで、実際にいるものではない……はずだった。不死者がぽんと目の前に現れることなど、あっていいはずがない。
だが、信じないわけにはいかなかった。何せ女は実際川瀬の目の前で撃たれ、死ななかったのだから。
「私を撃ったあの人も、死なない体です」
女の言葉に川瀬は首を傾げる。それならどうしてあの男は女を撃ったのだ? 死なないと知っていれば、殺そうとしても無意味だろうに。
「あの人は、死にたがりなんです」
不死者の――死にたがり。詰まるところはこうだ。男が女を殺そうとするのは、女が死ねば同じ方法で男も死ねるから。――不死者は、自殺では絶対に死ねないのだと言う。
「でもそれなら、君が死んだ後あの男はどうするんだ? 自殺じゃ死ねないんだろ?」
「人を雇えばどうにでもなる、とあの人は言っていました」
それもそうか。
「――でも、さ。
不死者って言うのは、死なないんじゃなかったのか? 死なない奴が死ぬ方法なんてあるの?」
問われて、女は俯く。
「……あるはずだと、あの人は言っていました」
川瀬は肩をすくめた。何とも歯切れが悪い答えだ。だが、女がそう答えている限りはそうなのだろう。たとえ隠していることがあっても、それは川瀬が男を殺すこには何の問題もないことだ。
「そうだな――
とりあえずその死ぬ方法とやらについて話し合う前に、服屋に行ってこようか?」
「はい?」
首を傾げる彼女に、川瀬は頬を掻き、
「だってそれじゃ、君がレイプ犯を殺しちまったみたいだ」
ジョークのつもりだったのだが、彼女は本気で怒った。
「銃、は駄目だったんだろ」
川瀬は指を折りながら、女に視線を向ける。
「はい。そうですね。一般的な殺し方も、一通りは試しました」
川瀬が適当に服屋で買ってきた上着を着ながら女は頷いた。黒い半袖が白い肌によく似合っている。やや無表情なところも含めて、手足が長く細い彼女は塩化ビニルの着せ替え人形のようだ。小さい女の子の気持ちが解ったような気がして、何となく頬が緩んだ。
「なら、絞殺とか、首を切り飛ばしたりとか、灰にしたりとか、頭を潰したりとか、心臓を抜き出したりとか、窒息死とか、そう言うのも駄目だったの?」
「そうです。毒を呷るのは自殺に入るのかは解りませんが、とにかく死にませんでした」
「化物を殺す方法は試してみた? 心臓に杭を刺したり、銀の弾丸とか、にんにくが苦手とか、聖書の朗読が耐えられないほど辛いとか」
「聖書は読めます。にんにく料理も普通に食べられますし、その方法でも死にません」
「……じゃあ、もう核爆弾とかに頼るしかないんじゃないか?」
「それでは不可能です」
やけくそになって出した一案も、にべなく却下された。
「じゃ、無理だな。無理無理。不可能。諦めてもらうしかないんじゃない?」
「それは無理です。あの人はそれらの方法では駄目だと分かった後も諦めませんでしたから」
そして彼女はそれにずっと付き合っていると言うわけか。
「もう何年ぐらいになるんだ? その――死にたがりは」
「百年は経っていると思いますけれど」
「そりゃお気の毒だ。そろそろ愛想尽かしたりしないの?」
問いに、女は悲しそうな顔で俯いた。
「……それはできないことになっています」
「そっか」
そんなはずはないだろうと言いたいものだが、彼女がそう言う限りはそうなのだろう。つまり、あの男を説得するのは不可能だが、この女を説得するのも不可能だと言うことだ。
「あー……何かヒントとかないのかい?」
答えは返ってこなかった。
怪訝な顔で女を見つめると、女は目を泳がせて、迷いながらおずおずと口を開く。
「……方法は、一つだけありました。吸血鬼に十字架が、狼男に銀の弾丸があるように、私たちにも唯一死ぬ方法が」
「なら、どうしてそれを試さないんだ?」
「試しは、したのです。けれど、駄目だった。だから、あの人は余計に血眼で、死ぬ方法を探しています」
「何か特別な条件があるのか」
また沈黙。先程撃たれた胸を押さえて、女は目を閉じた。
「……特別なことではないはずでした。ありふれた条件だったのです。けれど、私たちは駄目だった」
「その条件って言うのは?」
「……」
少しだけ迷った後に女はその言葉を吐き出す。
その安っぽい、ナンセンスな答えに、川瀬は思わず笑みを零した。
唐突に沸いた喪失感に、男は膝を折り、そのまま地面に膝を付いた。空を見上げその青さを確認して目を瞬く。
「あれ?」
声を上げ、男は俯いた。地面に手をついて、荒く息を吐き出して。噴出す汗もそのままに、よろよろと立ち上がる。
「……フレデリカ?」
男の視線の先にはただ石畳があるだけだ。だが男には、そこにある何かが見えているとでも言う風に石畳を睨みつけた。
「フレデリカ! どうして――」
言いかけて、首を横に振る。どうして、も何もない。確かめなくてはいけない。男は踵を返した。あの女のところへ行かなければならない。
だが。
「――ああ、本当だ。いたよ。言った通りだった。成る程」
陽気な声に足を止めた。
神父服姿の、黒髪黒目の見ない顔――
女と一緒にいた、若い警官が言っていた、神父服の日本人。
わずかに臭ってくるのは、血のそれだろうか。よく見れば、神父服はぐっしょりと濡れているようだった。――あれは、全て血液か。
「念のために聞くけどさ。あんたで間違いないよな? もう一人の不死者って言うのは」
「フレデリカは死んだのか?」
問いに、日本人はきょとんとする。だが、すぐに合点したと言う表情になり、
「――ああ、あの女フレデリカって言ったのか。
そうだよ。俺が殺した」
何でもないことのように言い、血臭をまとって無邪気に笑った。
「どうやってだ! 殺せたって言うのか? どうして!」
「どうしてって――あんたが決めたんだろう? あんたたちが死ねる唯一の死に方って奴をさ」
首を傾げて、こちらに歩み寄ってくる。走った怖気に、男は顔を引きつらせた。
「……会ったばかりのお前に、それができたのか。僕たちでも無理だったって言うのに!」
叫ぶ男に、日本人は笑った。男の肩を掴む。足から力が抜けたか、男はそのままへたり込んだ。その男を見下ろして、
「そりゃあ、お前たちには無理だよ。彼女はお前を愛してなかったし、お前は彼女を愛していなかったんだから」
……それが。
唯一無二、不死者の死ぬ方法と言う奴だった。
無造作に男の足首を踏み潰し、川瀬は男の目の前に跪く。不死の――そのはずの男は小さく呻いてこっちを睨み付けてきた。
「愛情って言うのは不変のものじゃない。どんな熱だっていつかは冷めるさ。死なない人間同士ならなおさらさ」
痛みのためかその目に浮かんだ涙を川瀬は指でなぞり、そのまま眼窩に親指を差し入れる。
「――俺だってそうだ。愛しくて愛しくてたまらなくても、いつかは薄らいでしまう。哀しいよな」
さすがに悲鳴を上げる男に笑ってみせる。ただ安心させるためだけのものだったのだが、男は歯軋りしただけだった。
「不死者は愛によって死に至る。面白い死に方を決めたもんだよ。お前は。本当に愛しているんなら、殺せるわけがないのにさ」
さらに指を押し込みながら、手の甲を流れる血に舌を這わせる。はっきりと男が嫌悪の表情を浮かべるのにも構わずに、川瀬はそのまま男に口付けた。舌を歯で捕まえて、ゆっくりと力を入れていく。
「は……」
男が小さく喘ぎ、鉄臭い熱っぽい吐息が吹き付ける。ぶつん、と言う音のような感触。川瀬は溢れ出た血もろとも、噛み切った舌先を飲み下した。
「……あぁ、やっぱり傷、治らないみたいだな」
少し残念そうに、しかし嬉しそうに呟いて、川瀬は男の目から指を引き抜き、血塗れた唇を拭った。
「まだ喋れる。遺言とかはある? 聞いてやるけど」
問いに。
男は片方だけになった青い目を見開いた。白い頬を、べたべたとした血が彩っている。
男は呆然としているようだった。口を開こうとして咳き込み、霧吹きのように地面に血の斑点が散る。
「……ない」
「うん?」
聞き取れず首を傾げると、男は首を傾げて首を横に振った。
「無い。何も無い。昔は考えていたかも知れないがね。これからの時間の長さに絶望して、初めて死ぬことを考えたあの時には――百年は少し長すぎたようだ」
笑っているような泣いているような声だった。ただ血に喉を詰まらせているだけなのかも知れないが。口調は百年以上を生きてきた老人のもののようだった。殊更に芝居がかった役者の口調だ。
「――何で死のうとなんか思ったんだ? 彼女がいたんだろう?」
「お前も千年を生きてみればいい。僕の気持ちが痛いほど分かるだろうから。
……お前こそ、どうして僕たちを殺そうと思ったんだ? どうしてお前は僕らを殺せる?」
問われて川瀬は肩をすくめる。
「分かっているんだろう不死者。
俺は特別でも何でもない。お前らを殺すために生まれてきたわけじゃないし、どこがおかしいわけでもないよ。
お前を殺すのはあの女に頼まれたからだし、あの女を殺したのはお前を本当に殺せるのか確かめただけだ。それに――お前を殺せる理由はもっと簡単だ。
俺はただ、人より少し惚れっぽいだけだよ」
言葉に。
男はぽかんとした顔をした。川瀬が首を傾げると、男は弾けるように、心底愉快そうに笑い出す。
「は、……ははははははは!
そうか、たったそれだけか……成る程、何ともそれは面白いな! そんなことか――そんなことで、僕たちは死ねるのか」
笑声から同意を求める声は声高に。最後の呟きは自嘲を含んで密やかに。結構な役者だった。黒い短髪に、今は片方だけになってしまった青い目。あの女の顔を思い出す。瓜二つと言うほどではないが、面影と言うには濃く、二人はよく似ている。
――ああそうか。こいつら。
男の肩に手をかけそのまま押し倒し、あまり肉の付いていない痩せた白い腹に爪を立てた。皮膚を抉り、首を伸ばして耳朶を舐り噛み千切る。耳元で、閨の睦言を囁くように。
「……失礼だな。そいつは愛なんか求めない」
「随分と勤勉だな、……
怪物が」
「そうかい?」
問い返し、川瀬は男の背に腕を回した。背に爪を立て、頬に歯を立てながら、ふと川瀬は思い出す。そう言えば、自分が初めに殺したのは男だったような気がする。あの男は、自分に顔が似ていなかったか。
川瀬は考えながら目を閉じる。いや、そんなことは、きっと今はどうでもいい。
血の匂いだけが辺りに漂っていた。
――数日後、病室のベッドの上。
目を開けると、目の前にでんと先輩の顔が広がっていたので彼は仰天した。
起き上がって額同士をぶつけ、彼と彼の先輩は同時に額を押さえる。
「いきなり起き上がるな馬鹿!」
「先輩こそ近すぎっす! て言うか――」
先輩の罵声に怒鳴り返し、彼はふと我に返った。
拳銃に撃たれて病院に運び込まれ、目を覚ましたのが次の日だ。この先輩はあの殺人鬼の顔を覚えてるからと言って、しばらく見舞いにも来れないと言うことだったのに。
「何かあったんですか? 忙しいって言ってたのに」
「ああ、あったよ。しかもとんでもないことがだ」
言いながら、先輩はくるりと彼から視線を逸らし、棚の上に置かれた小さなテレビの電源を入れた。
「今六時だからな。ちょうどニュースやってると思うけど」
果たしてそこに映っていた映像に、彼はぽかんと口を開いた。
時間は、川瀬が一時間かけてゆっくりと男を殺し終えた頃に遡る。
日の落ちかけた夕方、うっとりと死体を見下ろしていた川瀬は、ふと視線を移す。
「――見てたの?」
「ええ、見ていたわ」
年は二十歳ばかりだろうか、長い黒髪の茶の目をした若い女だ。ショルダーバッグに手を入れて、少し驚いたような顔で女は言葉を吐き出す。
「……貴方が、最近ニュースでやってる殺人鬼なの?」
「そうだよ――悲鳴でも上げるかい?」
血の匂いを漂わせ、川瀬が問うと女は首を横に振った。一歩二歩と川瀬に歩み寄ってくる。
眉を寄せ、川瀬は女の顔をまじまじと見つめた。気の強そうなその顔は、確かにどこかで見たことがある。
「……どこかで会ったかな?」
また女は首を横に振った。二度の否定に、川瀬は首を傾げる。女はもう川瀬の目の前に来ていた。
「貴方が殺人鬼なのよね?」
「そうだよ――それが?」
「なら」
川瀬の問いに女はショルダーバックから手を引き抜いた。手だけではない。女がその手に握っているのは。
「貴方が私の姉さんを殺したのよね?」
浮かべた表情は引きつった笑み、目に浮かべているのは涙。
女が手に持つナイフを川瀬の胸に突き刺すのをぼんやりと見つめて。
「――ああ、成る程、そう言うことか」
そこでようやく合点がいったと言うように、川瀬は苦笑した。
スポットライトが暗闇に一筋落ちている。
それを受けて佇むものが一人、誰もいない観客席を、笑みを浮かべて見つめている。誰もいない観客席からそいつを見上げる。
そいつは、ちょっと首を傾げてから手を大きく横に広げた。相変わらずの、演技めいた動作。
「不死者は愛によって死に至る」
その響きを噛み締めるように、そいつは少しの沈黙を置いた。
「それが何ともくだらない、この話の肝だ。実に――あいまいな条件だよ。吸血鬼に十字架やにんにくが、狼男に銀の弾丸があるって言うような、そんなはっきりしたものじゃない。愛。愛だ。
本当にそこに愛と言うものが存在するのか、なんて言うのは当事者にしか解らない――当事者にすら解らないし、愛と言うそれそのものがこの世界にあるのかも誰にも解らない。実にあいまいだ。
けど、それくらいでちょうどいいと思うね。人間って言うのは人生すべてが愛に縛られているようなものなんだから」
首を振り、そいつは腕を下ろす。
「親兄弟に対するそれや自分の子供に対する愛、物や動物にだって愛着が沸くとか言うしね――それもまた愛かな。少し広義すぎるかも知れないけれどね」
仕切り直すようにそいつは立ち直した。
「こうして不死の兄妹は死んだ。――あぁそう、二人はたぶん兄妹だったんだ。兄の望みは叶えられ、妹はそれより一足先に死んだ。一人の殺人鬼によって二人の物語に幕は下りた。
それじゃあ、その殺人鬼の物語は?」
首を傾げて、誰もいない観客席を見下ろす。
「まだ終わらない。まだ続く。殺人鬼が殺すことを止めるまで、――殺人鬼が、死ぬまで……うん。そうだ」
頷いて、そいつは顔を上げた。
「人を殺すって言うのは、神様に背いてるって思うだろ?」
それが最後の言葉だった。
照明が落ち、そこは完全な暗闇となった。
川瀬は目を開けた。
胸を押さえる。奇しくもそこはあの不死者の女が初めに撃たれた場所と全く同じだったが――そんなことも気にせず、川瀬は起き上がる。
血の匂いばかりが辺りに漂っている。痛みはなく、傷も既に消えている。
「――はっ」
思わず笑い、川瀬は立ち上がった。既に日は落ち完全な夜である。辺りを見回しても、既に死んだ不死の男しかいない。あの女は逃げたようだ。
「へえ、――こいつは驚いた。あの女、こんなことは言わなかったのにな」
血まみれの顔を拭い、自分の身体を見下ろす。つまりは。
――不死になった、と言うことなのだろう。自分は。
「こいつは面白いな。だからお前、あんなこと言ったんだ?」
身体の大部分がどこかに行ってしまったその死体に、川瀬は問いかけた。傷の消えた胸を押さえる。爪を立てると痛みが走った。それは人間と変わらない、ただ死なない。そう言うことだろう。
「お前らを殺したからかな? それとも肉を食ったからか? ――どっちでもいいかな。それは」
適当なことをぶつぶつと呟きながら、川瀬は歩き出した。
「……国外、逃亡?」
ニュースで報道されていたのは、この国とそう離れていない別の国で、数件の殺人があったと言うものだった。手口やあまりにも堂々とした殺人の時間帯から、イタリアの事件と犯人が同一であると判断されたらしい。
説明を求めて彼が先輩を見ると、先輩はため息混じりに肩をすくめ、
「奴さん、この国の前にも数か国で殺人を繰り返しててな。その度に運良く逃げおおせて流れに流れてこの国にやって来たってわけだ」
「で、今回も……ってわけですか」
頷いて、先輩は首を振る。
「ああ、全くおっかない女だったよ。
どうしてあんなのを、神様はお見逃しになるのかね?」
全くだ。だから世の中は、神様と言うのはよく分からない。
若い警官はいまだ痛む肩を押さえ、愚痴に入った先輩の言葉を聞き流しながら、ぼんやりとそう思った。
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