「これは義務だよ。僕がお前を、お前が僕を愛する限り、お前に課せられる義務――つまるところ、お前が生きるその限りのね」
 朗々と、殊更に芝居がかった様子で男が言った。口元を笑みの形に歪め、腕を大きく広げて、男は目の前に立つ女を見つめる。
 女は無表情である。何を思っているのか、そこからは汲み取ることはできない。よくできた人形のように全く表情を変えないまま、女は俯いていた。
「――私が貴方を見捨てるとは思わないのですか?」
「そんなことは思わないね」
 早足に男は女へ歩み寄った。それほど距離があったわけではない。ものの数歩で男は女の隣に並ぶ。
「お前は僕から離れては生きていられない。僕を忘れることもできない。」
 傲慢な発言にも女は顔一つ歪めなかった。男は笑んだまま、女と背中合わせになるようにさらに数歩前へ進む。
「……あと何度繰り返せばいいのですか? 何度繰り返せば、貴方の心は安らぐのですか?」
「決まっているさ」
 少々語気を強め。言って、男は俯いたままの女を視線だけで振り返った。口元に浮かぶ笑みは張り付いた強張ったものにも見える。あるいはそれが男の無表情なのかも知れない。長い間浮かべていた作為の笑みが、そこに定着してしまったような。
「何度でも、何度でも何度でも永遠に。全てが終わるまでだよ、フレデリカ。全てが今よりほんの少しばかりまともになれば終わりだ。それがいつ来るか、僕にもお前にも分からないだけさ」
「――もう無理です。
 いいでしょう。十分でしょう。今までだってずっとそうだったじゃあないですか。無理なのです。戻りはしない。もう戻らない!」
 絶叫は反響し余韻を残して消える。
 その叫びを最後に、二人の間に沈黙が落ちた。
 耳の痛くなるような静寂。
 女が瞼を落とし、男が笑みを消し、そうして。
「――それでも」
 静けさを破る一言はひどく小さかった。男は懐から拳銃を取り出した。玩具のように黒く煌く銃を軽く掲げて見せる。
「繰り返す。時間だけはあるんだ。僕にもお前にも。解るだろう?」
 言って男は腕を伸ばす。銃口を女に向け、上に向けてから、ゆっくりと自分のこめかみに押し当てて。
「さぁ、これが合図だ」
 銃声。女は悲しげに眉を寄せて,血の尾を引きながら男が笑みを浮かべて倒れていくのを見ていた。
 照明が落ち、辺りは完全な暗闇になる。




Amor est vitae essentia.




 ついていない。全く以って自分は何て運が悪いのだと川瀬は嘆いた。神父服を慌しく着込み、床に落ちた十字架を拾い上げる。
 礼拝堂。ステンドグラスが太陽光を通して淡く降り注いでいる。その最奥に川瀬が立ち、そしてその横には小柄な老人が後ろ手に縛られ、猿轡を噛まされて転がっていた。川瀬が着ようとしている服は当然だがこの老人のものだった。
「あー畜生ッ、ついてねぇ、ついてねぇついてねぇ! イタリアくんだりまで来てこんな……あぁ、だからそうだよ。やめとくべきだった。畜生、そうだよ。何で俺はいつもこうやって……だからいつまでもガキなんだ俺は。畜生……」
 もがく老人を蹴り飛ばし、川瀬はひたすらに毒づいている。老人はしばらく悶絶した後、急におとなしくなった。
 その間にも川瀬は神父服を整えて、ロザリオを大仰な動作で首に引っ掛ける。見た目には、やせ気味の目つきの悪い若神父である。
「アーメン、アーメン、と。お? 意外になかなか……似合ってるよな? 俺」
 そこには川瀬と猿轡を噛まされた老人しかいなかったので、当然答えは返ってこなかった。川瀬は一人でただ何度も頷いて、屈み込んで老人の顔をのぞき込む。
「あー、神父様? 安心して下さい。俺だってまさか神父様を殺そうなんて思いやしませんよ。ちょっと警察をやり過ごすだけですから。本当にね」
 子供のようににっと笑い、川瀬は立ち上がる。辺りを見回して彼は少し考えてから、
「そうだな――確か、地下に書庫がありましたよね? たかが二日や三日です。少しだけ辛抱して下さい? 聞いてますか、神父様?」
 何も言えない老人を川瀬は軽々抱え上げる。
 かくて、似非神父は礼拝堂から早足で出て行った。




 制服警官が二人、洗濯物のかかるロープが張り巡らされた路地裏を歩いていく。一人はひょろっとした背の高い青年、もう一人は背の低い体格のいい男で、どちらも同じぐらいの年代だ。二人ともしきりに辺りを見回してどうにも落ち着きがない。
「いないっすねぇ、先輩。あの中国人チネーゼ、どこに行ったんだか……」
「いや、ありゃ日本人ジャッポーネだったよ」
「そうでしたか?」
 問われて、先輩、と呼ばれた小柄な男は唇の端を持ち上げてみせた。
「そうだよ。――ま、何人でもいいやな」
 言ってから顔をしかめ、
「逃げ足の速い奴だったな。あっという間に逃げやがった」
「……先輩の靴紐が解けなきゃ、追いつけたかも知れないですけどね」
 厭味っぽくぼそりと呟いた青年に向けて、先輩はむっとした顔を作る。
「馬鹿お前、そんなはずねェだろ。あいつが滅茶苦茶素早かったのよ」
「そうですかね」
「そうよ」
「……こっちの方に逃げてきたはずなんですけどねー」
 何故か自慢げに胸を張る先輩はもう無視することにして、青年は辺りを見回した。
「あっちの方は行き止まりだったよな?」
「えぇ、完全に。回りも家ばっかで壁を乗り越えていけるわけもないし、別の通りに入った感じもないし、ここら辺のどこかにはいるはずなんですけどね」
「案外、どこかの家に隠れてるかも知れないな」
「人質取られたら厄介ですね」
「っても、こっちにゃ入り口がないから、窓から入るしかないんだけどよ」
「そんなの小ちゃい女の子だって叩き落せますよねェ」
 軽く言い合いながら、青年は立ち止まってふと上を見上げた。目に痛いほどの青空を、白いシーツやシャツが遮っている。入り口が――なかったろうか。全部の家に?
「……この先に教会がありましたよね。確か」
 呟くと、あぁ、と先輩が返してきた。
「爺さん神父が一人でいる、寂しいところだ……」
 言葉は途中で止まる。
 顔を見合わせて、青年と先輩はやがてなんとも言えない笑みを浮かべた。
「……そこかな?」
「どうでしょう。本当に窓によじ登ったのかも知れないし」
「一応、調べとけってことか」
「です、ね」
 苦笑して。
 そして二人は歩き出した。




 スポットライトが暗闇に一筋落ちている。
 それを受けて佇むものが一人、誰もいない観客席を薄暗い表情で見据えている。誰もいない観客席から男を見上げる。しばしの時間がその場に流れる。ただ、静寂。だが。
 だが、ふとそいつは口を開いた。
「――昔、不老不死を夢見た者たちがいた」
 台詞を読み上げるようなわざとらしい、よく通る呟き声だ。長い前髪とそれが作る影は、そいつの鼻から上を客席から完全に見えなくしていた。目の色も分からないそいつは客席を真っ直ぐに見詰めている。
「老いることからも死ぬことからも解放され、とこしえに生き続ける。誰もが夢見るような夢だ。大昔から不死者は神話や物語の中に登場してきた――」
 独白、演説、講義……どの演技なのか。それは本人にしか分からなかったろう。監督も脚本家も演出家もそこには存在しない。物語なんてものはないのだ。
「不死を夢見る。それは何らおかしいことじゃない。醜く老いたくない、死にたくない――人間にはお馴染みの思考だ。老いたくないと言う考えは子供の安っぽい早世願望にも結びつくし、死にたくないなんて言うのはそれこそ当たり前だ」
 ここにはいない誰かを――あるいは存在しない観客の誰かを、それとも自分自身を――嘲弄するように、語る。
「……だけど、実際に死ななくなってみたらどうだろう? どんなことをしても絶対に死なない身体になってみたら?
 そのうち死なないのではなく死ねないと言うことになりかねない。何せ頭を吹っ飛ばそうが心臓を潰そうが焼かれて灰にされようが死なないんだからね。
 きっとそのうち気が狂う。
 死ぬこともできず世界のどこかでずっと永遠に世界が終わるまで生き続けているしかない。不死者が死ぬ方法なんて存在しないんだ。そんな方法があるのなら、それは不死者ではないからね」
 俯いて肩をすくめる。笑みを消し、沈黙を置いて、そいつはふと顔を上げた。一切の表情を顔から消し去って。
「……そんなはずがあるか」
 ぼそりと呟いた。今までの口調とは違う、ひどく感情的な低い声音。
「そんなはずがあるか!」
 舞台を震わせるような怒号。胸を押さえ、客席を睨みつけて叫び続ける。
「どこかに、どこかに手段はあるはずだ。不死者が死ぬ方法が! それが例え、いるとも知れない神に背くものだとしても構うものか。それならとっくに造物主に楯突いた。
 この苦しみが、その報いと言うのなら!」
 そこでそいつはふと落ち着きを取り戻したようだった。険しい顔を緩め表情を消してから、作りものめいた挑戦的な笑みを浮かべて、
「それならば――もう一度主に牙を向こう。どんな外道の法だろうと、死ぬためならば構いはしない。何故なら」
 そこで間が置かれる。
 声の残響すら消え失せ、沈黙が静寂が、その場を支配してしばし。
「――狂うよりは、きっとずっとマシだからだ」
 照明が落ち、そこは完全な暗闇となった。




 戻ってきたら女が一人いたのでかなり驚いた。もっと言えば、息が止まるかと思った。実際、叫ぼうとして口を押さえ、息をするのを忘れて窒息しそうになると言った始末だったが――とまれ。
 川瀬は地下室からの階段を登りきる前に立ち止まり、手すりからそっと相手を窺った。
 美女である。短髪の黒髪、猫を思わせる青い目をした女。礼拝堂の入り口に突っ立って、ぼんやりとステンドグラスを見つめている。本当に綺麗な女だった。まだこちらには気づいていないようだ。そもそも、向こうからはこちらは見えないか……それにしても。
 ……まずいかな。
 口を覆っていた手を胸に当て、ロザリオごと服を握り締めて川瀬は俯いた。
 どうせ誰も来ないと思っていたからここに潜むことにしたのに。こんなに早く人が来るものなのか。教会と言うのは――閑古鳥が住みついているものだと思っていたのだが、甘かったようだ。
 どうするか。
 荒く息を吐き出して、川瀬は目を閉じた。ここなら誰も来ない……今はこの女と自分だけだ――
 と。
 足音が、礼拝堂の中に鳴り響いた。
 女がこっちに――ステンドグラスの方に、礼拝堂の奥の方に歩いてくる。見つかる――そう思う前に、川瀬は階段を後ろ向きに降り始めた。
 見つかったらまずい。女がこの教会の常連でも、初めて来た奴だとしても。ああしまった。どうしてよりによって女なんだ。相手が男だったなら、まだ誤魔化すこともできたのに。思いながら――
 ぐらりと身体が後ろに倒れかけ、川瀬は息を呑む。焦っていたせいで足を踏み外したのだ。しまった。落ちる。
 そう思う前に身体が動いた。何とかバランスを取ろうと手すりを捕まえて、段を踏みしめ、前のめりになる。
 何とか倒れることだけは回避して、ほっとしたのもつかの間。
「誰かいるの?」
 思えばそれもナンセンスな問いだったのかも知れないが。
 バランスを取るために段を踏んづけた時に、思い切り音が鳴っていた。それを女が聞き逃すはずもなく、誰何の声がこちらに降ってくる。川瀬は自然と笑みを浮かべた。
 ……そうだ。
 こっちに来い。
 だが。
「神父様?」
 ……声は女のものではなかった。
 男のものだ。それも、若い。
 こちらを見下ろす寸前だった女が、くるりと入り口の方を向いた。下からこっそり見上げているだけで、女の顔がわずかに強張るのが解る。
「――おや、貴方は?」
 横柄だが丁寧、と言うわけの解らない口調を操る若い男は、女に向かってそんな問いを発した。腰が低いと言うのに偉そうと言う意味不明な高等技術。しかし腹は立たないのが不思議な、そんな声。
「――お祈りに来たのですが、神父様がいなくて」
 女の答えはぼそぼそと小さく聞き取りにくい。近くにいる川瀬ですらそうだから、入り口の方にいる男は大分聞き取りづらかったろう。
「しかし、若い女性が出歩くなんて感心できませんな。最近のここら辺の事情をご存じないので?」
 男がこっちに歩いてくる。一人かと思っていたのだが、足音から察するにもう一人後ろからついてくるようだった。
「いえ、……何かあったのですか? 刑事さん」
 その女の言葉に、川瀬の心臓が跳ね上がったのは言うまでもない。それから。
「殺人鬼ですよ。白昼堂々、貴方くらいの年頃の女性ばかりを狙う凶悪な奴です」
 続く男――刑事の言葉にも。
 それを聞いた瞬間、川瀬は迷わず階段を駆け上がり、後ろから女を羽交い絞めにした。なるほど、確かに濃紺の警官服を着た男が二人立っている。一人はチビで一人はのっぽ、見事な凸凹コンビだった。さっき川瀬を追ってきた警官連中の中で、やたら足が速かった二人だ。
「お前、さっきの!」
「穏便に行こうぜ無能警察。一歩でも動いたらこの女の首が圧し折れる」
 凹、もとい背の低い方の警官が、小さく呻いて黙った。背の高い方は表情も変えず、じっと川瀬と女を見ている。
「……そうそう、それでいい」
 女はもとより抵抗する気がないようで、叫びもせずにじっとしている。少々意外だったが、暴れられるよりはマシだ。
「そうだ、さっきの女の子って婦警さんだったのかな?」
「……そうだよ」
 答えたのは背の高い方だ。打って変わって眉を吊り上げ険しい表情。怒らせたか。
「悪いけど、思いっきり蹴っちゃってごめんね、って言っといてくれる?」
 のっぽの警官は頷かなかった。
 川瀬はにやにや笑ったまま、
「んじゃ、追ってくるなよ」
 言って警官二人に背を向けないように、女を連れて礼拝堂から出た。




「貴方は、人殺しなのですか?」
 問われて、川瀬はきょとんとした。人質にされている女が全く平静な表情で、そんなことを聞いてくるとは思ってもみなかった。
「うん。そうだなァ、……そうだな。人殺しだよ。色んなところで色んな奴を殺した」
「女ばかり狙うと聞いたのですが」
 さっきの警官の話か。思わず川瀬は女の首に回していた腕を解き、まじまじと女を見た。改めて見ても美人だが、無表情すぎる。先程からぴくりとも表情を動かさないのは、いっそ不気味だった。
「どうしたのですか?」
「……いや」
 我知らず川瀬は額を押さえる。疑問の声を発する時にも、眉をひそめすらしない。
 大したと言うよりは、変な女である。
「……女ばっかり殺してるわけじゃないさ。その気になれば男も殺すよ。子供だって爺や婆だって殺すし」
 そうなのですか。そう興味深そうに女は声を漏らした。変な。妙な――女である。解放されたのに逃げる様子もなく、前に立ってまっすぐ川瀬を見つめてくる。不気味な程の無表情で。
 初めはうわべだけのモノだろうと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「どうして――殺すのですか?」
「どうしてそんなことを気にするんだ?」
 反射的に問い返せば、女はそこで初めて眉を寄せ、困ったように、
「……好奇心クリオズィタ
 そうですか、と今度は川瀬が呟く番だった。思わず頬が引きつる。あからさまな嘘だが。
「どうして、人を殺すのですか?」
 ……まぁ、いいか。
 重ねて問われ、川瀬は嘆息した。女が何を考えているのかは分からないが、何を考えていたとしても自分には関係ない。
「趣味――なのかな。よく分からない。気づいたらこうなってたからな」
 答えは、我ながら間が抜けていた。女は眉を寄せ、ひどく哀しげな顔をして。
「誰でも殺すと仰いましたね?」
「言ったけど、それが何か?」
「お願いします。あの人を――」
 その先は聞こえなかった。女の胸に赤い穴が開いたと思った瞬間、女は口から血を溢れさせ、うつ伏せに倒れる。
 だが。
 ……殺して。
 口の動きを読み取って、呟いた唇を指でなぞる。唐突な、意味不明の殺人依頼。それを噛み締めて――
 川瀬は顔をしかめた。




「行っちまったなぁ」
 閉じられた扉を見つめ、彼はぽつりと呟いた。どっちに逃げたかすら分からない。何て失態だ。殺人犯を目の前にして、みすみす逃がしてしまうなんて。
「……人の彼女を蹴り飛ばしておいて、何が謝っといて、だ、あつかましい……」
「お、怒ってるな」
 横で俯きぶつぶつ呟く後輩に視線を向け、彼はにやにや笑う。と、後輩はさっと顔を上げ、眉を吊り上げて、
「そりゃ怒りますよ! 絶ッ対捕まえますよあいつ!」
 鼻息を荒くして言ってくる。からかってやろうかとも思ったが。多分本気で怒るだろうからやめておこう。
「――しかし、今のお嬢さん美人だったよなぁ……」
「早く行かないとあの人も殺されちゃうかも知れませんよ!」
「そうか。じゃ、全速力だな。二手に分かれよう」
 俺は右に行くから、お前左な。言って、彼は足を踏み出しかけ……ぴたりとそこで動きを止めた。
「どうしたんですか? 先輩?」
 不思議そうな顔で聞いてくる後輩を振り返り、彼はひどく深刻そうな顔をした。
「あいつ、追ってくるなって言ったよな?」
「そうですね」
 頷く後輩に、彼は沈黙を置いて。
「……追ってったら、あのお嬢さん、殺されちまうんじゃないのか?」
 礼拝堂の中に、久しぶりに静寂が訪れた。眉を寄せ、実に奇妙な表情で――変な顔で沈黙する後輩は、おずおずと口を開き、
「そうすぐには殺されないと思います。殺したら、人質いなくなっちゃいますし」
「そうかなぁ……」
「いや、先輩。早く追いましょうよ。早く行かないと、逃げられちまいますよ」
「でもな、警察としては女性の安全を」
「女性限定ですか。むしろそれならなおさらさっさと追わなきゃ!」
 後輩の言葉に、彼は首を傾げる。追ってもあの女性は殺されるかも知れない。追わなかったら殺されるだろう。……なら、どうするべきだろう。
「先輩! 行きますよ! セーンパイ!」
 なおもぶつぶつ呟きながら、彼は後輩に背を押されて、のろのろと礼拝堂を出て行った。




 死んでるよな、と女の身体を蹴り飛ばして上を向かせ、川瀬は首を傾げる。あまりにもいきなりのことだったので、驚くよりもまず何かおかしい気がしてしまう。
 女は目を開いたままだったが、口から血が毀れ左の胸から未だ血が噴出しているこの状態では、死んでいないと思うほうが難しいだろう。石畳に血が広がっていくのを見つめて、
「……どうしよう?」
 屍の傍にしゃがみ込み、とりあえず呟いた。
 人質がいなくなったのはまぁいいし、自分がこの女を殺したと思われても別に構わない。銃にサイレンサーを付けていてくれたのには感謝しよう。だが、どうして女はいきなり撃たれて死んだのか?
 ……どうでもいいか。
 わりかしあっっさりと川瀬は結論した。知ったところでどうにかなるわけでもない。詮索しても得はないだろう。
 女を撃ったらしい若い黒髪の男は、川瀬には目もくれず踵を返してさっさとどこかに行ってしまった。はて、イタリアは銃所持が禁止されているはずだったが。あれがこの女が言っていた「あの人」だろうか。
 まあ、とにかく、唐突な別れである。
 石畳の上に広がる血だまりと、女の死に顔を見て、川瀬はややしんみりとして。
 女がいきなり起き上がったので驚いた。
「おっ」
 声を上げると、女は川瀬と視線を合わせ、
「……」
 ぽかんとした顔をする。どうやら驚いているらしいが、多分こっちはもっと驚いている。川瀬は何も言わない女をしばらく無言で見詰め、
「……ちょ、ちょ、ちょちょ、ちょっと待て」
 どもりながら膝を突き女の胸に手を当てる。柔らかい胸の感触を確かめる間もなく、服を両手で掴み、そのまま左右に開いた。
 びり、と布が破け、肌が露わになる。乳房に腹に鎖骨に肩――どこにも銃創がない。ただまだ生暖かい血のぬるりとした感触だけが生々しかった。
「……あの……」
 控えめな女の言葉に我に返る。何やってんだ俺と自分を責めながら川瀬は掴んでいた服だったものを元の位置に戻した。が、当然破れた布が元に戻るはずがなく、女の白い肌が布の間から覗いている。
「その……今、撃たれたよね?」
「……はい。ですが、大丈夫ですから」
「いや、大丈夫って……」
「傷も――消えているでしょう?」
 苦笑して、女は胸を押さえて立ち上がった。顔をしかめて、川瀬は立ち上がる。
「……そうだね。確かに……」
 違う、納得してどうする。
「じゃなくて! 何で治ってるんだ!? て言うか、何で今撃たれたんだ!?」
「一つ、よろしいでしょうか」
「……何?」
 首を傾げて聞いて来る女に勢いを削がれ、川瀬は肩を落として息をつく。女は首を傾げて、
「教える代わりに、先程の頼みを聞き届けていただきたいのですが」
「ああ――だれそれを殺して欲しいって言う奴? 別に構わないけど」
 すぐに頷くと、女は顔をしかめた。殺して欲しいと言ったのは自分のくせに。思う川瀬を前に、女はすぐに無表情になる。
 次いで女が吐いた言葉に、川瀬は口をへの字に曲げた。




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