あふれてくるのは悔しさ、悲しさ、怒り――そして。
すまない、と。
ただすまないと。それだけ謝りたくて。
――でも謝れずに。
謝れるはずがないのだ。
……謝れるはずがないじゃないか……
愛してるといったのに。
守って見せると思っていたのに。
救われていたのはいつも自分だけで。
彼女を死なせてしまって。
謝れるはずがない。
守れなかったくせに、謝れるはずがないじゃないか……?
世界が震える
瞬間
――鏡に映っていたのは、顔色の悪い男の顔だった。
自分の顔。
……
「情けねぇ面……」
口の端に自嘲の色を浮かべて呟くと、彼は鏡に手をつき、ため息をついた。
セレンティア。悪夢のような事件が起こり。自分はそこから逃げ出してきた。それから少し。少しだけ経って。
あの街から大分離れた小さな町に、自分は宿を取っていた。
忘れようと思った。
やり直せるはずもないけれど。
でも、忘れようと思った。悪あがきのように。
――けど。
忘れられない。
どうしようもない。
吐き気がする。
『――にならないで。』
声が響いた。
自分だけにしか聞こえない声――否。
自分しか聴いていない声。
あいつが言っていた言葉。
『嫌いにならないで。ヒトを――』
嫌いにならないで。
呟きは幾度も幾度も繰り返されて、そしてやがて彼女は息を引き取った。
ヒトを嫌いにならないで。
最期の願い。
最期の言葉。
――
「無理だよミリーナ……」
鏡に触れる手に力を込める。
ぱき、と音を立てて鏡に無数のひびが走った。
……ぱたり。
そのひびを伝って流れたものに怪訝な顔をして、掌を見る。
手が切れて、ぽたぽたと血が垂れていた。
痛みがない。
ただ血が流れるだけだ。
このまま血が全て外に出たら、自分は死ねるのだろうか?
このまま、逝……
……ッ……
血の流れる手で、口を押さえた。
「ぅっ……ぇ……」
吐き気がする。なんで。
……なんで彼女が死ななきゃならなかったんだろう。
血の流れる手に『
治癒』をかけることは、その晩とうとうできなかった。
朝。
食堂で、食べたくもない朝食をフォークでつつく。
……そういえば、昨日は何か食べ物を口に入れただろうか。一昨日は。その前は?
生きる、という行為について、全く興味が失せてしまったようだった。
『それ』を実感するのは、時々訪れる吐き気。それに――彼女の最期の言葉。
褪せていく記憶の波の中で、より鮮明に、鮮烈になっていくのは、彼女との思い出ばかりだった――特に、あの四人でつるんでいたときの。
これは皮肉かもしれない。忘れたいはずの彼女との思い出が、より強くなっていく。
「……」
ため息が漏れた。
『ため息をつくと、幸せが逃げていくのよ』
「……そんなことも言ってたっけな」
聞こえてきた声は、あまり迷信などを好まない彼女が、笑いながらそう言った時のセリフだった。
自分がふと呟いた言葉にぎょっとして、ウェイトレスがせかせかと通り過ぎていく。
……
彼は立ち上がった。
「……食わねぇのに金払うのか、割りにあわねぇな……」
そう呟いてでもいなければ、どうしようもなくなりそうだった。
――結局その日も、何も食べなかった。
生きているのか、死んでいるのか、だんだん解らなくなっていくような気がした。
忘れようと思っている……それも嘘だと思えてきた。
……忘れたくない。
彼女と共にいた思い出を忘れたくない。
自分をあの地獄から引きずり出してくれた、救い上げてくれた彼女を、忘れられるはずがないのだ。
……本当に。
すまなかった。謝りたかった。
けど――
彼女はもういない。
いない。
……
頭から布団をかぶって、彼は静かに嗚咽した。
……吐き気が……する。
「………」
何か食べないと身体に悪いから、と、結局今日も朝食を食堂で注文する。
けれど食欲がない。普通なら幾日も何も食べていない自分の食欲をそそるはずのハムエッグも、自分の目の前でただ冷めていくだけだった。
……気持ち悪い。
また吐き気がする。日に日に強くなっていく。
そして。
『――苦しいか?』
初めて、ミリーナのもの『ではない』声が聞こえた。
「――!」
目を見開いて辺りを見回す。広くもない食堂はあまり流行っていないようだったが、それでも数人か客はいる。しかし、声は聞こえていないようだった。
(……ついにおれは狂っちまったってのか?)
顔を歪める。
だが。
『――苦しいか?』
声はまた聞こえてきた。
『苦しいか。悔しいか。憎いのか。世界が? 自分が?』
「誰だ……」
呼吸が荒くなっていく。声は問うているのだろうか。確認しているのだろうか。どちらとも取れるし、どちらとも取れない。
「……誰だ!」
『お前の中にいるもの――そして今お前が呼びさました――否』
我は目覚めていた。とっくに。しかし。
――今完全に。お前に話しかけられるまでになった。
自分の心の中で声が響いた。
どくんっ……心臓がはねた。動いているとも疑わしかったのに。
「誰だと……聞いている……」
声は我ながら乾いていた。解りつつある。この声が、誰なのか。
しかし、認めたくない。
『――人間よ。世界を憎むのであれば、滅ぼしたいのであれば、我の力を欲するがいい。力を貸そう。望みさえ、すれば』
「……」
誰なのか。これが何であるのか。自分は知っている。
これは。
『赤眼の魔王……汝らは我をそう呼ぶ』
やはり……
どくんっ、どくんっ、心臓の音がいやに大きく、早く聞こえる。……
『今一度、聞こう。人間よ。世界が――憎いか?』
……
「正直言って解らねぇ……」
ワンテンポおいて、彼はため息混じりに、そう呟いた。
「……けど――そうだな。
俺は死にたい――だが、まだ死ねない。だから……」
……世界を滅ぼすことで、彼女に会えるのなら。
「…………」
そしてふと、目を見開いた。しばし考えるように下唇を噛み締めて、やがて――
思わず、口の端に笑みを浮かべながら、
「―― 一つ、条件があるんだ」
――儀式だ。
簡単な儀式。俺が世界と決別するための。
簡単な――
そして。
びくんっ――
世界が。
震えた。
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