リナ=インバースが『魔を滅すものデモン・スレイヤー』の称号を得てから、既に五十年の月日が流れていた。
 長い年月の中でも、一時期拮抗を崩した神と魔の争い――第一次から第三次までの神魔戦争でも世界は滅びず、かといって魔族もいなくならずに、時間は流れていく。
 『赤の龍神の騎士スィーフィード・ナイト』ルナ=インバースは、四十年も前に覇王とその部下四名全員を相手取り――死んだ。覇王は未だ健在で、部下は二名、その姿をうつつにとどめている。
 憎悪に狂ったリナを生に引き止めたのは、彼女の夫――ガウリイ=ガブリエフだった。
 ――その彼も、三年前、命の灯火を消している――若き日に、魔族との戦いで負った傷が、その時になって彼の身体を蝕んだのだ。
 それから三年の間、彼女は何をすることもなく、ただの『ヒト』として生きてきた。
 町々から遠く離れた、辺境の平野に、家を建て。
 週に二、三度来る行商に、野菜を渡し、代わりに魚や野菜、香辛料などを受けとって。
 畑を耕したり、生きるための作業のほかには何をすることもなく。
 静かに。
 ――自分には、神も魔も関係ないと、その身で示すかのように。
 夫が存命だったときには魔力で若々しい姿のままいたのだが――それももう、やめて、皺だらけの顔に、穏やかな表情を浮かべ、長い髪は大部分が白くなっている。
 穏やかな老婦人。
 それが、今のリナ=インバースの容姿の印象だった。




辺境の平野




 行商は、彼女の場所に来るたびに、毎度毎度こう言った。
『町に降りないんですか?』
 彼女は寂しげに微笑んで、ただ首を振るだけだった。


「ガウリイ、ガウリイ、洗濯物取り込んでくれない――」
 家の中に向かって言いかけて、リナは眉を寄せた。
「………そっか。ガウリイはもういないんだっけ――」
 苦笑して、自分で、『二人分』の洗濯物を取り込む。
 ふと、空を仰いで目を閉じた。
 鼻から息を勢いよく吸ったのは、涙をこぼれないようにする為だった。
「やだねえ――歳を取ると記憶力が悪くなったり、涙もろくなったりするって言うけど――」
 リナは誰ともなしにそう呟くと、自分で取り込んだ洗濯物をたたみに、家の中に入っていった。


 自分たちに刺客を多量に差し向けていた魔族たちも、はたまた自分たちを魔族に勧誘しにきていた魔族たちも、その両方が、いつの間にか来なくなった。

 ――もうお前は、魔族に対抗する術を持たない――

 そう魔族に宣言されているような気がして腹が立ったものだったが――それも昔のことだった。
「ガウリイ」
 ただ、ただ一言。
 そう呟く。
「あたしは、生きてるよ」
 誰もいないのに。
 いるのは自分だけなのに。
 誰かに呼びかけるかのように、彼女は呟き続ける。
「昔は自分のために生きていたのに、ね――」
 今――ここ数十年にいたって、神と魔の状態はまた、拮抗を保っていた。
 神側は、地竜王と『赤の龍神の騎士スィーフィード・ナイト』を失った。
 魔族は、覇王神官と覇王将軍をひとりずつ、ルナの手によって失っている。
 神側――正確には生きようとする存在ものたちのサイドから、リナという存在がいなくなるだけで、その拮抗は崩れる。
 魔族は、リナが万が一自分たちに対抗し、また多くの高位魔族を失う可能性を警戒して、仕掛けては来ない。
 神側は、自分たちから攻撃を仕掛ける必要はない――だが、リナがいなくなれば魔族に攻撃をするだろう――自分の死を魔族のせいにすれば、味方全体の士気が上がる――そういう思惑だ。彼らをいつも導いていた『赤の龍神』は、もういない。その残滓すらも、失せた。
 ゆえに、自分は今死ぬことができない。
「――あたしは、今他人のために生きてるの」
 呼びかけは続く。
 誰に向けてのものかは明確だったが、『それ』は今ここにはいない。
「あんた、前言ったよね。あたしが人のために、利益なしで動くなんて珍しいって――」
 風が、吹く。
 白髪混じりの栗色の髪をなびかせて、リナは呟きつづける。
「じゃあこれは、かなり珍しいと思わない……?」




 『ねえ、ガウリイ――』




 闇が、辺りを包み始めていた。
 少し寒いな、と思いながら、リナはまた空を見上げる。
 紅い夕焼けと夜の青が交じり合って、不思議な色合いを保っていた。
 そして。
「ゼロス」
 リナは今度は、現実にいる存在ものに呼びかけた。
 果たしてそれは――応えた。
 苦笑の響きがかすかに混じる、少々高い男の声。
「……見つかってしまいましたか」
「二十年ぶりかしらね」
 現れた黒き神官に、リナは少し微笑む。
 記憶の中にある姿と全く同じ。
 ――変わらない。
 長い長い時の中で。
 唯一、変わらないもの。


 ――変わってはくれないもの。
 ――変わらないで、いてくれるもの。


「ガウリイが、死んでからかしらね――」
 リナは遠い目をした。その瞳はまた、神官――ゼロスではなく、他の誰かを見つめている。
「『あの人』が死んでから、精神世界面アストラル・サイドが――見えることに気づいたのよ」
 言葉に、ゼロスは満足そうに頷いた。
「あのひとは、あなたを人間に引き止めていたんです。
 魔族はそれがわかったから、あなたを勧誘したりしなくなった」
「戦いという極限状態の中で、あたしの中に在る『魔』を目覚めさせようとした――か。
 勧誘がなくなってからも攻撃が続いたのはそのせいか――」
 リナはため息をついた。
 五十年前だ。
 同じような話を、もう亡き――彼女が殺した友人ルークから、聞いたのだ。
 もっともあの時、その『魔』は彼女の中にあったのではなかったのだが。
 闇が、濃くなる。
「リナさん。
 二十年前の問いに、もう一度答えをくれますか?」
「『僕と一緒に来ませんか?』――だったかしらね。
 答えは――ノーよ」
「そう――ですよね。やっぱり」
 解っている答え。あるはずのない了解イエス――二十年前と同じ。
 ゼロスは苦笑した。
「……僕はあなたに、一緒に来てほしいんです」
「あたしが戦力になるから?」
 からかうような問いに、ゼロスは黙って微笑んだ。
「……あなたは変わらない――変われない――
 変わっては、いけないんです――あなたは」
「あんたのために、変わらないわけじゃあないんだけどね。
 問いの、答えも」
 リナは笑みを消した。
「――あたしはやっぱり」
 息を、吸う。
 ためらうようにうつむくと、大きく、息を吐いて。
 やがて、何かを決心したかのようにゼロスを見た。
「自分のために生きている」
「それが、あなたの答え、ってわけですか」
 黒い神官は、苦笑して頬を掻いた。
 人間の心を動かすことなど、容易だと思っていた。
 ――だが。
 彼女の心だけは、動かすことができない――
「僕は諦めませんよ」
 ゼロスは、リナに微笑みかけた。
「あなたに強制はできない。
 でも――あなたがイエスと言ってくれるまで、僕は――」
 その先を言わせずに、リナはくるりと背を向けた。
 哀しげなその夜色の瞳を、視界に収めないために。
 ゼロスは少し寂しそうな顔をして、その姿を闇に溶け込ませ――消える。


 リナは空を見た。
 闇が。
 辺りを包み始めていた。


 『ねえ――ガウリイ』


 そしてまた。
 彼女は死した伴侶への呼びかけをはじめる――




 闇の中でほとんど視界が利かぬ中で、肌寒い風がさわりと、流れた。
 時は――
 いつもと変わらずに、刻まれていく。




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