NECとの出会い
岩崎 由純(自分の話かよ)
韓国でのテーピング講習会を終え、帰国して間もない冬のある日、突然、自宅の電話がなった。「NECの○田ですが、岩崎さんですか?」とっても落ち着いた感じの男性は、ゆっくりと語り始めた。その男性の経歴、そして僕との関わり、そして最後に一緒に鹿児島に飛んで欲しいと…。その話の全てを聞いた後で僕には、鹿児島行きを拒否することはできなかった。と言うよりもお願いしてでも行かなければと言う気持ちになっていた。
1985年の秋に帰国する前の1年間、アメリカのオリンピックトレーニング・センターでインターンとして活動していた。その期間中にロス五輪代表チームが解散してしまった女子バレーボールは、オリンピック・センターでトライアウト(入団テスト)を行った。全米から300名のバレーボーラーが集まり、3日間かけて技術や体力のテストが行われ、最終的には1対1のゲームが行われた。その異色なルールで行われたゲームで最後まで勝ち残ったのが、後にアメリカの代表的な選手となり、更にずっと後、ダイエーで活躍したケムナー選手だった。
そのテストは、五輪チームが解散する前からアメリカが代表チームを東南アジア遠征に派遣することが決まっていたために行われた。選ばれた選手達は、数名の五輪チームの残り組みと合流し合宿を開始、2週間後には東南アジアへと旅立った。にわか作りのチームは、そこで働いていた僕をトレーナーとして引き連れて…。
3週間にも及ぶ東南アジア遠征は、僕にとってもとても勉強になった。香港、シンガポール、台湾、そして韓国と周り、最後には日本にも立ち寄った。香港では、ロス五輪でスーパーエースとして大活躍した195cmの世界的アタッカー、フロー・ハイマン選手やリタ・クロケット選手も合流した。しかし、銀メダルチームが解散したばかりのアメリカ・ナショナルチームは各地で主催者から大きな期待をされながら、苦戦を強いられた!
オリンピック・センターでの1年を終え、さらにNFLのフィラデルフィア・イーグルズというアメリカンフットボール・チームで2ヶ月の経験をして帰国したのが、1985年の秋だった。その後、アスレティック・トレーナーの分野を日本で広めるための講演活動をしていたが、年が明け韓国のソウル五輪対策の一環としてテーピングの講習会を依頼されソウルにも出かけるようになっていた。
耳を疑うようなニュースが入ったのは、そんな冬の寒い日だった。「日本リーグ女子バレーボール松江大会でダイエーのフロー・ハイマン選手が死去。急性心不全と診断された。その日、ダイエーは日立の88連勝を阻止、女王日立に5年ぶりに土をつけた。」
フロー・ハイマン選手の死因は、心不全ではなくマルファン症候群に関連する大動脈瘤の破裂と訂正された。衝撃は、バレー界だけでなく、スポーツ界、医学界、そして広く世間一般にまで広がった。バレーボール協会は、急遽、全試合会場にドクターを配備することを義務づけ、各チームには心配蘇生法ができるスタッフを置くようにとの通達がされた。
その時、NECにはフローと共にロス五輪を戦った戦友が二人いた。スー・ウッドストラ選手とローズ・メジャーズ選手である。フローのニュースは彼女らを仰天させた。簡単に信じられるニュースではなかった。日本語が分らなかった彼女らにも、夕方のテレビニュースからただならぬものを感じていたと言う。女王日立の連勝を命を懸けて阻止した闘将として報道されたが、彼女らには美談ではなかった。深い悲しみは、底なしに深かった。
他の実業団と同様、NECも心配蘇生法のできるトレーナーを探し始めた。その当時、そんな都合の良いトレーナーがゴロゴロ存在しているようなご時世でもなかった。ましてや、アメリカ人のケアもできる英語が話せるトレーナーなんて…。しかし、スーとローズは思い出した。オリンピック・センターにいた日本人を。名前は覚えていない。しかしあだ名は「ハッピー」だった。上から下まで(帽子から靴まで)ナイキを身に付けた頭が大きめの日本人。そう、一緒に東南アジア遠征に言った僕のことだ!
あまりに少なすぎる情報に会社は頭を抱えた。しかし、スポーツアドバイザーの○田さんは、コネクションを持っていた。オリンピック・センターにもそしてナイキ本社にも。更に氏は僕の大学の大先輩でもあった。彼がどこにどう連絡をしたのか知る由もないが、僕の自宅に電話がかかった。「岩崎さん、フローの事は知っているね。今、スーとローズが君を必要としている。一緒に鹿児島に飛んでくれ。」「もちろんです。」僕は、即座にそう答えた。今こうして僕を必要としてくれている人が、どこかで命懸けで頑張っていると思うと居ても立ってもいられなかった。実際、心の深いところから込み上げてくる熱いものを抑えるのが精一杯だった。
1986年2月14日、羽田空港で当時のNEC女子バレー部の部長だった西平さんと合流。鹿児島県の川内市体育館に駆けつけた。それが、NECバレーボール部とのトレーナーとして初めての出会いであり自分自身の魂を揺さぶられる経験とつながったのである。
山下選手の話に続く
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