倒れるまで戦って

山下 美弥子選手(NEC)

初めてNECの女子バレー部にトレーナーとして訪問したのは、鹿児島だった。これからまさに試合をしようかという状況の控え室に迎え入れられた。

ちょうどその週間か前の週末(1986年1月)、松江での試合中に、ダイエーに助っ人外人として来日していたアメリカのフロー・ハイマン選手が、不幸にも命を落とすというバレーボール界ではめったにない惨劇があった。同じくアメリカから二人の選手を受け入れていたNECでは、その二人の強い希望があって資格を持ったトレーナーを探していた。

アメリカ留学中にオリンピック・センターで知り合ったスー・ウッドストラ選手とローズ・メジャース選手が、今度は僕の母国で僕を探し出してくれたことに感動を覚えながら、お互いにとって見知らぬ土地での再会を喜んだ。しかし、本当にそこで僕を待っていたのは、膝が悪い僕より背の低い選手だった。

その膝は、僕に何もできない無力感を与えるに十分な状態であった。軟骨軟化症をはじめ膝蓋靭帯炎、鵞足炎などオーバーユースのほとんどの症状があり、試合直前にトレーナーとしてできることは、ほとんど何もなかったのである。アメリカから持ちかえったばかりのトレーナー・キットから、ちょっと強めの消炎鎮痛剤を渡し、テーピングを巻くことを申し出たが、断られてしまった。

しばらくして体育館に入った僕が目にしたのは、信じられない光景だった。歩くことさえきついはずの162センチの小さなエースは、その当時、誰もが認める女王日立に対して修羅になっていた。コート上にいる敵味方12名の中で、誰よりも跳び、誰よりも走り、誰よりも鬼になっていた。

「あんなに動いて大丈夫なのか」と思ったのもつかの間、いつしか一番小さな大エース山下美弥子選手のファンになり、必死で応援している自分に気が付いた。彼女の一挙手一投足に、鳥肌が立ち涙が溢れた。「どうしてここまでできるんだ、何がここまで彼女を動かすんだ。」

試合終了後の彼女は、動けなかった。自分自身の力を出し切り、精神力で怪我の痛みに打ち勝ち、自分の仕事が終わった瞬間に倒れるほど疲弊していた。もちろん、その日だけではない。彼女は、ほとんど全ての試合で、自分の限界を遥かに超越する働きをし、時には本当に倒れてしまった。練習中もトレーニング中も妥協を許さず、ある時は陸上部の男子部員に挑み、倒れた。

アメリカに戻ってもう少し勉強しようと思っていた僕が、NECのバレーボール部のトレーナーになった。彼女らには、トレーナーが必要だと思ったからだ。でも、山下に必要だったのは、当時の僕ではない。僕は、彼女の役に立てるようなトレーナーになりたかった。自分の限界を超える力をつねに出し切り、人々に感動を与える裏側で、満身創痍になりながら痛みに寝れない夜を過ごす彼女の役に立ちたかった。

山下選手が引退するまでに、そのレベルに達することはかなわなかった。いや、残念ながら、今もまだまだ勉強中である。あれから、13年の月日が流れた。本当に、役に立つトレーナーへの試行錯誤は続く。

そして、引退して故郷の役場に勤める山下選手は、その小さな村のバレーボールチームを全国大会に導いた。国体にも出た。僕が、もたもたしている今日も、彼女はどこかで倒れるほど、頑張っているのだ。(1999年)

追記:
山下選手以前にも、そして今になっても多くの選手達が怪我で引退しています。その度に役に立てなかったトレーナーとして自責の念にかられます。手術をしても復帰できなかった選手達、痛みに耐えながら限界まで頑張った選手達、本当にお疲れ様でした。これからの人生での幸運を心からお祈りします。 2002年のある日


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