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 「あ」
 部室のドアを開けるや鳳が声を上げた。暗い空を見上げ『なんなんだよもぅ』と不満げな言葉が落ちてくる。
 「日吉、雨が降ってきてる」
 「え、……ああ、ほんとだ」
 鳳の背後から覗き見た暗い世界に浮かび上がって見えた銀糸は、まだ細い。
 降り始めたばかりなんだろうか。
 「あ」
 「なに?」
 「カサ、持ってきてない。ここずっと天気良かったから用意して来なかった」
 降水確率を告げる天気予報がここのところ当たっていなかったことも手伝って、二、三日前から折りたたみのカサを持つのをやめていた。すっかりと気を緩めていたらこの雨。運がないと言うか……凹みそうだ。
 「……最悪」
 「カサがないくらいでそんな落ち込むなよ」
 笑った背中がみじろぐのを見て、日吉は星も出ていない真っ暗な空を仰ぎ見た。
 「止みそうにもないじゃないか。濡れて帰らなきゃいけないんだぞ。家に着く頃には全身びしょ濡れだ。浮かれた気分になんかなれるかよ」
 「安心しろ」
 人に安心感を与える暖かな笑顔も今日だけは効果もゼロだ。
 跡部でもあるまいに送迎用の車でも呼んでくれると言うのか。
 「胡散臭すぎ、その顔もうやめろ」
 「あっ。なんだよ。人のハナシは最後まで聞けって。ちょっ、待てって日吉」
 「お前にだらだら付き合ってる時間はない。はなせ」
 早々に帰り着こうと、外に出たらさあっと雨に降り注がれおもいのほか降っていたことを身をもって知ってしまった。早く帰らなきゃという思いがますます強くなり、肘の下あたりを掴むその手を払うため、容赦なく腕を振った。
 「俺は走る。じゃあな」
 「だから待てって!」
 「なんだよしつこいな。カサ持ってないって言っただろ。ちんたら歩いてなんかいられねんだよ」
 「だから人のハナシは最後まで聞けって言ってんの。聞いて損はないから。ね」
 しつこく食い下がる鳳に、いらつきながらも舌を打ち、足を止めた。腕を掴む手の力から勘考して、ハナシとやら言うものを聞かない限りはなしてはもらえそうもない以上、早々にけりをつけるなら聞いてやるのが一番の得策と考えたからだ。
 「わかった。でも手短に話せよ」
 「長くなる話じゃないよ。俺、カサ持って来てるから一緒に帰ろう?」
 「…………ほんとか?」
 「うん」
 「なんだよ! もう濡れちゃったじゃないか!」
 そういうことはもっと早くに切り出して欲しかった。日吉が苛立つ気持ちをストレートにぶつけると、鳳は頬を小さく掻き困ったような仕種を見せた。せめて鳳のうしろで仰ぎ見ていたときにでも『俺持って来てるよ』と一言あったなら。笑うよりも先に、まず、そう言って欲しかった。そう続けると頬を掻く仕種がわずかだが大きくなった。
 「なんだよ! なんか言いたそうじゃないか。言えよ」
 「あー……うん、……そう言うけどさ、人の話聞かないでさっさと飛び出したのは日吉じゃん」
 「そっ、……それは、……」
 たしかにそうではある。まちがってはないと思うが……。
 「くそっ……」
 「ほら、こっちいったん戻って。カサ出すから待ってて。あ。でもその前に髪、濡れたから拭こう。たしかロッカーにタオルが置いて……あった! ほら。拭いてて」
 日吉は放られたスポーツタオルを黙って受け取り、バッグからカサを探す鳳の背を見つめながら髪の湿気をゆっくりと拭きとっていった。
 間もなくして、目が鳳の頭にいった。よく見れば鳳の頭だって濡れている。二人共に少しのあいだ雨の中に立っていたのだ、鳳だって濡れるだろう。
 「ああ、あった」
 「そうか。ほら、お前も拭けよ」
 手が塞がっていた彼のために、日吉は『それだから仕方なく』と言う気持ちを盾にして日吉の手で髪についた雫を拭きとってやった。
 鳳はみじろぎもせずに日吉の手に任せきっている。内心どう思っているのか。
 調子付かせることにならなければいいなと、日吉は一抹の不安を抱くも、手をはなすタイミングがどうにも掴めなくてせっせと手を動かしていく。歯痒い思いをしたまま過ごす時の流れとは、ひどくのろいものである。
 「ん。日吉、もういいよ。ありがと」
 鳳の声を耳にした一瞬、どきんと心臓が跳ね上がった。軽く緊張していたようだ。なにを緊張することがあるというのか。知らずのうちに身構えているなんて自分を見失っていたようなものだ。覚えのない行動を他人に気付かれることほど恥かしいことはない。鳳に気付かれる前に自分ではっと我に返れた日吉は、まさに、幸運であった。
 「日吉? どうしたの?」
 タオルを握ったまま、鳳のことを一瞬失念していたことにはっとまた気付かされ、慌てて、日吉はタオルを突き返す。
 「なんでもない」
 あ。
 突き返してしまったあとでなんだが、こういう場合は洗って返すべきであろうか。
 「鳳」
 「ん?」
 「悪い。洗って返す」
 「え? ああ、べつにいいよ。俺も拭いてもらったし」
 受身であった態度を理由にしなくてもいいのに。鳳のことだから策も略もないのだろうが、ストレートな物言いに日吉は手も足も出なくなってしまう。小競り合いをしている最中にこの技が出ると決まって日吉の負けとなるのだ。
 「お前がそれでいいなら……」
 「ん。じゃあ帰ろうか」
 「ああ」
 不快なものとは種が違うもどかしさ、歯痒さに、じりじりと気持ちが焦がされてゆく。いつの間にやら居心地までが悪くなっている。
 「日吉」
 不吉な予感とは当たるものである。
 たかが声。されど鳳の声。
 弾かれたように小さく、びくんと、本当にほんの僅か、肩が震えた。
 見逃す鳳ではないだろう。
 日吉にも先は見えてしまっている。
 すぐうしろに気配を感じたときも、逃げることはしなかった。
 「日吉」
 背中一面で感じる温もりは、どこかしっとりと涼しく。すぐに首筋に触れてきた指から伝う温もりもひやりとしている。このまま、火照るこの気持ちも鎮めてくれたらどんなに嬉しいか。鼓動を高くするのではなくて。昂らせるのではなくて。それが出来ないのであれば、せめて、この躯の強張りだけでも解いてくれたなら自力で逃げ出せるのに。
 「わか、……」
 「お、……とり、やめろ、……」
 うしろから抱き締められて、腕の中でたいした抵抗にもならない抗いをしてはみても、
 「ヤならもっと本気出して暴れないと。今の全然『ダメ』なように聞こえなかったよ?」
 本気とは見てもらえず、耳の後ろにキスまで落とされたり脇腹をてのひらが撫でおりていったりと、行為はどんどんとエスカレートしていく。
 「ちょっ、鳳っ、……」
 さすがに着替えたばかりの服を乱されるのには抵抗した。
 そういうことに及んでいる時間はないはずだ。
 「帰るんだろ、よせよ……」
 「ちょっとだけ、ね?」
 「ダメだ。お前のちょっとはこの世で一番信用出来ない。俺はもう何度もそれに騙されてきたんだ。だからヤだね。それに、今ならまだ雨足も強くない……。濡れる前に帰ろう。な?」
 「そうだな。……二人が入るんだったら強くなる前に出た方がいいね。残念だけど仕方ないか」
 珍しいこともあったものである。鳳がこれほどの聞き分けの良さを見せたのは初めてかもしれない。
 日吉同様に雨に濡れるのがそんなに気に食わないと言うところだろうか?
 「珍しく聞き分けがいいんだな」
 「ん? だって雨足このあと強くなりそうじゃん。濡れる前に帰った方がいいの
は確かなことだからね。あれ? もしかして拍子抜けしてる? ほんとはいつもみ
たく粘られて押し切られることを期待してたとか?」
 「なっ、……あるわけないだろ!」
 「ちぇっ。相変わらず淡白だよなお前って。俺なんて正直結構キてんのにさ。ねえ、このまま押し倒してあっちこっち触り捲くりたいんだけど、いれないからって約束してもやっぱりダメ?」
 「ダメだ。言っただろ? 少しだけだとか触るだけだとか言ってそれで済ませられたことってないじゃんお前。だから絶対ダメだ!」
 ちぇっ。
 不満げに舌打ちはするものの表情に不満げな色は見えず、それほど切羽詰った感じは見ては取れなかった。
 触れたがりな男のことだ。二人きりという絶好のチャンスと雨という雰囲気に簡単にその気を起こし抱きついたはいいが一本しかないカサで土砂降りの中を帰るのはさすがに大変なことだと、自分でも気付いたのだろう。
 雨に救われたのかな……。
 鳳の指を解く日吉の心境はちょうど、安堵する気持ちと寂しいような感じもする気持ちとが半々ずつといったところか。
 冷静に周りが見れるということは、昂る気持ちも少しは落ち着きを取り戻してきているのだろう。
 高鳴る鼓動は外見からではわからぬのだからしばらくほっといても構いはしないだろう。
 「あ。そうだ日吉」
 「えっ、ああ、……なんだ?」
 あれやこれや考え込んでいる最中は、ほとんど、外への意識がおざなりになっていると言っていいだろう。
 鳳の呼び掛けに、素直に応じてしまったのはごくあたりまえの反応であったと同時に無防備でもあったと言ってもいい。
 「なっ……! ちょっ、ん、おっ、とり、……っん、……」
 警戒することもなく当たり前で振り返った日吉の唇を奪い、あっというまに侵入を果たした舌に翻弄される日吉の背中を摩る鳳に、日吉は思わず縋った。
 無意識であったとは言え、その行動は男を調子付かせるものである。
 逃げる日吉を執拗に追いかけて絡め取り、呼吸することも許さないような口づけが長く続くのは日吉にも落ち度があるからである。
 「……ん、……」
 鼻にかかった声は鳳を煽るだけであることを日吉はまだ気付いていない。
 「わか、若、……」
 「っん、……」
 掻き毟るように背中を縋る手は、果たして、抗議か愛撫なのか。
 日吉にも鳳にも掴めない曖昧さが漂ったものである。
 自分に都合よく取れば日吉にしたら『いい加減しろ』と言う言葉に変換可能なものでもあり、鳳にしたら『もっと』とただ縋っているだけのものだ。
 「わか、……」
 「ん……ま……だ、……する気、かよ、……」
 「ん? こっちもそろそろ抑えがきかなくなりそうだからさ、あと一回したらはなしてあげるよ。……だからこれが多分、……ラストになるはず……」
 「……ちょっ、はずってなんだ、はずって……待て!」
 顎に手を掛けたのはまさにぎりぎりのところ。なんとかセーフ。
 まずは、危機の度合いを量ってからである。
 「なんで急に本気出して抵抗すんだよ……」
 「当たり前だばか。そろそろヤバイとか言ってるお前を野放しになんかできるかよ」
 「大丈夫だって。ちゃんとギリギリんとこでやめるし。日吉も言ってたけど俺も雨足気になってるし無茶なことはしませんて」
 「信じられるかよ」
 「や、でもここは信じてもらわないと困るし。ね?」
 「ちょっ、やめろ、って!」
 優しげな笑みを浮かべながら、引き離そうとするその手にこもる力はかなり強い。
 「ちょっ、聞けよ鳳! もうしなくてもお前さっき結構しつこいのしてただろ!」
 「あれはあれ。ほら、いい加減この手はなせって。日吉」
 「イヤダ。て言うかもうそういう気分じゃねえよ!」
 「あ。それは大丈夫。この手はなしてくれたらもうすぐにでもその気にさせてあげるから。ね?」
 「ね、じゃねえよ! 絶対にイ・ヤ!」
 「もう我侭だなぁ」
 「どっちがだよ!」
 「わかった。じゃあ日吉が俺にキスしなよ」
 「なっ!」
 「それならお前も安心できるだろ?」
 はい、と目を瞑られて、日吉は固まった。
 さぁしてくださいと、身を投げ出されても日吉の方は決心もなにもついていないのだ。
 「ん、ほら日吉早く、……」
 早くと身を乗り出されてもまだ決心なんてものはついていない。
 「してくれないんだったら、俺からするよ。いいの?」
 するよと告げられて、背筋を強張らせた日吉はごくりと喉を鳴らした。
 「……」
 そう言えば鳳には、言い出したらきかないとこがあったっけかと、この追い詰められた状況で目の前に居る男の質を思い出しても、もはやなんの救いにもなりはしない。
 希望を叶えてやらなければ新たな展開も迎えられそうにもないことをようやく受け入れることのできた日吉は、崖っぷちに立たされたような心境の中で、意を決して言ってやった。
 「……わかった。いま叶えてやるよ。けど! 絶対に目! 開けるなよ! いいな!」
 忠告を与えるとふっと、鳳は口元を和らげた。
 日吉はぎゅっと唇を噛んでそんな彼の首に腕を巻きつける。もうやけくそである。
 そのまま引き寄せて、最後に自分も目を閉じてから自分のそれを彼のそれに重ね合わせた。
 時間にして数秒。まさにちゅっと、合わさっただけの稚拙なそれ。
 「…………」
 日吉には、鳳のその表情が不満そうにも見えるし呆気に取られているようにも見えた。
 「……」
 「なんだよ。文句あんならはっきりと言えよ」
 してくれと言うからしてやったのだ。どういう風にしろとまでは指定されていない。ご希望通り叶えてやったのだからこの場合文句を言われる筋合いはないはずである。
 「……文句っていうかなんていうか、その……え、それで終わりなの? って感じゃなかった? いまの……」
 「贅沢言ってんじゃねえよ」
 「贅沢なこと言ってるかな? そうかなぁ?」
 「あーもううるせえ」
 納得いかないと言いたげな顔をして口元に手を当てる鳳に、日吉は手を伸ばしてそこを塞いでいる手をその場から引き剥がすと、不意をつかれてしまった鳳の上唇をぺろんと、舐めた。
 「どうだ。これで満足しとけ」
 「お前さ、……」
 「……んだよ、まだ文句つける気なのかよ」
 「ちがうよ。そうじゃなくて……煽るなよ……」
 にやけてくるのだろう口元を隠す鳳に、日吉は軽蔑の眼差しを送った。
 「勝手にてめえでてめえを慰めてろ。俺は帰らせてもらう。じゃあな」
 「あっ! ちょっ、待ってよ日吉! カサ! カサ! 大事なもん忘れてってるよ!」
 「もういい。いらない」
 「なに言ってんの。――あ、ほら……けっこう降ってきてるじゃん」
 ドアを開けて飛び込んだきたのは、質量の増した銀糸。
 どうやら、雨足は強まってしまったようである。
 「折りたたみには結構辛い降りかなぁ? でもまぁささないよりはましだろうから肩が濡れるだろうけどそれは我慢してな?」
 この雨足の中、あまり大きくはない折りたたみを二人で使おうと言うのだ。お互いに外側の肩が犠牲になるのは仕方のないことである。
 「全身びしょ濡れになるよりはましなんじゃねえの?」
 言うと、ばさりと翼が広げられ『じゃ帰ろうか』と、日吉の頭上にそれが差し出された。

 

 水溜りを作る地面に足を下ろした日吉に、楽しげに鳳が言った。
 「相合傘っての、いっぺんやってみたかったんだよね。へへ、偶然とは言え叶って思ったんだけど、部活が終わったあとに雨が降ってたらさ、たまにでいいからこうやって二人で並んで帰ろうよ。ね?」
 自分からキスを仕掛けたときよりも、ダイレクトに好きと告げられるときよりも、この鳳の言葉の方が日吉の胸の鼓動は高鳴った。
 あまりにどきどき言うので、カサの柄を持つ鳳の腕とぶつかって歩くこの環境の中で落ち着かせるのは難しいと、数歩歩いただけで負けん気の強い彼でも早々に悟ってしまう。
 激しく動悸を打つ胸の音を気取られやしないかと気がきではない日吉は、鳳と肩を並べながら、その隣で、不謹慎にも、もっと雨足が強くなればいいのにと、水溜りに広がる波紋から目を離せないままカサを叩く雨音がこのあと大きくなることを願うのだった。










END
(03.07.21)

 


 

相合傘で喜ぶトリってどうよ。可愛いじゃないの。
単純だけどエッチしちゃってるくせしてなんだけど、中2っすから彼らも。
青く可愛いとこはいっぱいあって当然じゃん!!

そしてピヨ。あらあら大変。乙女モード入ってる?

いやいや、なんやかんや言ってもトリのことが大好きだから『あるあるある!』…はい皆で合唱しましょう。

とにかく相合傘!
好きな人とこれするのって結構胸どっきんこものです。むしろ濡れてもいいからもちっと離れて歩きてぇー、…と内心では絶叫してまっせ。はい。もうホントに。

トリと違ってストレートに感情が出せないピヨは苦労人です。

ちくしょう、俺だって好きにきまってんだろ!…きっと好き好きうるさく言う鳳に、ピヨはやっぱり内心でこう吐き出してそうだ。それも泣きそうに歪んだ表情して。

うわぁー!もうどうしよ!苛めたいわ!

おまけっす。

 

日吉「あ。じゃあ鳳、俺はこっちだから。助かったよ」
鳳 「なに言ってんのさ。家まで送るよ」
日吉「えっ……。だってお前んちとは逆になるんだぞ。いいよ。ここからならもう近いし。走って帰るから気にすんな」
鳳 「走ろうが近かろうがこの雨の中に出たら家に着く頃には全身ずぶ濡れになるだろ。ここまでカサさしてきた意味なくなるじゃん」
日吉「それはそうだけど……いいのか?」
鳳 「いいから送るって言ったんじゃん。ほら、行こう」
日吉「……あ、ああ……」
鳳 「あのさ。ほんと気になんかしなくていいから。俺がそうしたくてしてるんだし。それに。日吉と歩ける時間が増えたことでむしろ俺は嬉しく思ってるから」
日吉「…………」

日吉くん、心臓がどきんこどきんこ言って、結局最後までまともに鳳の顔が見られなかったそうな。うしろ姿をずーっと、じーぃと見送る日吉の姿がしばらくあったとかなかったとか。

 

やー熱い熱い。

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