「日吉」 「先輩。どうしたんですか、二年の教室に何か用ですか?」 「意地悪言うなよ。用があるとしたら日吉にだよ。ね、ちょっと席外せる?」 「いいですけど、遠出は無理ですよ」 「しないよ遠出なんて。そこの踊り場までちょっと付き合って」 三現目が終了したあとの休み時間。たった十分と短いにも構わずにジローは日吉のクラスまで訪ねてきた。急いで来たのだろうことがわかるほどに息を乱して前髪までをも乱して現れた彼に、日吉は驚くも顔には表さずに鬱陶しそうな態度で対応しつつ要求には応じてやった。 そして彼のあとについてやってきた東校舎の踊り場。棟の端にある為か利用する生徒は少なく、ついでに日当たりも良くなくこの季節は結構寒いのである。 「で、用ってなんですか?」 踊り場の窓から外を覗くジローに声を掛けて日吉も彼の隣に並んだ。 学校の敷地と公道とを仕切る壁の向こうには住宅街。ひっそりとしていて人の通りもない。 車も通らないし校舎の裏なだけに生徒の姿もなくとても静かな光景である。 「土曜日、暇?」 「土曜日、ですか?」 カレンダーを思い描き、日吉は考える。 土曜日に特別な用事は何も入っていない。部活も休み。あいていると言えばその日は確かに躯はあいている。 「……ええ、多分……これといって用事は入ってませんから」 「ホント? じゃ、デートしよう!」 「デ、……デート……?」 「そ! 遊園地とか行かね?」 その時のジローがあまりに楽しげに笑うので、嫌ですとは言えなくなって、戸惑いながらもつい、日吉は頷いてしまった。 しまったと、あとから後悔してももう遅かった。嬉しげな顔を見てしまって益々日吉は苦しめられた。 男同士で出掛けるだけなのに『デート』なんて単語使わないで下さい――本当は言ってやりたかったのに楽しみだと笑う顔に阻まれ、せりあがってきていても飲み込むしかなかった日吉に一体ジローはどんなプランを語ってくれるのか。嬉しげな顔が今はとにかく日吉には怖い。 「…………」 出掛けたことなんて何度かあるのに改めて『デート』なんて言葉を使われるととてつもなく緊張させられるのだ。 普通に出掛けようと言ってくれるだけで済むのになんて狡賢い人なのであろう。 先週だって映画を見に行ったのに。その前の週末にだって泊まりに行ったのに。 「……で、どこの遊園地へ行く予定なんですか」 「横浜。みなとみらい。買い物もしたいし、でも実は一番連れてきたい場所は中華街。知ってる人が勤めてる店があるんだ。美味しいとこだよ。楽しみにしててね」 「横浜……結構遠出ですね。でも中華街は初めてなんで楽しみです」 「美味しいものいっぱい食べさせてあげるよ。朝抜いて来んだよ。いいね」 「わかりました」 「じゃ、俺もう戻るね」 そう言い残して去るジローを見送ってから、一分程黄昏たのちに日吉も教室に戻った。 「あれ? 日吉どこいってたのさ」 イスを引いたちょうどその時。鳳が教科書を抱えて後ろのロッカーから戻ってくるその途中に立ち止まって掛けなくともいいものを声を掛けてきた。 「――ちょっとな」 「あ。もしかしてジロー先輩?」 名前まで出されてしまっては白々しくシラを切り通すことは不可能である。 席に着く前に一応、頷いてやった。 「もしかして土曜日とかにどっか行こうとか誘われただろ」 その言い方は断定されているようで放ってはおけなかった。 「お前、なにか知っているのか?」 「なにかって?」 「とぼけるなよ。俺たちが出掛けるってなんでお前知ってるんだよ」 「あ。やっぱり誘われたんだ。そっかぁ」 「鳳」 「睨むなよ。だって土曜日って言ったらバレンタインじゃん。ジロー先輩うきうきしてただろ」 バレンタイン!! 言われてようやく思い出した日吉は、その場で頭を抱えてうずくまった。 バレンタインと言えばあの、チョコが飛び交う日でもある。 望むと望まざるとその日をメドにして告白をしてくる女の子も多いと聞く。 まさか自分がそのバレンタインなどと言う行事に巻き込まれる日が来ようとは! 「……最悪だ」 「日吉?」 「一言もバレンタインなんて言わなかったぞ……! 汚ねぇ……!」 「そっか。お前うっかり忘れてたんだね」 がばりと顔を上げた日吉に、教科書を意味もなくぱらぱら捲りながら鳳がとどめとなる一言を発した。 「で、チョコとかは用意してあげんの?」 日吉は奥歯を噛み締めながらイスにどかりと荒っぽく座り込んだ。 チョコだと? 誰が誰にやるって? まさか俺に買って用意しろと言うのか? されをあの人に当日『どうぞ』と渡せと? ――ふっざけるなぁぁ!!!! 沸点に達した怒りに思わず拳を叩きつけてしまった。 鳳が驚いて飛びのくが構わずにもう一発日吉は同じ場所に拳を叩き落した。 ふざけるな! ふざけるな!! チョコなんてものを誰が用意なんかするものか!! 俺は男だ! バレンタインなんて行事には興味もないのだ! イベントで盛り上がりたいなら勝手にすればいい! 俺は知らない! 関係ない!! チョコもバレンタインも一切関わる気なんてない! 「そんなにチョコが欲しけりゃ誰かほかのヤツに頼め!」 「ちょっと日吉! お前なに怒ってのさ。て言うか他の誰かから貰えってそれはないよ。だってあの人が好きなのは日吉なんだしデートに誘われたのも日吉じゃん。ダメだよ。一年に一回のことなんだからその日くらい日吉も素直にならなきゃ。て言うかそう日でもなければお前素直になれないだろ? 固いこと言ってないでその日くらいは優しくしてあげなよ。きっと喜ぶよ?」 「バレンタインだからなんて一言も言わなかった! ただ普通に出掛けたい素振りで誘いやがって!」 「わかんないなあ。なんで日吉はそんなに怒ってるんだよ。べつにバレンタインだからってことを説明されなくたって全然問題ないじゃん」 「ある!」 「どこにあるんだよ」 「バレンタインを口実に何を言い出すかわかったものじゃない!」 「何かって?」 「知るか! だけど絶対に我侭言い出すに決まってる!」 「ジロー先輩が日吉を困らせるのなんて毎度のことじゃん。今さらなことに何拘ってるんだよ」 日吉は『今さら』と言う言葉を聞いて気楽そうな鳳を睨みつけた。そして彼の手にあった教科書を掴むとそれを机の上に勢いよく叩き付けた。 「確かに今さらだよ。けど、むやみやたらに我侭を言われるのと違って口実を作ってその我侭を突きつけてくるんだぞ! 厄介なことこの上ない状況じゃないか!」 バレンタインないんだからいいじゃないかと、居直るジローの姿が日吉には浮かんできて仕方がない。 半ば彼の迫り方は脅迫にも似ているだろうと思えてきて堪らないのだ。 確かにジローが我侭を言って日吉を困らせるなんてことは日常茶飯事の事で決して珍しくはない。 だけどイベントに乗じて何事かを画策しているだろう危険性が秘められていそうな『その日』に突き付けられるだろう我侭はきっといつになく日吉を困らせるであろう。 思うにそれは我侭と言うよりもお願いにもっとも近いものではないだろうか。 目の前で手なんかを合わせて頭を下げてそしてきっと『お願い日吉!』とかなんとか言ってくれそうだ。 とは言うものの『お願い』と言う名を騙った、それはきっと脅しなんであろう。 「……絶対、碌な目に合わない……!」 過去の記憶と言うものは一生消えない傷と同じものでいつまでたっても心に残っているものだ。 なぜ嫌な思いをした記憶ほど鮮明に覚えているのだろう。早くに忘れたいのだからそんな記憶はさっさと封印してしまえばいいものを、思うようにならないなんて実に焦れったい。 過去を教訓にして相手に対して慎重になることはいいことだと思うが、結局は振り回されてしまう結果を考えると、いつまでも記憶にあると言うのも思い出すたびに悔しい思いをしなければならず、自分が不運だということを改めて思い知るだけのような気がして、本当にいっそう記憶完全消去ボタンというものが欲しくなってくるのだ。 「……振り回される俺も俺だけど、甘えてみたり拗ねてみたり……我侭過ぎるんだよあのヒトは……」 「ねえ」 「……なんだ」 「それって惚気てるの?」 「違う! 困ってるってことを訴えてるんだよ!」 「……へぇ」 鳳は、右頬の内側を舌で押しながら、疑惑の目で日吉を見た。 「……んだよ、その目は」 「べつに」 下から睨み上げる日吉に肩を竦めて無理につくったような笑みを浮かべると机の上の教科書に手を伸ばした。 「そんなに困ってるんだったら付き合うのもうやめたら?」 「そ……」 一瞬、日吉は言葉に詰まった。すると鳳が引き取りにやって来た。 「そこまでは困ってないって?」 「…………」 「なーんだやっぱりさっきのアレは惚気てたんじゃん」 「ちがうっ……!」 「はいはい、そういうことにしといてあげるよ」 「だからちがうって言ってるだろ……!」 「日吉さ、耳が真っ赤だよ」 日吉は咄嗟に自分の耳を手で押さえ隠した。 「もういいっ……! お前に愚痴った俺が考えなしだったんだ! もういいから席に戻れ!」 「照るなよ」 「貴様っ……!」 「あはは。ジロー先輩の気持ちもわかるなあ。お前ってほんと構うと楽しいね」 のんびりとした調子で笑う鳳に、日吉はカァーと全身を熱くさせた。やり込められるようにして差し俯いた日吉は、首のうしろと、そして足の裏がじんじんと疼いていることにこの時初めて気がついた。 ジローとのことで突付かれると決まって日吉は苦しい状況に追い込まれるのだ。対処しようにも焦るからか、急に言葉に不自由し、どう切り抜けていいのかといつも途方に暮れてしまう。 「お前じゃさ、どう抵抗してもあの人には勝てないよ」 慰めたつもりか、教科書で頭を軽く叩いてそんなことを鳳が言い出す。 「日吉は大変だろうけどジロー先輩の我侭に振り回されながらも愛想が尽きないってことは、なんだかんだ言っても結局は情が勝ってるからだろ。だったら寛容にならなくちゃ。苛々しても日吉の一人相撲なんだからいい加減腹括ってむしろ甘やかしてやったらどうよ」 日吉は、自分の頭に乗る手を無言で払い除けた。 勝ち目がないことくらい言われなくとも自覚している。 日吉がどんなに嫌な顔をしても纏わりついてくるし冷たくあしらってもめげないし、とにかくジローはある意味日吉よりも粘り強かったと言っていい。 辟易したところを言い包められるようにして、いつもいつもジローの笑顔だけが輝いていた。 ジローには一生勝てない、喜ぶ彼の顔を目にする度にそう零したものだ。生涯振り回されるのだろう自分というものを日吉もどこかで覚悟していたのかもしれない。 だけど男として、そう素直に認めてしまうことは出来なかった。 鳳に慰められたこの状況においても『なんで俺ばっかりが我侭に付き合わされなくちゃならないんだ』と不運を嘆くことしか出来ない。 だからと言って日吉が我侭を言っても滅多に言うことがないからか、たまの我侭に『日吉が我侭言ってくれた! すげぇ嬉しい。なんでもきいてあげるからもっと言ってよ』と逆に強請られてしまうのだ。 相手を喜ばせてしまったらそれはもう我侭ではないだろう。 なんであんたを喜ばせてやんなきゃいけないんですか、むかつくと、まとわりつく手を払うのが最近のパターンだ。 「お前はよく知らないからそんことが言えるんだ。甘やかすってことはつけあがらせるってことだ。調子付かせるような真似しろってのかよ。冗談じゃねぇ……ふざけんな……」 「……意固地だねえ日吉は」 「うるさい!」 「もしかして日吉ってマゾ?」 「マ……っ!」 俺のどこが? と訊ねようとしてそうやって過剰に反応するから面白がられるのだと気付き、日吉は口を結んだ。 そして携帯を取り出すと短くメールを打った。 もちろん受取人はジローだ。 『土曜日、キャンセルします』 きっと、それを見たジローは飛び出してここまでまたやって来るだろう。 日吉は携帯をしまうと立ち上がった。 「どこ行くのさ」 「我侭大王と会ってくる」 「もうすぐ授業始まるのに?」 「メール送ったからあっちも今頃こっちにむかって来てるだろうから途中で掴まえる」 「急にどうしたのさ」 「べつに。寛容になれと言ったのはお前だろ」 「確かに言ったけどそれとさぼりとがどう結びつくんだよ」 「確か北校舎の二階のフリースペースにある自販機に、ココアあったよな」 「あったと思うけど……まさかそれで代用しようとか考えてる?」 「俺から貰えるんだったらなんでもいいって言うよあの人なら」 「……あー……そぅ……」 「先に手を打つ。バカ騒ぎなんかに付き合えるかよ。これで仕舞いだ」 「そう簡単にうまくいくかなぁ」 踏み出しそうとしたその矢先の言葉に足を止め、日吉は軽く鳳の頭をはたいた。 「なにすんだよ」 「うるせえ。なんでお前はそうやってなんにでもケチつけるんだよ。ウソでもいいから、けしかけたのはお前なんだから励ましやがれってんだ薄情者が」 「よく言うよ。励ましたら励ましたで気楽でいいよなとかなんとか文句つけるくせに。日吉こそすぐそうやって手だとか足だとか出すクセなんとかしなよ。まずは口で言ってくんない」 「ばかやろ。お前と違って俺はそれほど口が達者じゃねんだよ。おい、適当に誤魔化しといてくれよな」 「はいはい。だったら帰りがけに俺にもブリックパックのコーヒー牛乳買って来てよね」 手を振る鳳を横で見ながら日吉は歩を進めた。そして数歩先に行ったところで足を止めると、 「忘れなかったらな」 「そう言うこと言うんだったら頃合見て俺も携帯にメール入れるからね」 「おい、よせよなそんなこと」 その時にもしもまだジローが傍に居れば一騒動起きる事は必死だ。 拗ねたジローの機嫌を取るのがこれまたなかなかと梃子摺るのだ。 「わかった忘れない。買ってくるよ。だから絶対それはするな。いいな!」 鳳は忽ちに満足気な表情を見せた。その彼に『じゃ、気をつけて』と手を振って見送られながら日吉は教室を抜け出した。
ココア一杯でジローを騙そうとした日吉だったが、普段そんなに優しくしてあげてなかったせいでえらくジローを舞い上がらせてしまって飛んだ目にあったと言う話をブリックパックをお土産に、音楽室で再び鳳に愚痴るのだが、 「だから言ったじゃんかよ。そう簡単にうまくいくのって。ネコにマタタビやってどうすんだよ」 と、慰めにもならないようなことを言われてしまい、その日の昼休みには再び不運を嘆いていた。 END (04.02.14)
ジロ若なのにジロちゃんの登場時間があまりにも短いよ! そして鳳若よりも鳳若っぽいよ! しかも仲良しだ!! 今一度確認しよう。 このお話はジロ若? 鳳若? 決まってます! ジロ若です!!! 鳳クンと日吉クンは仲良しなんですか? そうです。仲良しさんです。お悩み相談しちゃうくらいに仲良しさんです。鳳若とちがってラブがないぶんライトで超仲良し。 愛があるとねぇ、色々とねぇ、うん、複雑になっちゃうのよね。 とにかく、ジロ若のバレンタインはこんなカンジかなーと思ったさ。可愛いコらだよまったく。 |