粟食う劉備、パン食う呂布
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小説や映画、ドラマやマンガに至るまで、好きな作品であればあるほど細かいデティールはとかく気になる物。特に、「『ハイジ』の白パン」や「『赤毛のアン』のいちご水」、「『ギャートルズ』のマンモス」などなど、登場する食べ物の味を想像した方は多いのでは無かろうか。というわけで、吉川英治版三国志を中心として、三国志の舞台に登場する食べ物を紹介し、可能な限り実際に作って食べてみる。そんなコーナー。参考文献はこちら。 ちなみに、筆者は料理についてはド素人である。念のため。 |
めにう
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兵糧(主食)
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肉
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腹が減っては戦はできぬ。というわけで、「三国志演義」にも兵糧に関するエピソードは沢山登場する。官渡の戦いでは兵糧の奪取が勝敗を分け、孔明の北伐では食事を作るときに煙が立つのを利用して敵の目を欺き、退却に成功する。 劉備くん家の食卓 三国志の舞台は100年代終盤から200年代前半であるが、この時代の中央部・・中原以北でずっと主食となってきた穀物は粟である。これは栽培が容易である、日照りに強い、栄養価が高く吸収がよい(豆も栄養価が高いが、吸収が悪い)等の理由による。漢の時代になってから灌漑や鉄の農機具が普及してきたことで、この地域でも稲作が可能になってきたようであるが、それでも庶民まで米食が普及したかどうかは怪しいところである。上記の文章にお米が出てこないのは、劉さん家が極貧だからというのではなく、主食とするほどの流通量がなかった、と考えた方が良いのかも知れない。一方長江流域では、黄河文明以前より稲の栽培が始まっており、米を主食とする文化が存在していたようである。これら穀物はいずれも、粉にせず炊いて食べる粒食であった。炊き方は一旦ゆでてゆで汁を捨て、改めて蒸し上げる方式。いわゆる「湯とり式」と呼ばれる炊き方だろうか。 とはいうものの吉川三国志では多くが「糧米」と表現されていて、実際どのくらいの割合で米食だったのかは・・・また調べます。教えて偉い人。 粉で食べる穀物の代表、小麦については下の項で。 食べてみよう。
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主食の話でもう一つ。現代の中華料理で欠かすことができない主食としては米の他に、小麦がある。小麦は大麦と一緒くたに扱われていたが、漢代に外来種の小麦が持ち込まれたことで生産性が上がったのではないか、と考えられている。小麦粉食の先駆けは「餅」。現在で言うすいとんやラーメンの原型である。練ったものをスープで煮て食べていたようだ。 さてこの時代、後漢中〜後期には西域との交流(というか鉄砲玉的な部下の派遣)を中心として文化交流が盛んとなり、特に都市部では食文化にバリエーションをもたらした。その中心にいたのが、かの霊帝。政治をおろそかにして酒色に耽ったこの人、相当な胡(西域異民族)マニアで服装から道具まで胡風なもので固めていた。早い話が外国かぶれだったのである。ある意味、文化的に貢献していたと言えなくもないが・・。 りょ、りょ、呂布だーーーーー!! その霊帝が愛した食事の代表が「胡餅」。どのようなものであったかについては資料がほとんどないらしいが、丸形のゴマつきパンのようなものであったとのこと。またこれを作る「胡餅炉」は上の空いた円錐形をしており、内側に生地を貼り付けて焼く、とある。現代のナン焼き用窯はこれとよく似た形なので、ほぼ同じ物だと想像できる。また中東地域でもこのような内壁に生地を貼り付ける釜と普通のオーブン釜が併用されており、また遊牧民はらくだのフンを焼いた灰の中に生地を埋めて焼く。むむ。 ところで、なぜ表題が呂布なのかというと、王粲の「英雄記」に呂布の進駐軍をとある町の有力者が牛を殺し、酒をぶら下げて、1万枚の(!)胡餅を持って軍を歓待した、との記述がされているのである。胡餅はこの頃各地に普及したようであるが、胡兵を率いた董卓の部下でもあった彼のこと、この胡餅ことパンが大好物だったのかも知れない。また、呂布来たれりの報を聞いて1万枚(たとえでなく実数だとすれば)もの胡餅を用意できるのであるから、一般への普及率もかなり高かったとも考えられる。 中国・内モンゴル自治区には、「羊バーガー」なる食事があるらしい。トルコのドネルケバブも焼いた羊肉をピタパンに挟んだものだが、ひょっとして呂布もこんな感じで食べていたのかも・・・? 食べてみよう。
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吉川英二版「三国志演義」では、むしろ売りで生計を立てている劉備が、母のために2年間貯めたお金で洛陽の商船から茶を買う、というエピソードがある(これは吉川版独自のものらしい。ここで劉備は黄巾族に剣と茶を奪われ、黄巾の一団に潜伏していた張飛に助けてもらう)。ここで述べられているのが、貧しい劉備はもとより黄巾の首領である張角ですらそうそう飲めるものではない・・・という程高価なものである、ということ。では実際の所はどうだったのだろうか。 劉備が買ったのはウーロン茶ではございません 茶はもともと「荼」の字を当てられており、前漢の時代にはすでに文献に登場している。王褒という人物の「僮約(どうやく。奴隷との契約証文らしい)」に『武陽買荼』という言葉があり、少なくとも武陽(現在の四川省。成都の近く)では茶が製品として存在ている・・・つまり茶を飲むという習慣が成立していたという証拠になるのである。しかし、茶が一般庶民に飲まれる程に普及するのは唐の玄宗時代(712〜756)まで待たねばならず、100年代末期の若き貧乏青年こと劉備君には、買ったそれが本物なのかどうかも判別できないような代物であったと想像できるのである。 さて、中国茶は緑茶(日本のそれとほぼ同じ)、黄茶、青茶(いわゆるウーロン茶)、黒茶(プーアール茶など)、白茶(福建省や台湾などの特産で、高級品)、そして紅茶に分けられるが、実は緑茶以外の製茶方法が確立したのは古くとも400年前らしく、この時代には緑茶以外の製法は存在しなかったのである。よって劉備が買い求めたのは緑茶、なのでありました。 ちなみに三国志(正史)の中では、呉の四代目皇帝である孫皓(もともとは才能あふれる人物であったが、皇帝になってからは酒色に溺れ、宴会では全員酒を七升≒1.4リットルを責任量として飲ませるというどこかの体育会のようなことをしていた)の重臣である韋曜(いよう)が酒を飲めなかったため、彼だけは酒は二升だけで、あとは茶を飲んでごまかすことを許された、というエピソードが紹介されている。とはいっても、ビールならともかく、酒を飲めない人には500mlでも結構辛いと思うのだが・・・。 飲んでみよう。
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近所のコンビニで買える中華まんは、どうやら包子(パオズ)と呼び、 饅頭は、具が入っていないものをそう呼ぶらしい。 饅頭は、諸葛亮が発明した、といわれる俗説がある。 孔明が本当に発明したかどうかはともかく、お供えにされていた、というのは本当だろう。日本でも仏壇にはお饅頭だ。井村屋の肉まんは供えないが。 食べてみよう。
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