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4月17日〜

4月14日〜4月16日

大阪

4月14日

午前11時前に、大阪南港K2埠頭に到着。当時は、現在よりも航空運賃が高かった。お金はなかったが、時間はあったので、上海まで、船で行くことにした。乗り込む船は、鑑真号。客室は、貴賓室・特別室・1等室・2等室と分かれているが、当然、一番安い2等室を申し込んだ。タイタニックのディカプリオみたいだ。残念ながら、船上でのロマンスは、なかった。

船には、たくさんの日本の電化製品やオートバイを積み込んでいた。一人のイギリス人が、ビザ(中国政府が、入国を認めた証明)なしで乗船しようとしていた。もうかなりの年齢のようだが、垣間見たパスポートには、多くの国々の出入国スタンプが押されていた。今からは、想像できないかも知れないが、当時の中国は、誰でも自由に行ける国ではなかった。招待を受けた人や団体旅行は認められたので、表面上は団体旅行ということで、私たちはビザをもらった。

船内では、孫悟空の服を着たドラマーやノーベル賞受賞者を出している国立のK大学の大学院生たちと同室だった。部屋といったって、床から30cm位の高さの壁(?)が廊下との間にあるだけなので、2等客室全部が1つの部屋のようなものだ。もちろんベッドなどはなくて、床の上に毛布をかぶって寝るだけだ。

帰国後読んだ写真週刊誌によると、ドラマーの人は、北京に行き、天安門前広場で、「毛沢東よ、目を覚ませ」という題のドラムをたたき、警官に制止され、チベットのラサのポタラ宮殿の見える丘の上で、ドラムをたたいたそうだ。カイバル峠まで越えたとか?ちょっと記憶が定かではない。いやぁ、驚きだ。

K大の大学院のお兄さんは、以前にも行ったことがあり、そのときに中国が好きになったそうだ。学会で日本に来ていた中国の大学の先生も同室だったので、その先生と器用に中国語で話をしていた。日記は英語でつけているし、K大バンザイである。

我是日本人 Wo shi Ribenren. 私は日本人です。

補足

上記文中の「ドラマー」氏と連絡がついた。ホームページも公開されている。お名前は「のなか悟空」氏。世界をまたにかけてドラムをたたく姿をご覧になりたければ、こちらへどうぞ。天安門前での演奏曲の題名に誤りがあったようだ。ホームページがアドレス変更になり正しい名前が分からなかった。どこかのページにあると思うのでご確認を。

4月15日

暇だった。卓球台がおいてあった。

この船の名は、「鑑真号(鑒真号)」。中学校の歴史教科書にも出てくる「鑑真」である。彼は唐(中国)の僧で、奈良時代に、何度も日本に渡ろうとして、失敗を重ね、失明(目が見えなくなること)してしまうが、6度目の挑戦でようやく念願を果たした。この執念。恐ろしいほどだ。まさに死ぬ気でやっていた。そうそう、唐招提寺という寺の開祖。

鑑真も利用したのが、「遣唐使船」。かなり危なかったらしい。はじめのうちは、朝鮮半島の沿岸を進む北路をとっていたのだが、新羅と仲が悪くなって、途中から南路(東シナ海を突っ切って長江に入るルート、鑑真号とほぼ同じ)や南島路(九州の南東諸島を経由するルート)をとるようになったらしい。どちらも、東シナ海航海中は、逃げ込める港はなかった。それでも、当時の一部の知識人たちにとって、唐の都に上ることは夢だった。阿倍仲麻呂は17歳のとき、留学生として唐にわたり、役人となって玄宗皇帝にも仕えた。53歳のときに帰国しようとしたのだが、難破してベトナム(安南)に漂着してしまい、長安までもどり、70歳で生涯を終えた。詩人の「李白」「王維」とも仲が良かった。王維は仲麻呂の帰国送別会で「送秘書晁監還日本」という題の詩を詠んでくれている。また、李白は、仲麻呂の船が沈んだと聞いて、死んだと思い込み「哭晁卿衡」という追悼の詩を詠んでくれている。


もろこしにて月を見てよみける   阿倍仲麻呂
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

4月16日

丸2日かかったが、船酔いはしなかった。東シナ海は、比較的穏やかなことが多いらしい。

今日は、上海上陸の日。6時には眼がさめる。10時半には着くということだったが・・・。と思いながらデッキに出てみると、8時には、陸が間近に見え出した。もやのたちこめる川(長江・揚子江)の中に入ってからは、大きいのやら小さいのやら、船の数が増えだし、鑑真号の速度も遅くなった。上海のビルが見え始めた。

クリックすると、拡大画像が別のウインドウで開きます。
黄浦江から眺める上海中心部 サムネイル1
黄浦江から眺める上海中心部 サムネイル2
黄浦江上の鑑真号から眺める
上海中心部1
黄浦江上の鑑真号から眺める
上海中心部2

上海

船は、定刻通り上海(Shanghai)に着いたが、入国審査などが込んでいて、12時前にようやく入国。出口では、「誰々」と名前の書かれた紙を広げた人たちが、たくさんいて、取り囲むようにして、私たちを見ている。

人ごみを抜けて、上海大厦(ブロードウェイマンション)という22階建てのビルを目標に歩き出す。不意に後から、片言の日本語で、「日本人か?」とたずねられたので、日本人だと答えると、英語で、“Can you speak English?”ときかれ、それからは、英語での会話となった。私は、大学の2年生以来、英語とは縁の遠い生活を送ってきたので、話は友人(同行したH氏)に任せ、笑っているだけだ。多少聴き取りはできて、話し掛けてきた中国人は、各国をまわっている船乗りで、現在は2週間の休暇中だそうだ。あちこち歩かされて、ジュースをご馳走になった。“Oh, Mild Seven!”というので、タバコは1箱あげた。

これは、あとからわかるのだが、彼が話し掛けてきた目的は、人民幣(中国人民が普通に使うお金)と、日本円または外貨兌換券(我々外国人旅行者が使うお金)との交換だった。当時の中国では、カラーテレビや外国製のタバコ・洋酒などの輸入品・高級品は、外貨兌換券でしか買えなかった。また、免税措置が適用され、人民幣で買うより安く買える場合もあったようだ。そのため、通常外貨兌換券1に対して、人民幣1.2くらいの交換比率なのだそうだ。そのときは、そんなこと知らなかったので、ほぼ1:1で、日本円と人民幣を交換してしまった。

予約はしていなかったが、新城飯店というホテルに泊まろうと思っていた。そのことを船乗りのお兄さんに話すと、申江飯店の方がいいという。感謝を述べ、別れてからそのホテルへ向かう。まごまごして、ちょっと行き過ぎたようだ。地図を見ていると、おしゃれなジャケットを羽織って、薄く色の着いためがねをかけた若者に、「日本の方ですか」と声をかけられた。結構きれいに日本語を話す。自称、上海外語大出のエリートで、月に600元(約24000円)を稼いでいるという。当時の中国人の平均月収は、数千円だったと思うので、これが本当ならば、まさにエリートである。日本語の勉強のために、日本人に声をかけているという。

申江飯店まで案内してもらい、フロントに空き部屋の有無まで訊いてもらった。部屋は空いてないという。いいホテルがあるからと、華僑飯店というホテルまで連れて行ってもらい、ツインで一人一泊45元(約1800円)で泊まることになった。私たちが行こうとしたホテルよりは、高級である。部屋に入り、重い荷物を置いて、外語大出と上海の街に繰り出す。バスは込んでるし、こじきは寄ってくるし、人は多いし、ツッパリ兄ちゃんはいるし、さすが上海は大都会。南京路(Nanjing lu)は、人が多すぎて歩けない。車道に、はみ出して進んだ。レストランで食事をした。街で、例の孫悟空のドラマーに会った。今日は、上海音楽院の招待所に泊まるという。少し話して別れる。

歩道橋から眺めた南京東路 サムネイル 歩道橋から眺めた南京東路

上海雑技団(サーカス)は、人気が高く、当日券も前売り券も手に入れるのは、ほとんど不可能だ。雑技場前にダフ屋がいるので、開演直前でも手に入るらしい。いや、外国人ならパスポートを見せれば買える。ガイドブックには、いろいろ書かれている。その旨を外語大出の若者に伝え、明日ぜひ観(み)に行きたいと言うと、知り合いから、チケットを手に入れてやるという。明日、雑技場の前で会う約束をして別れた。

ホテルに戻る。む、何てことだ・・・・・。H氏、どうもしっくりこないので、以後はY君ということにする。Y君は、短波も入る小型ラジオ(結構高級品)を持ってきていたのだが、そのラジオなど数点と私の財布が、まるでどこかに置き忘れて来たかのように、静かに消えていた。狐につままれたようだ。このホテルのセキュリティーは、どうなっているのだ。まさかホテルの従業員が・・・。

冷静に考えてみた。Y君との検討の結果、外語大出が怪しいということになった。以下の話を読めば、賢明な読者諸君はすぐに気づくだろうが、私たちは抜けていた。

華僑飯店に泊まるとき、フロントとの交渉(中国のホテルは、当時「はいそうですか」とあっさり泊めてくれるところばかりではなかった)は、外語大出が中国語でやってくれた。一応少し勉強していったのだが、話にならない。まったくわからなかった。キーは彼が持って、部屋を開けてくれた。部屋で少し話をして、三人で出かけることになった。Y君と私のかばんは、二人ともスポーツバッグの親分みたいなもので、布・ビニール製であった。ジッパーのつまみと端の部分に、小さな穴が空いているので、小さな南京錠を掛けられるようになっていて、その南京錠も持っていたので、掛けていくべきか外語大出にたずねた。彼は、「掛けていっても良いが、面倒ならば掛けなくても良いでしょう」と言った。結局掛けなかった。部屋のカギは彼が閉めて、ホテル前の大通りの南京路を横切って、バス(中国では「公共汽車(Gonggong qiche)」という)の停留所で、バスを待った。しばらく話をしていたと思うが、何分ぐらいだったかは記憶にない。外語大出は、トイレに行くと言って、再び南京路を横切って消えてしまった。

ここで、当時の中国のトイレについて書いておかなければならない。上海の百貨店や喫茶店には、客用のトイレはない、と思ったほうが良い。その代わりに、市内に公共厠所(Gonggong Cesuo)というのがあるそうなのだが、知らない人が探すのは大変なのだ。上海の場合、区部の人口密度は、東京23区の約4倍なので、一般家庭がトイレを確保するスペースはない。彼らも公共厠所を利用する。しかし、小さい用を足すのに、いちいち行っていては面倒だ。そこで、馬桶(マートン)というオケを部屋の片隅に置いて、そこで用を足すのだという。ある程度たまったら、近くの公共厠所に捨てに行くらしい。さて、その厠所だが、ほとんど、紙はない、扉や壁もない。丸見え。男なら良いけど、女性だったら・・・。絶対に、ホテルで用を済ませて出発すべきだ。もちろんこれは、当時の話で、一部は上海に限ってのことなので、現在の中国には当てはまらない、と言っておく。

さて、何分ぐらい待っただろう。多分、10分から15分程度だったか。外語大出が、戻ってきたので、一緒にバス、そう公共汽車に乗って、レストランへ。それから、彼の友人が、近くで結婚式をしているというので、それをチラッと見に行った。ドラマーと話して、それから、雑技団の話・・・。その間のいつだったか、ホテルのキーを「僕が持ってしまっていた」と渡してくれた。私が受け取ったのか、Y君が受け取ったのか、今は忘れてしまった。そのときは、「いつ」「誰に(どちらに)」返してもらったのか覚えていたが、本当に記憶にない。いやな事は忘れたいのだ。

別れて、ホテルに帰ったあとでは、あとの祭りだ。いつ盗られたのかは、わかったと思う。中国に来て、いきなり、いきなりだ。ジャブがカウンターで入った。しかし、これくらいでは、ダウンすることはできない。こうして中国での第一夜は、暮れていった。

厠所在口那儿? 在口那 在口那儿?
Cesuo zai nar? zai na zai nar?
トイレはどこですか。どこ、どこにありますか。
(注)「口那」は、これで一つの文字

Lonely Planet Shanghai City Guide
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D02 地球の歩き方 上海 杭州・蘇州・水郷古鎮 2011〜2012

4月17日〜
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