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4月23日〜

4月20日〜4月22日

南京

4月20日 晴れ

上海より人は少ないが、相変わらずバスは込んでいる。バス代金は安くていいのだが・・・。そうそう、上海では見かけなかったのだが、ここでは、スカートをはいている女性をたまに見かける。買った地図によると、南京は、西安・洛陽・北京と並んで、中国4大古都の1つで、5千年以上前に原始氏族村落ができ、2千年前以来、数10もの王朝が都をおいた所である。

これも地図の受け売りなのだが、南京は伝統的な革命都市でもある。太平天国の乱のときは、11年間首都となったし、中山先生(孫文Sunwenのこと)の指導した辛亥革命では、臨時政府が建てられた。

今日は、まず「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」という長い名前の記念館に行く。南京大虐殺とか南京事件と呼ばれている1937年12月の日本軍南京占領時の写真などが展示されている資料館だ。重いテーマで、筆も重くなる。虐殺現場と思われる写真が所狭しと貼られていて、日本人にはつらい資料館だ。もちろん中国人にとっては、もっとつらいと思うのだが。

侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館 30万人の数字が刻まれた
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館

作者は、数年前に3週間ほど病院に入院した。そのとき、南京城攻略に参加した方と同じ部屋になった。彼の話を聴くこともできたが、このテーマについては、私自身深く調べたわけではないので、いい加減なことは言わない。しかし、戦争はぜひなくしてほしいと願っている。

この記念館は、城外に建てられており、この辺りは江東門と呼ばれている。周りは田園地帯で、耕運機などが大きな音を立てて動き回っている。ずっと市街地ばかりを旅してきたので、新鮮だ。

バスで、南京城内のやや南部にある三山街という所まで来た。そこから歩いて北上。途中の道は並木道で、上海では見られなかった自転車が走っている。人の数も少なくいい感じ。

三山街から金陵飯店への道 三山街から金陵飯店への道
中華路か中山南路
自転車専用路と歩道
自動車専用はさらに内側

南京一の金陵飯店にたどり着く。広い吹き抜けのロビーでは、多くの外国人観光客がくつろいでいる。ホテル内には、高級なみやげ物店が入っている。私たちも2時間ほど休憩。

玄武湖公園に出かけた。城内のほうから歩いていくと、入り口が門であることがよくわかる。入り口の左右は高い城壁になっている。中国では、市街地全体を城壁で囲った。そこに住む住民ごと篭城(城にたてこもり相手の攻撃を防御すること。相手の兵力が圧倒的に多い場合はこうするより仕方がない)したりするのである。日本のお城とは感覚が違うのである。万里の長城を造った国だと言えば、納得できるはず。玄武湖は城外だが、湖岸の半分が城壁に接している。

玄武湖内には、梁洲・翠洲・環洲・桜洲・菱洲という名前のついた5つの島が浮かんでいる。その5つの島と岸とが結ばれており、歩いて渡ることができる。歩いて渡ることができるくらいの大きさなのだが、島には動物園もあったりするのだ。春のかすみの中で、湖が美しい。


請到南京来玩儿口巴。 Qing dao Nanjing lai wanr ba.
どうぞ南京に遊びにいらしてね。(「口巴」で1文字)

4月21日 晴れ

南京長江大橋を見に行く。全長6,700mのこの橋は、3番目に長い長江大橋だ。道路が上で、鉄道が下にある2段式の橋だ。最近こういう立派な建築物を見ても驚かなくなったのは、私だけだろうか。素直に驚きたい。いや、素直に驚いていないのか。

長江の水は、黄色く濁っている。黄河は確かに黄色いイメージがあったが、長江はもっと澄んでいると思っていた。左から合流する支流の水が対照的にきれいだ。

クリックすると、拡大画像が別のウインドウで開きます。
南京大橋1 新しいアパート群と火車
南京大橋2 長江の流れ
南京大橋3 長江の流れ
南京大橋から眺める
新しいアパート群と火車
南京大橋から眺める
長江の流れ
南京大橋から眺める
長江の流れ

南京と対岸とは、この大橋だけでなく、フェリーでもつながれている。その船着場の近くの川岸に座り、ボーッと長江を見ていた。対岸には工場が見える。コンビナートになっているのか、いろんな建物がある。

南京大橋4 長江の流れ
船着場近くの川べりから眺める長江
南京大橋と長江の流れ
船着場近くの川べりから眺める
長江の流れと対岸

急流の多い日本と違って、中国では古くから川船というのは、重要な交通手段であった。長江流域はその最たるものだ。三国時代の前触れとなる赤壁の戦いは、この川をさかのぼった所で行われた激戦だ(三国志演義を読んでくれ)。川船で戦うほどなのだ。もちろん、上海から南京まで船で来ることもできた。あまり気がなかったので、時間は調べてないが・・・。その気なら、もっと内陸部まで船でいけるようだ。

ホテルに預けていた荷物を受け取って、南京火車站へ。午後8時発の直快列車(直通急行)に乗り込む。快適な寝台。洛陽(Luoyang)までおやすみ。


とうとうと 流れる大河 長江よ お前は何を 見てきたのか

洛陽

4月22日 晴れ

朝9時過ぎ洛陽東站(dongzhan)着。洛陽火車站という大きな駅もあるのだが、手前の東站で降りたほうが、宿泊予定のホテルに近いのである。地図を見るとすぐそこなので、歩いて洛陽賓館(Luoyang binguan)まで行く。相変わらず荷物重し。駅を出て歩き出した。明らかに今までとは雰囲気が違う。黄色い土壁にはさまれた舗装していない道。荷車や自転車が行き交い、土ぼこりが舞う。唐代はおろか、漢の時代と変わらない風景のようだ。

しかし、洛陽市は、多くの工場が建ち並ぶ工業都市となっていた。市の中心も工場群と旧城内の中間に移っていた。その中心からまっすぐ北へ行くと、洛陽火車站がある。この辺りの道は舗装され整備されているが、旧城内は昔ながらの商店が、低い軒を並べている。バスが通るたびに土ぼこりをかぶりながら。

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洛陽賓館は旧城内にある。私の渾身の中国語が通用しない。英語も無理な人にあたったので、筆談筆談。中国はこの奥の手が使える。ツインが40元2角。おいおい、トイレが流れないぞ。文句を言いに行ったが、要領を得ない。水が出る時間が決まっているのか〜?

昼食をとりに、ホテル内の食堂へ。ほとんど中国人旅行者である。中国人は豪快だ。たくさん注文して、いろんな種類を食べる。食べかすがテーブルに山のように積まれていく。いやー爽快だ。食べ残しも気にしない。それに比べると、私たちはつつましいものだ。目測を誤って注文しても、もったいないから、具なし饅頭を無理に詰め込む。うー、苦しー。5元。

考えてみたら、日本人も会社の慰安旅行など宴会で、はめはずしてお酒なんかをたくさん注文して、翌朝精算のとき上司や幹事から大目玉、なんてことはよくある。中国人も日常生活では、つつましいのだろう。

当時中国は、外国人専用ホテルと中国人旅行者のホテルとの区別があった。今まで泊まったホテルでは、中国人旅行者にはお目にかかっていない。このホテルの敷地内には、複数の建物があり、中国人旅行者もたくさん宿泊しているようだ。洛陽市の花は牡丹(ボタン)

殷・周・春秋・戦国・秦・前漢・新・後漢・三国・晋・・・。高校の世界史で覚えた。そんなものは、日常生活で使わないから忘れて当然だ。でも、私の記憶の中に、洛陽は残っている。その洛陽は悲しい。殷を倒した周王朝(『封神演義』を読んでくれ)の周公旦(しゅうこうたん)などによって、中原(ちゅうげん:当時の中国の中心部)に、にらみを効かせるために、首都以外の根拠地として洛陽が選ばれた。もちろん、副首都として華々しい時期があったに違いないが、周王室の力がしだいに衰え、幽王(ゆうおう)の時代には西北の草原地帯の犬戎(けんじゅう)民族が、陝西省西安近くの首都に侵入し、幽王は洛陽方面へ逃走途中殺されてしまう。太子は諸侯に助けられながら、洛陽で平王となるのだが、名目上の宗主として祭り上げられただけで、以後は群雄が割拠する春秋・戦国時代となる。


子曰、甚矣吾衰也。久矣吾不復夢見周公。   論語

子曰はく、甚だしいかな、わが衰えたるや。久しいかな、吾また夢に周公を見ざるや。

先生(孔子)はこのようにおっしゃいました。
私も随分気力が衰えてしまったものだ。
もう長い間、私の尊敬する周公の夢を見ないようになってしまった。

D01 地球の歩き方 中国 2012〜2013

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